またとない10連休も、もう後半戦。皆様はどのように過ごされているのだろうか。残り少なくなった休日を数えながら、仕事が始まることへの憂鬱を、感じ始めておられる方も多いだろう。
様々な調査を見ると、そもそもこの連休中に旅行、帰省、その他何かイベントに出掛けるという方は、全体の三割ほど。多くの人は予定も無く、家でのんびり過ごしているらしい。観光地はどこへ行っても人だらけ、そして交通機関の混雑、渋滞を考えると、それだけで疲れてくる。ならば、家でゆったりとして、日頃の疲れを癒す方が良いと考えるのは自然なことだろう。
私も昨日から休みを頂いているが、5日間の休みで予定が入っているのは、一日だけ。やることと言えば、庭の草むしりをしたり、ジムへ行って汗を流す程度で、後は家でまったりとしている。
けれども、ただ漫然と時間をつぶすのでは勿体無い。普段の休みもそうだが、私は時間があれば、自分の旅の計画を立てる。毎年10月末に出掛ける北海道。どこの林道をどのように走り、どこを訪ねるか。行きたい場所は沢山あるので、プランは何通りにも考えられる。そして時には、昔の写真や時刻表、地図などを引っ張り出してくる。読みふけるうちに、色々なことを思い出してくる。バックパッカーだった若い頃の自分に戻ることが出来る時間は、やはり楽しい。
ということで、休み中のブログは旅のお話。昨年12月には、35年前に廃線となった白糠線の駅・上茶路についてご紹介したが、今日は「遺されしもの」の続編として、ある開拓地のことを書こうと思う。呉服に関わることではないので、読者の方には申し訳ないが、どうかお許し願いたい。
(北海道 十勝支庁 大樹町・光地園)
4月から始まった、朝の連続テレビ小説「なつぞら」は、北海道・十勝が舞台。広瀬すずさんが演じる主人公・なつが、北の台地でたくましく成長していく姿を描いている。
筋書きは、孤児となったなつが、戦死した父の戦友に連れられて、十勝の酪農家にやってくるところから始まる。物語の設定からは、すでに戦前にこの農家が大きな牧場を経営しており、開拓者としては、一定の成功をおさめた家だと判る。
北海道の開拓は、1869(明治2)年、明治政府が北方警備や資源開発などを目途として、北海道開拓使を設置したところから始まる。そして、1874(明治7)年からは、屯田兵募集が始まり、最初は没落した士族が新しい生活の糧を求めて応じ、後には、土地を持たない農家の次男・三男が新天地を求めて北海道に渡った。
明治以前は、ほとんど手が付けられていなかった北海道の大地。開拓者は原生林を切り開き、土を耕して、作物を植えた。元々極寒の地だけに、思うように収穫は得られず、苦闘の連続であったが、徐々に耕地は広がり、明治末年には道内の農家数が14万戸に達した。
こうして北海道は、人口が増えるに従って耕地面積は広がり、主産業としての農業が確立していったが、1945(昭和20)年になって、新たな開拓者を迎え入れる。
国にとって、終戦の後に直面した極端な食糧不足は、真っ先に解決しなければならない大問題であった。政府はこれを解消するため、1945(昭和20)年11月に「緊急開拓事業実施要領」を発表する。この政策は、食糧の増産と、復員してきた大勢の軍人や海外からの引揚者に対し、就労の機会を与えることを目的としていた。食糧と就労という戦後の緊急課題を、一挙に解決しようと試みたのである。
政府は、この「戦後開拓」において、5年間で100万戸の農家を作ることを目標にした。広大な北海道には、最も多く入植者が入り、土との新たな格闘が始まった。しかし、すでに平地では既存の農家が土地を広げており、政府から指定された開拓地は、気象条件は厳しく、交通不便な奥地ばかり。さらに入植者は、農業経験の乏しい者が多く、その上政府からの支援はほとんどなかった。
土に慣れない者が、鍬と鋤だけを携えて、原野を切り開く。北海道における戦後開拓の厳しさは、言葉では言い尽くせない。土を掘り、木を切り倒して、ようやく耕作地にして作物を作ったものの、恒常的な冷害に悩まされ、収穫は増えず、農業経営は安定しない。何年苦労しても全く報われず、とうとう矢折れ刀尽きて、苦労して開墾した土地を手放す。こうした戦後の開拓地が、今も道内のあちこちに残る。
今回訪ねた十勝支庁・大樹町の光地園(こうちえん)も、そんな戦後開拓集落の一つである。では、入植者の苦闘の跡を辿りながら、この場所にご案内することにしよう。
(国鉄時刻表 1982(昭和57)年・8月 北海道鉄道路線図)
