バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

7月のコーディネート  網目状の透織・羅帯を、青楓絽小紋に合わせる

2021.07 26

「神の存在や宗教の教えより、教会という場の方がはるかに、意味深い救いを人に与える場合がある。」 これは先日、朝日新聞の朝刊コラム・折々のことばで紹介されていた写真家・志賀理江子の言葉の一節だが、選者である哲学者の鷲田清一氏は、「一冊の本より、書店という空間を大事に思うのも同じ」と解説している。

 

私は、書店が存在する意義は、規模の大小でも、品揃えの良し悪しでも、欲しい本の有無でも無いように思う。今は、希望する本を探したり、手っ取り早く買おうとするならば、「リアルな本屋」よりネットの方が効率的なことは、誰もが認めるところだ。昔のように、本を買うなら本屋へという単純な行動パターンは、すでに通用していない。だから、本屋の経営は行き詰まり、急速に街から本屋が消えている。

だが今、わざわざリアルな本屋を訪ねる客は、店へ行く目的が、求める本を購入するためだけではない。いやむしろ、買いたい本は無いが、ふらりと入って、読みたくなる本を探すという人が多いように思える。ネットでマウスを持ちながら、サイトを行きつ戻りつして探すより、ふらふらと歩きながら、棚に並んでいるタイトルに目を配り、面白そうな本を探す方が楽しい。そう思える人が、書店へと足を運ぶ。

ありとあらゆるジャンルの中から、「これは」と思う一冊を見つけることは、宝さがしみたいなもの。こんな「非日常の空間」を彷徨うことが出来る場所が、本屋なのであり、それこそが店が存在する意義かと思える。つまり、置いてある本が何かなどとは関係ない、違う次元で、人々から必要とされていることになるのだ。

 

私は、呉服屋の存在意義も、こうした本屋と似たところがあるような気がする。本と同様に、呉服屋が扱う様々な品物にも、各々に意味があり、文化的な背景がある。そして専門店になれば、フォーマルにせよカジュアルにせよ、経営する店主の好みが、品ぞろえに如実に反映される。

そんな店に来店されるコアな和装ファンは、目的とする品物の有無に関わらず、ふらりとやってきて、店の主と雑談しながら、何とはなしに品物を見ていく。モノを買うか買わないかなどは、最初から問題ではなく、「呉服屋と言う非日常の空間」を楽しんでいる。「いつもと違う不思議な時間」を持ちたい人がやってくる場所、それが呉服屋であり、それこそが、店として存在する意義なのではないか。

 

バイク呉服屋では、扱う品物の7割以上をカジュアルモノが占める。そして有難いことに、こんな疫病が蔓延する世の中になっても、呉服屋の空気を吸いに、ふらりとやって来られる方が結構おられる。ブログでご紹介している品の多くは、そんなお客様方に、いつもちらりとお目に掛けているものだ。今月も、さりげなく棚に並ぶ品物の中から、今の季節に相応しいキモノと帯を選び、組合せてみよう。

 

(オフホワイト地 菱文様・羅八寸名古屋帯  空色地 青楓文様・絽小紋)

呉服屋では、暑い夏の時期(7~8月)に使う品物のことを、「薄物(うすもの)」と呼ぶ。これは文字通り、薄手の織物の総称であり、従来は羅(ら)や絽、帷子(かたびら・麻布の単衣モノ)、透綾(すきや・絹経糸と緯苧麻糸で織った絹縮)などのことを指していた。

現在、夏用の絹生地として使われているのは、絽と紗。正絹のキモノや帯、襦袢生地のほとんどが、この二つの織り方によるものだが、僅かに羅という技法を用いて織られているものが、帯において見受けられる。

絽も紗も羅も、表面に隙間を生じる織物であり、この生地の姿が風通しの良い、いかにも涼しげな着姿を演出するのに一役かっている。この三つの織物が持つ隙間は、「搦(から)み織」とも「捩(もじ)り織」とも呼ばれる織物組織によって形成されるが、基本的には、地の経糸と経糸の左右によじれながら緯糸と組み合う経糸とで、生じる。

 

菱形の網の目が生地表面に空き、模様が浮き上がる羅織の帯。川島織物による製織。

捩り織で組織された織物の中で、特に隙間が広く、まるで鳥を捕る網目のように粗い外観を持っているのが、羅である。この織組織として、細い網目状の捩りと広い籠目状の捩りを併用し、文様を織りなす「文羅(もんら)」があり、この技法はかなり古く、すでに奈良期には見受けられていた。

隙間で文様を形作る文羅は、格調高い夏の織物として、高貴な人々に珍重され、透け感が広がる軽やかな質感が、夏衣の素材として最適とされた。それは、袍(ほう・奈良貴族の衣服)や裳(も)、そして裳の裾・裙(くん)などに多く使われ、また冠や烏帽子、狩衣にも用いられていたことでも判る。

 

この文羅の精巧な美しさは、高度な織技術を必要としたために、次第に使用が少なくなり、平安末期になると衰え、室町期にはほとんど姿を消してしまった。この羅の技術を復元したのが、いずれも人間国宝の喜多川平朗(きたがわへいろう)であり、北村武資(きたむらたけし)であった。そして会社としては、川島織物が1925(大正14)年から製作方法の研究を始め、後に復元に成功して、今も僅かながら帯を製織する。

