大概男の子は、中学生くらいになると親が疎ましくなる。日常の会話と言えば、「メシ・風呂・カネ」くらいのもので、自分の話をすることはほとんどない。やはり私もこの例に洩れず、高校生あたりからは、親との会話がほぼ途絶えた。
今考えてみると、私が子どもだった昭和40~50年代は、一番呉服屋が良い時代だった。両親は、毎日の仕事に忙しく、子どものことにまでとても手が廻らない。それを良いことに私は、全く干渉されること無く、自由に伸び伸びと育った。
そして、18歳で家を出た。大学受験の時も、私がどこを受けるのかさえ関心を持たず、結局入った大学の場所がどこにあるのか、卒業するまで知らなかった。
東京へ出てからは、滅多に甲府の家へ帰らなくなった。大学へは通わず、一年中北海道を放浪している息子の将来など、両親には見通せるはずもない。おそらくそれは、諦めにも似た境地だったと思われる。そしてもちろん、店の跡を継ぐことなど、想像出来ようもない。今考えれば、ひどい親不孝である。
ただそんな母は、稀に下宿まで私を訪ねて来ることがあった。当時、下宿には電話など無かったので、連絡もせずにやってくる。私は、ほとんど留守にしているので、会える確証はない。だが、仕入で東京へ来たついでに、顔だけでも見たいと考えたのだろう。
ある日、下宿へ帰ってみると、ドアに紙袋が掛けてあった。中には、山ほどの菓子パンが入っている。おふくろさんが、私の大好きな菓子パンだけを置いて、帰ったのだった。普段は顔も見せず、電話も掛けず、何一つ話さない息子でも、やはり子どもは子ども。この時ばかりは、とても申し訳ない気持ちになったことを、今も思い出す。
その後私は、紆余曲折を経て、店を継ぐこととなった。そして、自分で選んだ結婚相手も連れてきた。全く当てにしていなかった息子のこの不可解な行動を、母はどのように思っていたのだろう。それはきっと、狐に摘まれたようなものだったに違いない。
そうして、40年近くの時が流れた。今、家内は、そんな母が遺したキモノと帯を着て、店で仕事をしている。今日は、久しぶりに書く女房の仕事着の稿で、母親が愛用していた結城紬と、藤田織物の帯について話をしてみよう。
(藍色 唐草模様70亀甲結城紬・丁子色 横段模様 真綿紬八寸帯)
以前、母が遺した三枚の結城紬の話をしたことがあったが、その中で、全体に唐草が広がる一番大胆な模様の品物を、妹より背の高い家内が受け継ぐことになった。
家内と母の身長差は、約10cm。身丈の寸法は3寸、裄は1寸5分違う。もちろんそのまま使うことは出来ないので、一度洗張りをして仕立て直す。幸いなことに、中揚げに1寸5分の縫込みがあったので、別布で胴ハギをせずに、何とか着用出来る寸法になった。そして、裄も生地巾いっぱいに出す。
結城紬は、各工程で糊を使っていて、その重さは一反で120gにもなる。もちろん、最初に仕立てる時の湯通しで、出来る限り糊を落とすが、それでもかなりゴワゴワした感じが残ってしまう。それが、着用し続けることで生地が揉まれ、次第に柔らかくなっていく。そして、洗張りを数度繰り返すうちに、生地の硬さが消え、しなやかで着心地の良い風合いに変わる。
おそらく母は、この結城の洗張りを三回は行っていると思われるので、すでに硬さは消えている。今度で四回目になるので、もう完全に糊気は無いだろう。結城紬に関して言えば、着倒した品物を受け継ぐことが、何より贅沢なことなのだ。
唐草の風呂敷を思わせる模様付け。亀甲の絣は、反巾に70並ぶ。シンプルなデザインながら、どことなく懐かしさを感じる結城紬。深く落ち着きのある藍色だが、動きのある蔓唐草図案のせいか、それほど地味な印象にはならない。こうした単調なキモノは、帯次第で印象が変わるので、合わせる帯を選ぶ楽しみがある。
仕事着としてほぼ毎日キモノを着ていた母だが、冬から春にかけての寒い間は、紬ばかり使っていた。中でも真綿糸を使った結城は、暖かくて軽いので、一番出番が多かった。そして、体への負担も少ないために、年齢が進むに連れて、着用の頻度も増していたように思える。
キモノは、同じものを何日か続けて着用したが、帯は替える事が多かった。そのため、母の遺した品物の中で、もっともバリエーションに富んでいるのが、紬地の八寸織名古屋帯である。箪笥整理の時に、私と家内と妹とで、よくもこれだけ作ったものと、半ば呆れてしまった。これはおそらく、父には内緒で誂えていたのだろう。
(丁子・焦茶地糸 横段連ね 真綿紬八寸帯・藤田織物)
母は父の仕入れに付いて行く時には、自分の趣味に合う品物には目を止め、それを仕入れるように父に勧めていた。父は、どちらかと言うとオーソドックスな模様や作り方を好み、手堅い品物ばかりを選んだ。だが母は、斬新な模様や色合いの品物に、興味を惹かれることが多かった。
