日本における本格的な貨幣制度は、江戸の草創期・1601(慶長6)年に徳川家康の手で、金貨(慶長小判)や銀貨(慶長丁銀)が鋳造されたことに始まる。この貨幣の鋳造場所は、金が現在の日本橋本石町であり、銀は言うまでも無く中央区銀座である。
貨幣には、金銀の他に、優劣二つに区分された銭貨(銅貨)が用いられたが、幕府は流通させるに当たって、貨幣間の法定交換価格・御定(おさだめ)相場を設けた。それは、金一両で銀50匁になり、二つの銭貨のうち良質な永楽銭(中国・明からもたらされた銅貨)では、それが一貫文に、また粗悪な銅貨と位置付けられる鐚銭(びたぜに)では、四貫文と換算された。
通貨単位が、両・匁・貫と昔の尺貫法で表されているのでわかり難いが、簡単に換算率を述べると、小判1枚で丁銀50枚、永楽銅銭1000枚、そして国内で生産された粗悪な銅銭・鐚銭(びたぜに)では4000枚と交換されることになる。蛇足だが、「びた一文、負けられない」と例えて使う「びた」とは、この粗悪銭・鐚のことである。
こうして貨幣を作り、それを社会に流通させて経済を回す時、どうしても必要になるのが通貨間の両替。御定相場に基づいて、貨幣を自由に交換出来なければ、円滑な金融の流れとはならず、いつまでたっても健全な貨幣経済が成立しない。
そこで貨幣の交換を業とする商売・両替屋が生まれたのである。両替屋は、金から銀へ、あるいは銭へと交換する際に、1~2%の手数料を徴収して、業務を請け負った。使い勝手が良くなるようにと、高額な貨幣から少額貨幣に両替をする「切賃(きりちん)」の方が、手数料は高くなった。両替屋は貨幣社会が発展するに従い、貨幣を交換するだけに止まらず、為替や貸付など各種の金融業務を行うようになる。つまりは、現在の銀行の出発点が、江戸の両替屋だったのである。
さて、400年以上の時を経た令和の両替屋では、取引に関わる各種手数料が、高くなるばかりである。つい先頃も、ゆうちょ銀行が硬貨の預入に手数料を課すことを発表したが、すでに大手都銀では、数年前から硬貨扱いが有料となっていて、ゆうちょは最後の砦だった。
これでは、硬貨を「金にして金にあらず」と捉えているようなもので、貨幣交換を出発点とした「両替屋の精神」など、今いずこである。もっとも、リアルな貨幣のやり取りを「時代にそぐわない」と考えている今の社会では、小銭の必要性などもう無いのかもしれないが。
両替屋が勃興した桃山から江戸。これと時を同じくして、社会の中に広がった服飾が小袖である。そしてこの小袖こそが、現在のキモノに連なる原点だ。小袖は、江戸の時代が進むに従って、形式や加飾方法、また模様あしらいなども変化したが、ほぼこの時代の中で、今に至るキモノの様式は固まったと見ても良いだろう。
今日は、小袖の袖丈や脇開けの変化を経て生まれた、振袖という品物の経緯を辿ってみたい。今年も成人式典で、多くの女性に装われた振袖。だがそこに見られる多くの品物は、質も大きく変わり、装い方もコスプレ化するなど、両替屋の業務のように形骸化している。すでに「時代にはそぐわない」のかも知れないが、振袖の歴史を遡ることで、改めてこの衣装の意味や意義を考えてみる。読まれた方が、振袖と言う品物の本質に、少しでも触れて頂ければと思う。二回シリーズの今回は、振袖として装うようになった小袖の構造に注目し、さらに次回は、文様や加飾方法にスポットを当てることにする。
うちの娘たちが着用した三点の振袖。誂えられた時期は、一番右の枝垂れ桜模様が1980年、真ん中の青海波模様が1988年、左の松竹梅模様が2014年。それぞれの品物の間には、30年以上の時間の開きがあるが、画像で図案を見る限りは、どれが古くてどれが新しいのか、見分けはつかない。振袖に限ったことではないが、キモノや帯には、どれだけ時代を経ようとも変わることのない、こうしたスタンダードな意匠が存在する。