今日コーディネートでご紹介する帯は、この貴重な技術・文羅を駆使したもの。どのような織組織で、どんな着姿に映る品物なのか、じっくりご覧頂こう。そして羅に相応しい夏キモノには、何を選べば良いのかも、考えることにしたい。

 

経糸が複雑に絡み合い、まるで編み物のような外観を持つ羅の織組織。紗や絽は、二本から数本の経糸を一つの単位とした「単独捩り」であるのに対し、羅は「織物全体が連続的に捩れて連なっている状態」なので、通常の力織機で織ることは到底不可能であり、経糸を捩るための特殊装置・振綜(ふるへ)を用いなければならない。

羅が日本に伝来したのは、五世紀頃と推定されており、当然正倉院にも様々な羅織の裂が所蔵されている。その中には、強撚糸を使い、三越の平組織と一越の籠捩りを一つの単位とし連続させて、レース編みのように織り出した「ほう羅」と呼ばれている珍しい裂も見られる。

隣同士の経糸を絡ませながら、地の部分は目の粗い籠捩りに、文様の部分は密な網捩りで織りなされている。ご覧のように、織目は菱状に捩れて網状になっているが、これは、網目を作るために緯糸を打ち込む際に、経糸の一部を右あるいは左に寄せて、隣り合っている経糸、あるいは二、三本飛ばした横の経糸に絡ませ、その間を緯糸を通すようにして出来たもの。

羅織の組織を拡大してみた。籠目と網目の連続形で文様が形成されていることが判る。織り方に制約があるため、どうしても、この帯のような菱文系の文様が多い。では、この特殊な絡み菱文の羅織帯に相応しいキモノを考えて、コーディネートしてみよう。

 

(空色地 染疋田青楓模様 絽小紋・千切屋)

この羅の帯には、地にも模様にも色の気配がなく、織組織の網目・透けた菱文だけで、夏帯らしい涼し気な雰囲気を醸し出す。なので、合わせるキモノの地色はどんなものでも、うまく融合する。そしてシンプルな帯姿により、染モノでは、絽や紗の小紋はもちろん、軽いフォーマルの色紋付、付下げあたりまでは使うことが出来、カジュアルの織物では、上布や小千谷縮の麻系や夏大島、夏結城、また絹紅梅や綿紅梅にも合わせることが出来る。考えてみれば、かなり使い道の広い便利な帯と言えよう。

型染疋田を使って表現された青楓の葉。挿し色はこの二色だけだが、この単純さが、すっきりと爽やかな絽小紋に仕上げている。

今回組み合わせた品物は、明るく鮮やかなスカイブルーの地色に、青楓を散りばめた飛柄の絽小紋。澄み切った空の色は、いかにも夏らしく、また緑と黄緑の楓は、暑さに負けない、生き生きとした姿が印象的な夏葉。楓という図案は、色の気配により旬が異なり、赤や黄色ならもちろん秋の文様で、このような緑配色だと夏の文様になる。

 

空色の無地場が多い小紋なので、お太鼓にした時、透けた帯の文様がはっきり映り、なお涼しそうに見える。キモノが写実的な楓図案だけに、幾何学菱文の帯を合せると、バランスが良くなる。

キモノは絽、帯は羅。どちらも織表面に隙間のある捩り組織だが、こうして並べてみれば、羅の複雑さが際立つ。そして、組織を文様として表現してしまう「織の凄さ」も理解出来よう。

帯の網目を通して、キモノの地色や模様が浮かび上がる。羅ならではのシルエット。

小物は青楓の色を使う。帯〆は、明るく少し蛍光的な青りんご色・アップルグリーンを使った二色の綾竹組紐。絽の帯揚げは、キモノ地色より薄い水浅葱色の暈し。帯に全く色が無いので、合わせる帯〆の色目を替えるだけで、着姿の印象が変わっていく。こうした羅織帯の場合は、小物の工夫が装いのカギになるだろう。(ぼかし絽帯揚げ・加藤萬 綾竹組帯〆・龍工房)

 

今回は、隙間のある生地を使った夏姿を考えてみた。織によって網目や籠目を作り、その目の姿を文様としてしまう。これほど精緻で複雑な羅織が、すでに1400年も前から存在していたことに、驚く。そこには、人間の「織」に対する高い意識が伺えよう。

近代になって、様々な困難を乗り越えて復元された羅織の技。いかにして、こうした作品を後世に残していくか。それは羅だけではなく、数多くの染織品に対しても同様に、極めて困難な課題として今、突き付けられている。

最後に、今日ご紹介した品物を、もう一度ご覧頂こう。

 

リアルな店舗の役割が、単なるモノの売買だけに限られているとすれば、すでに存在意義はありません。そして、その店に出向くことでしか得られない「何か」が無ければ、この先商いの継続は難しくなるでしょう。

この「何か」とは、何か。それは当然、各々の店ごと、また扱う品物によっても異なるでしょう。けれども、消費者に足を運んでもらえるだけの「動機付け」が無ければ、店の価値は無くなってしまいます。

私が思うところ「何か」とは、自分の店がお客様にとって、「日常から離れて、楽しむことの出来る空間」になっていることと思います。そのためには、きちんと作り手の話が出来るような「手仕事の品物」を置くことだけでなく、和装を楽しむために有意な、様々な知識や知恵をお話し出来ることがどうしても必要になります。

「楽しい」と感じて頂けるための努力を怠ったら、呉服屋としての仕事に、未来はありません。だからこそ、心して掛からねばならないのです。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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