仕入れに関しては、保守的な父と革新的な母が上手くマッチして、店に置く品物の幅が広がった。そして母は、自分のメガネに適うものがあれば、自分で買って、自分で使った。特に、毎日使う織帯に関しては、その傾向が強かった。
様々な色の真綿糸を組み合わせて、筋を作る。点と線を配置しながら、立体的に模様を見せる。この帯屋でしか生まれない、独創的な帯。そしてこのメーカー、二本と同じモノを作らない。
上の画像の藤田織物の帯も、そんな母が好んで使った一本である。真綿の色糸を組み合わせ、自由に模様を形作る藤田の帯は、それまで見たことのない新しい品物だった。地糸も真綿を使い、紋図を用いず、作り手の感性をそのまま帯に生かしたモダンな図案。いかにも、「新しモノ好き」の母らしい品物と言えよう。
この組み合わせだと、まだ家内には地味なので、深い紅色の四つ組帯〆と同色の絞り帯揚げでアクセントを付けてみた。地を区切った丁子色と焦茶色の組み合わせ方が大胆。幾何学的な図案には、この織屋独特の感性が込められている。
お太鼓の表情。赤紫・芥子・白の三色を組み合わせた三本のラインと、薄水色と白で構成された二本のラインを、交互に配している。社長の藤田さんの話では、使う地の色を見てから、模様として使う真綿糸の色を考えるとのこと。どのような配色になるかは、何も決まりが無く、ただ自分の感性に任せるだけ。作り手の個性が、そのまま着姿に反映される面白い帯である。
(白・焦茶地糸 ドット図案 真綿紬八寸帯・藤田織物)
既成の模様に捉われることなく、自分が締めてみたい帯を自由に選び、毎日の仕事の中で使う。そして、着用することでその帯の良さを理解し、改めて今度は、店で扱う品物として仕入れをする。それは、進取の気性に富んだ母らしい商いに対する姿であった。
専門店では、店主の好みがそのまま扱う品物に表れるが、一人で仕入れをしていると、どうしても色や模様が偏ってくる。やはり、趣向の違う父と母二人で品物を選んでいたことは、商いに良い結果をもたらしたと思う。
その点では、我々夫婦も先代夫婦を見習わなければいけないのだが、私は、家内を連れて仕入先に行くことがどうにも面倒くさい。これは、これから仕事を続けていく上で、私が考え直さなければいけない課題である。
先ほどの帯とは、また違う糸の組み方で、模様を形作っている。今度は、一つ一つの点を連結させ、線や割付として使っている。また拡大すると、地の経糸と緯糸の織り目が不規則であり、それが温かみのある手織帯の表情となって表れている。
家内は、今回仕立直しをする際に、八掛を濃い芥子色に替えている。母は、紬地色とほぼ同じ深い紺色の八掛を付けていたが、そのままでは落ち着きすぎてしまう。なお、この八掛も新しく染めたものではなく、以前他の紬で使っていたものを外して保管し、再利用している。古い裏地も、いつかは使い道が出てくるので、取って置いても無駄にはならない。
この八掛の色に合わせて、小物を考えてみた。帯〆はゆるぎで、帯揚げは絞り。色は芥子よりやや明るい山吹色。帯の前模様の中にある黄色のドット模様とも、リンクしている。地味な紬を使う時に、八掛と小物を同色でまとめるのも、一つのコーディネートの方策かと思う。
お太鼓の表情。最初の帯よりも、地色と中の模様の配色がおとなしいために、無地に近い印象を受ける。やはりこのような帯は、前姿で濃い帯〆を使うと、着姿がぐっと引き締まる。
母がこの結城紬を着用していた記憶が、小学生だった私に残っている。ということは、使い始めてからすでに半世紀以上が経っていることになる。着れば着るほど風合いが良くなる結城こそ、代を繋いで受け継ぐべき品物かと思う。
そして、同じく真綿糸を紡いで織り出された、個性的な紬帯。これは、仕事着として、多種多彩な帯を締め尽くした人が選んだ品物。跡を受け継ぐ者はこうして、先人の品物を見極めるセンスをも、受け継いでいく。
いくら上質な品物を残したとしても、それを受け継いで着用する者がいなければ、そこで終わってしまいます。今、家内がこのキモノを仕事着として使うことは、母が一番望んだ姿だと思います。その点では、暖簾を繋いだ息子として、少しだけ親孝行が出来たでしょうか。
しかし、若い頃の行状が酷すぎて、とてもこのくらいでは許してもらえないでしょう。
「呉服屋にだけは、絶対にならない」と決めていた私に対して、一度も「跡を継げ」と言ったことのない両親がいました。もしかしたら、それが、私を家業に向かわせたのかも知れません。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。