光地園のある大樹町は、帯広から60キロほど南に位置する。上の鉄道路線図でわかるように、ここにはかつて広尾線(1987年2月・廃線)というローカル線が走っていた。町の西側は日高山脈に接し、東側は太平洋に面している。町の基幹産業は酪農と漁業だが、ロケットの発射実験場があり、そのため「宇宙の町」を標榜している。
かつての広尾線時刻表(1981年10月)。この線には、「愛国」、「幸福」という名前の駅があるが、昭和40年代半ば、「愛の国から幸福へ」というキャッチフレーズで、この二つの駅の切符が爆発的に売れた。どちらの駅も、十勝平野の農地の真ん中にある小駅で、特別なものは何も無い。
以前、十勝の湖沼群についてお話したときに少し触れたが、大樹町は十勝の酪農事業発祥の地。開拓の父・依田勉三が町の東部・生花苗(おいかまない)で晩成社を設立し、バターや練乳など乳製品の生産を始めたのは、1902(明治35)年のことだった。
大樹町を流れ下る歴舟川。日高山脈の神威岳に端を発して、太平洋にそそぐ。この川の上流には幾つもの川が流れ込んでいるが、そのうちの一つ・ヌビナイ川の流域に、光地園がある。大樹町中心部から、西へ20キロ。標高350メートルの台地。
光地園へは、大樹町と中札内村を繋ぐ道道55号で西へ向かい、途中にある尾田集落の手前で、道道1002号に入る。この道は、光地園まで続いているが、そこで行き止まりとなる。
光地園へ向かって真っ直ぐに伸びる道道1002号。遠くに見えるのは日高山脈。ぺテガリ岳、中の岳、神威岳など、1600~1700m級の山々が連なる。
大樹町・光地園に初めて開拓の鍬が下ろされたのは、1947(昭和22)年の春のこと。樺太から引き揚げて来た12世帯・72名が、最初に入植した。ここは戦前から馬の放牧地として利用されていただけで、土地には何も手が付いていなかった。そして開拓者は、この集落名を「光地園」と名付けたのである。「光輝く明日は、大地から届く」、そんな意味がこの地名には込められていたのだった。
入植者は次第に増え、豊富な立ち木に目を付けた製炭業者も入り、住民は150人となった。3年後の1950(昭和25)年には、小学校が開校し、後に中学校も併設。そして電灯も付いた。開拓診療所や地域の集会場も設けられ、年を追うごとに集落の形が整っていった。
しかしこの土地は、痩せた火山灰地で思うように作物が育たない。冬はマイナス20度にも下がり、降雪量も多い。そして夏の低温と日照不足は、少ない収穫をも奪う。さらにヒグマの襲来。飼っていた肉牛は殺され、貴重な収入源を失った。冷害による凶作と獣害は、確実に開拓者の心を疲弊させ、次第に追い詰められていくことになる。
東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年、北海道はかつてない大冷害に襲われた。この頃光地園では、すでに土地に見切りをつけて離農する人が相次いでおり、最盛期には40戸近くあった家も、22戸にまで減っていた。そして、この年の凶作は、集落にとって決定的なものとなった。
マメやソバを中心とする農産物は、それまでも収穫は上がらず、一向に収入は増えていかない。開拓民は、出稼ぎと肉牛飼育で何とか糊口を凌いではいたものの、営農のための借金は増え続けるばかり。そこに酷い冷害が追い討ちをかけたのである。
この年の収穫はほとんど皆無に近く、自分たちが日々の生活で食べるものにも事欠く始末。そして唯一の現金収入源として飼っていた肉用牛も、ヒグマに襲われ、10頭以上が売り物にならなくなった。窮地に立たされた光地園の人々。そこで何人かが、集落を囲む町有林に生えている木に目を付ける。この木はキハダで、樹皮は薬用として使える。これを伐採して、現金に換えようとしたのだ。だが、この盗伐は町に知れるところとなり、追徴金の支払いを申し渡される。しかし、盗んだ人達に払える術は何もない。
この事件を契機に、光地園の惨状が世間に伝えられ、全国から援助の品物や激励の便りが舞い込んだ。金沢大学では、せめて子ども達だけでも安心して暮らせるようにとの思いから、里親を申し出る。そして、翌1965(昭和40)年の1月から3月まで、小学生7名・中学生7名が「集団里子」として、金沢に送られることとなった。
次第に道は高度を上げて、光地園のある台地に向かっていく。
台地を上る途中では、遠く十勝平野を見渡せる場所がある。