加飾技法やあしらわれる文様が不変ならば、キモノとしての構造もまた、変わることはない。いずれも、江戸300年の歴史の中で、現在の形式に固まっていったものだ。では小袖から、どのようにして振袖が生まれてきたのか。それは「振り」に関わる箇所の変化を辿ると、理解しやすい。どこがどのようにして変わり、今の振袖の形状となったのか。まず「脇開け」という部分から見ることにしよう。
袖付の下に、脇を大きく開けた「振り」が付いている。これが、「振袖」の語源だ。
小袖が衣服化したのは、室町中期から桃山期にかけてだが、この時代その形状は、今のキモノとはかなり異なっていた。最も特徴的なのは、身巾が極端に広く、袖巾が狭いこと。身巾は、前巾と後巾がほぼ同じ寸法になっており、胴を包む裾回りが2mにも及ぶという、現在では考えられない広さになっていた。また袖巾が狭いがために、裄も短くなっていて、全体を通して見れば、上半身は窮屈で下半身は広々とした姿である。今のキモノからすれば、極めてバランスの取れない恰好と言えよう。
けれども、こうした特殊な姿は、17世紀末・元禄の頃までに解消される。身巾は前巾が狭くなって、袖巾が身巾に近づく。それにより、当然裄も長くなった。大方の小袖の形式は、元禄以降・江戸中期までにはほぼ固まり、それは現代に至る様式の中でも、ほとんど変わっていない。
身頃側の脇開けが、身八つ口。袖側の脇開けが、振八つ口。身八つは、子どもモノと女モノに付いている口開けで、女モノで通常4分(15cm)ほど。この開きの役割は、袖付止まりのほころびを防ぐためのもの。
小袖が衣装として一般化した近世初期には、振りの付いている小袖(振付小袖と言う)は、産着や小裁(こだち)と呼ぶ幼児用の衣装に限られていたものの、桃山期に入ると、脇の開いた長い袖丈の小袖も散見されるようになる。例えば、この時期に活躍した狩野派の絵師・狩野長信の描いた「花下遊楽図屏風」や名古屋城の襖絵に描かれた風俗図の中では、いずれも脇開け長袖の小袖を着用した女性の姿が描かれている。
それまで多くの小袖は、脇開けは無く、袖丈もせいぜい1尺3寸程度と短い姿だったが、これ以後は子どもモノだけではなく、若い女性や元服前の少年が着用する小袖様式に、脇開け・振り袖を取り入れるようになっていく。なお江戸期までは、少年は女性と同等にみなされ、成人男性とは対照的に捉えられていたと考えられている。
こうして脇を開けて、振りを作ったことが、振袖の生まれる大きな要因であり、その着用を若年男女に限ることも、黎明期の桃山時代にすでにその気配が現れている。そしてその傾向は、江戸に入って顕著となり、それが時代を追って長くなっていく袖丈にも表れてくる。脇を大きく開け、袖を長くすること、それこそが「振り」を強調することになり、うら若き女性の美しさを際立たせる、いわば「シンボル」となっていったのだ。
三枚の振袖を使って、江戸期に見られる袖丈の長さを再現してみた。右の短い袖から、2尺2寸(元禄期)・2尺5寸(享保期)・3尺(宝暦期)
桃山期に振袖が現れた理由を考えて見ると、まず第一は、小袖が衣装として定着したことであり、加飾も摺箔や刺繍、絞り(辻が花染)など、多彩な方法が確立されていた。この時代、絢爛豪華な意匠を製作することが可能であり、実際に誂えられてもいた。そこで考えられたのが、より衣装の華やかさを強調するためにどうしたらよいのか、ということだろう。そして注目されたのが、袖の長さや振りだったのである。だからある意味で、模様表現の技術革新が振袖を呼び込んだ、とも言えるのかも知れない。
振袖の袖丈は、江戸初期の寛文期(1670年頃)に1尺7、8寸だったものが、中期の元禄期(1700年頃)では2尺2寸、享保期(1730年頃)には2尺5寸と徐々に長くなり、宝暦期(1760年頃)には、現在の寸法とほぼ同じ3尺となる、
