早いもので、このコラムブログもこの5月で、8年目を迎えます。53歳から書き始めた私は、今年で還暦。この7年の間、呉服屋としての自分の仕事に大きな変化はほとんどなく、淡々と時間が過ぎてきたような気がします。
地方の小さな呉服屋が、毎回必要以上に長い文面で書く雑文。それは特別なことではなく、題材は、毎日の仕事の中にあります。つまりは、「リアルな呉服屋の日常」と言うべきものでしょう。
そんなとりとめのない、このページを訪ねて来られた方は、昨日現在で、90万人を越えています。ブログ上には掲載していませんが、記事の購読数は、約142万。これは当初、まったく予想していなかった数なので、もちろん嬉しく有難いことではありますが、正直なところ少し当惑しております。
私がこのブログを始めたきっかけは、呉服屋の仕事とは何かを、とにかく多くの人に伝えたかったからです。読まれた方が、「何をしているのか」を知ることで、和装に関心を持って頂いたり、理解を深めて頂く。これが、このブログを書く目的の「全て」なのです。
文章を書くことは、あまり苦にしませんが、文才がある訳ではないので、不調法なところが多々あり、読者の方々には、さぞご迷惑をおかけしていることでしょう。けれども、当初より更新回数は減りましたが、私の「伝えたい気持ち」は変わることなく、何とか7年間、ブログを維持することが出来ました。
そこで節目にあたる今日は、残り時間が少なくなってきた私の呉服屋としての仕事が、これからどのようになっていくのかを、お話してみようと思います。漠然としたテーマなので、まとまりが付かないかもしれませんが、その点はお許し下さい。
今日のウインド。鶸色葡萄模様・絽小紋、薄ピンク縞・夏牛首紬、水色桔梗模様・絹紅梅、菜の花色鉄線に兎模様・麻九寸染帯。浴衣は、瓢箪柄の褐色コーマ、雪輪に波千鳥とほおずき柄の綿紬二点。浴衣に合わせた帯は、ミンサー綿半巾帯。
竺仙の浴衣や博多・琉球の半巾帯が、店内で巾を利かせています。
店内の小ウインドは、小千谷の絣縮と型染めの絽麻帯
昨日、薄物へと衣替えをしたので、店内はすっかり夏らしくなりました。
最近、家内とよく話すことは、何歳まで呉服屋を続けるかということ。私としては、とりあえず70歳までは、何とか今のスタイルのまま仕事を続けたいと考えています。無論、大きな病気を患うことなく、健康を維持することが条件となるでしょうが。
とすると、残り時間は10年余り。なぜ70歳か、それは後継者が無いので、店を閉じる準備をする必要が生じるから。長い間続けてきた商いを仕舞うというのは、予想以上に労力が掛かり、体力も消耗します。お付き合いを頂いているお客様、取引先、仕事を請け負ってもらっている職人の方々。この誰にも迷惑をかけないように、店を閉めることは、やはり大変なことだと思います。時間も最低2~3年はかかるでしょう。
この「暖簾をたたむための時間」を考慮に入れると、完全に仕事を終えるのが、75歳頃。人間、元気であれば年齢に関係なく働けますが、私はあまり仕事に執着したくありません。引き際を自分で弁えなければ、年老いて思わぬ間違いを起こすことになりかねません。やはり、「終わり良ければ、全て良し」だと思います。
そして10年と時間を区切ったことには、理由があります。それは、呉服屋を続けるために必要な環境が、10年先に見通せなくなると見込まれること。これは、需要が無くなるという懸念ではありません。私は、どんな時代になっても、良質な品物を求める消費者や、手直しを依頼される方がいなくなるとは思いません。むしろこだわりを持って、和装を嗜まれる方は増えてくる気がします。
では、商いの継続を阻害する要因とは何でしょう。一つは、良質な品物が生まれなくなること。もう一つは、加工(縫い手である和裁士や、直し手である補正職人など)に関わる職人がいなくなること。呉服屋の仕事の両輪とも言うべき、この二つが消えることは、致命的です。これを考えれば、たとえ受け継ぐ者がいたとしても、簡単に「後を継げ」などとは言えません。
今年2月、長い間うちの主力取引先となっていたメーカー問屋・菱一が店を閉めました。この廃業に象徴されるように、モノ作りの環境は年々悪化し、質の良い品物や個性的な品物が、市場に出てこなくなっています。
染モノにせよ織物にせよ、商品となるまでに多くの人の手がかかります。分業であるから、どこか一つの工程で技術者がいなくなれば、たちまち行き詰ってしまいます。需要の後退による生産量の減少は、職人の仕事を減らし、ついには生活が成り立たなくなります。これでは、誰かに自分の技術を託して、仕事を繋げようとは、決して思わないでしょう。