やがて整備された草地が現れる。日高の山並みが身近に見えてくる。ここまでの間、全く人家は見当たらず、人の気配も無い。
大冷害が起きてから4年後、1968(昭和43)年の3月。ついに光地園小中学校は、閉校の日を迎える。離農者が相次ぎ、この時住民は僅か3戸を残すのみ。在校生は小学生3人・中学生5人。この年の卒業生は中学生2人だけだった。開校から18年、この学舎から巣立った生徒は62人である。
最後の校長先生となった山口二郎氏は、後に光地園小中学校の思い出として、こんな文を寄稿している。「去っていく人たちを見送る子どもの一人は、作文の中で次のような思いを書き残していた。『20年間、光地園を築き上げた人たちが、一鍬一鍬耕した広い土地をなぜ捨てたのか。私にはわからない。ここはやがて国営牧場になる気配も見られる。雄大な日高山脈のふもとは、どう変わっていくのだろうか。』それが今となっては、とても印象深いものがある」。
走ってきた道道1002号は、そろそろ終わりに近づく。このカーブの先・左側にかつて小学校の校舎があった。
この交差点で道は終わるが、何の表示も無い。
そして道の左側には、広大な草地が広がる。ここが光地園開拓地の跡。放牧地として整備されたために、昔の痕跡は何も残っていない。1974(昭和49)年、大樹町はこの地を、町営の大規模草地育成牧場として整備した。現在は、800haに乳牛1000頭、肉牛200頭、馬20頭が放牧されている。
車を牧草地の脇へ止めて、ここからは歩くことにする。牧場の周囲にはご覧のようなでこぼこ道が、どこまでも続いている。
とは言え、この恐ろしい標識が立っている。今日も当然、クマ除けの三種の神器は身に付けている。けれどもここでは遭遇したら最後、逃げ場が無い。
光地園を訪ねたのは今回で二度目だが、二回とも快晴に恵まれた。ご覧のように、なだらかな台地の上には低い雲が広がっている。空と大地しかなく、その緑と青のコントラストが例えようも無く美しい。こんな景色をひとり占めするのは、何とも勿体無い。私には珍しいことだが、この風景を家内にも見せてあげたいと思う。
見渡す限り広がる美しい大地。けれども、この土には、「光輝く明日を、この大地から」と決意を抱いた、光地園開拓者達の血と汗と涙が沁み込んでいる。彼等がいたからこそ、この大地が遺されたのだ。そのことを胸に刻みつつ、私は長い時間この場所に、佇んでいた。
最後に、光地園小中学校の校歌を記して、「遺されしもの・開拓地編」の稿を終えることにしたい。
日高の山のかがやきに われらの力をはずませて ゆこう うたおう たからかに 光きよらな 光地園
(光地園への行き方)
帯広から大樹まで1時間50分(十勝バス) 十勝帯広空港からだと、大樹まで40分
大樹から光地園までの公共交通は、何もありません。車(レンタカーなど)では、道道55号と1002号を経由して、約40分
なお、道道1002号の入り口から、光地園までの15キロには、民家が全くありません。牧場内に立ち入ることは出来ませんが、周囲の道を歩けば全景を見渡せます。但し、本文中にも書きましたが、ヒグマの出没地帯なので、十分なご注意を。
私が北海道で訪ねる土地には、必ず、そこへ行くべき理由・動機付けがあります。それは、新聞記事であったり、本であったり、人から聞いた話だったりと、些細な情報を耳にしたことで始まります。
光地園集落に関しては、若い頃読んだ「北海道探検記」の中で、紹介されていました。これは、朝日新聞の記者だった本多勝一氏が書いたルポルタージュ。今日の稿も、一部はその内容を参考にさせて頂きました。
本多氏は、この本の中で、「北海道的な北海道を旅するには、狭く深くを原則とした上で、放浪者の自由を加えるのが理想的。ガイドブックの類は、ガイドブックに出ていない所はどこかを知るために使う。」と記しています。今なら、ネットで情報が流れていないのはどこなのかを知るために、ネットを使うようなものでしょうか。
物見遊山ではなく、何かを心に刻むために、旅をする。バックパッカーだった若い頃の気持ちは、まだ衰えていないように思います。そしてそれが、呉服屋としての生き方にも、「無形の影響」をもたらしているようにも思えます。きっと私は、体の続く限り、歩き続けるでしょう。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。次回からはまた、呉服屋に戻って、お話をさせて頂きますので、またよろしくお付き合い下さい。