そして袖の長さが確立した江戸後期(1800年代)には、友禅や刺繍、絞りといった加飾技法を駆使した、贅をつくした振袖が作られるようになる。初期の頃、振袖は若い者の衣裳ではあったものの、必ずしもフォーマルな場面だけに着用するものではなく、日常の衣裳としても用いられていた。だが、江戸後期以降に見られる意匠を凝らした振袖は、武家女中や裕福な町家や商人娘の婚礼衣装として着用されており、模様にも吉祥の意味を含む図柄が多くなっていた。おそらくここで、振袖が未婚の第一礼装の装いと確立されたのであろう。
松竹梅模様は、代表的な吉祥文様。江戸の昔も、令和の今も、スタンダードな振袖の意匠であることに、変わりはない。
今は、未婚の第一礼装として位置づけられる振袖だが、江戸の時代には、着用の目安となる年齢があったようだ。それを裏付ける記述があるので、ご紹介しておこう。作者は、江戸を代表する俳諧師・作家の井原西鶴である。
「・・・少年の時は脇明の袖下長く、男子は十七の春定て丸袖に成し、女子は縁に付くも付かざるも、十九の秋塞ぐこと、律儀千万なる代も有って過ぎける。今時芝居子卅六七までも、大振袖は是れ世渡りの種ぞかし。・・・」(1695・元禄8年作 浮世草子「西鶴俗つれづれ」より)
ここには、男子の振袖着用は17歳の春までで、以後は丸袖(脇を塞ぐこと)を着用し、女子は「縁に付くもつかぬも」、つまり未婚既婚を問わずに、19歳の秋には脇を塞ぐと記されている。脇を塞ぐことは、振りを無くすことであり、すなわちそれは、袖丈を短くすること。とすれば、江戸の振袖着用年齢はかなり若く、女子はたとえ未婚であっても、その年齢が来れば装えなくなっていたことになる。掲げた文章の最後にある、「芝居子36,7までも」とは、当時性を売る女性たちが年齢を偽る手段として、36,7歳まで振袖を着用していたこと。自分を若く見せるために使うとは、現代的に言えば、コスプレ的な振袖使用になろうか。
振袖は、このような構造的な経緯を辿り、現代では未婚の第一礼装に使う品物として認識されるようになった。キモノの原点である小袖、それが江戸300年の中で様々にアレンジされ、今に至っている。こうしたことは振袖に限らず、例えば、帯の大きな変容やそれに伴う結び方の多様化、あるいは、キモノ丈の長大化に伴うおはしょりの出現など、和装におけるドラスティックな変化は、ほぼ江戸という時代の中で起こっている。
この時代のキモノや帯の有り様が、現代に続く和装の原点になっていることは、間違いない。次回は、文様や図案から江戸期の振袖を振り返り、それが現代の振袖の意匠として、どのように繋がっているか、見ていきたいと考えている。
先日、銀行の硬貨受け入れに手数料が伴うニュースの中で、困惑する神社関係者の話を聞きました。お賽銭は、ほぼ小銭ですから、それを預け入れる際に過大な手数料が発生するのでは、たまったものではありません。小銭と言えども、お参りした人々の心が込められたお金。両替屋が、そこから勝手に手間賃を引くことなど、不埒なことと言えましょう。
今は、ありとあらゆる場所でキャッシュレス化が進んでおり、近い将来、リアルなお金で払えるところが、無くなってしまうように思います。こうした現状を見るにつけ、私はお金の有難みや重みが、どんどん薄らいでいくような気がします。効率や利便性を追求するあまり、本質を見失う。そんなことにならないと、良いのですが。
もしかすれば、そのうち神社の境内には、賽銭箱が撤去され、スマホのキャッシュレス決済用端末が、ズラリと並ぶかもしれません。そうなれば、神様はびっくりし過ぎて、願い事を聞く耳は持たないと思います。そんな時代が来ないことを、心から祈っております。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。