そして、加工職人。構図は作り手職人と同じです。和裁士を例にとれば、安価な海外やミシン縫製が蔓延したことで、仕事が無くなり、技術はあってもそれを生かす場所がありません。また、手直しに対する意識の低い店の増加は、直し仕事の減少にも繋がっています。加工の仕事内容こそ、呉服屋が消費者に知らしめるべきことと思いますが、一向に省みられる気配がありません。
うちの仕事を請け負っている和裁士は、三人。年齢は私より7、8歳下なので、50代前半。あと10年経つと、65歳に近くなります。彼女たちに話を聞くと、どうやら70歳頃までには、仕事に目途を付けたいようです。
補正職人のぬりやのおやじさんは、今70歳半ば。あと10年経てば、85歳くらいになります。それまで頑張って頂きたいが、どうなるのでしょう。紋章上絵師の西さんは、現在65歳なので70代半ばとなりますが、仕事は続けているでしょうか。洗張り職人の太田屋・加藤くんは、10年経っても60歳そこそこなので、何とか大丈夫でしょう。
つまりうちの職人さん達も、10年経つと、私と同じように、自分の仕事を仕舞う年齢に差し掛かってきます。そして、それぞれの仕事に後継者は育っておらず、次の時代の担い手はいません。だから、もし私に後継者がいたとしても、先の時代に職人を探すことは容易なことではないのです。
質にこだわった品物を供給することと、誂えの名に相応しい加工を施すことは、伝統衣装の名に恥じぬ和装文化を継承することと同義で、絶対に欠かすことは出来ません。しかし現状では、最も大切な「後継者の育成」には、何の手も打たれていません。
もちろん、良識のある業界関係者は、「このままでは、大変なことになる」と認識されてはいますが、もはや誰もが「手の打ちようもなく」、ただ時間だけが過ぎています。
諸々のことを考えてみると、今のように、「何とか専門店らしく店が構えていられる」のが、10年程度と私は見込んでいます。それが自分の年齢ともリンクして、店を閉じる時期を70~75歳と想定出来るのです。
先ほど、上質な品物を求める方と、手直しをしながら大切に品物を扱おうと考える方は、時代が進んでも無くならないと書きました。仕事を求める消費者がいるというのに、請け負う職人や店が無くなれば、結果としてお客様を路頭に迷わせることになってしまいます。これは、何としても避けなければなりません。
今、うちの店にお見えになっている若い方々に対して、将来に不安を持たせてはならないのですが、一体どうしたら良いのでしょう。本来ならば、うちの近くに信頼のおける店があり、そこを紹介して後を託すのがベスト。けれども今現在、県内にそんな店は見当たらないし、そもそも前述したように職人が育っていないので、根本的に無理があります。
そこで必要となるのが、良質な品物を求める消費者に対して、作り手と直接取引出来るシステムの構築。さらにお客様個人が、直接和裁士に誂えを依頼できたり、補正職人に手直しを求めることが出来る環境作り。無論、ITの力を借りなければならないでしょうが、問屋や小売を通さないことは、前提になるのでしょう。
人とモノを繋いできた呉服専門店や問屋の役割は、時代と共に終わってしまうかも知れません。けれども、最終的には、作り手と着手が残れば良い訳で、介在者はただ消えるのみだと思います。
呉服屋として堂々と看板を掲げているのは、品物の質や、加工を理解しない店ばかり。そんな時代が、10年先に訪れるのではないかと、危惧しています。もしかしたら、「良いモノが欲しければ、リサイクル店へ走れ」となっているかも知れませんね。
10年経って、この稿を読んだ時に、こんな私の懸念が外れていることを、切に願いたいです。ブログ8年目を迎える節目の稿が、不安を煽るような内容になってしまい、読者の皆様には申し訳なく思っています。ただそれは、現状に対する私の率直な思いであり、危機感を抱いていることを、知って頂きたかった。そこをご理解頂ければ、有難いです。
このブログの冒頭には、「モノを作る職人とモノを直す職人、その心意気を伝えたい」と記してあります。
職人がいなくなれば、私が紹介出来る品物も、手直しの方法も、無くなってしまいます。つまり、「伝えようが無い」ということになります。その時こそ、私が仕事に見切りを付ける時なのでしょう。今は、そんな日がすぐにやって来ないことを、願うばかりです。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。