バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

取引先散歩(9) 龍村美術織物 関東店  八重洲口・京橋(前編)

2017.02 02

江戸時代の武士の中に、旗本という階級があった。この身分に就いている者のほとんどは、徳川家直属の家臣団である。彼らは、将軍がお出ましになる儀式に参列し、直接拝褐出来る「御目見(おめみえ)」の資格を持ち、知行地という領地も与えられていた。旗本に属する武士というのは、庶民の目から見れば、殿様であった。

こんな旗本=殿様の中に、二人の外国人、それも西洋人がいる。イギリス人のウイリアム=アダムスと、オランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン。日本名は、三浦按針(みうらあんじん)と耶揚子(やようす)。この二人のヨーロッパ人は、1600(慶長5)年、豊後(今の大分県)に漂着したオランダ船・リーフデ号の乗組員だった。

 

徳川家康は、海外との交易に熱心な人物であり、それは後に東南アジア諸国との間で、朱印船貿易を確立したことでも判る。こんな貴重な異国の情報を持つ者を、家康が見逃すはずもなく、二人を幕府の外交顧問として採用したのだ。

彼等は、望郷の念を持ちつつも、日本での職務に没頭する。家康は二人を厚遇し、旗本の地位を与える。ウイリアム・アダムスには、相模国・逸見(へみ)に領地を持たせ、帯刀を許す。アダムスの日本名・三浦按針は、与えられた領地・三浦(現在の神奈川県・三浦地方)に基づいたもの。

もう一人のヤン=ヨーステンには、江戸城の堀の内側に邸宅を与え、日本人の妻も娶らせた。ここは、もともと東京湾の入江・日比谷入江だったところだが、江戸城を拡張するために埋め立て、旗本などの屋敷が新たに作られた場所である。

ここが、現在東京駅がある八重洲辺りである。八重洲(やえす)の名前は、ここを住処としたヤン・ヨーステンの日本名・耶揚子(やようす)が転じたものとされている。

 

今でこそ、東京駅の丸の内側にはオフィスビルが立ち並び、表玄関としてふさわしい街並になっているが、駅が作られた大正初期は、銀座や日本橋に繋がる八重洲側の方が、表玄関であった。

その伝統ある東京の表玄関、八重洲・京橋に店を構えているのが、織物界の雄・龍村美術織物である。今日から二回に分けて、龍村の関東拠点でもあるこの店と、併設されている東京ショールームについて、ご紹介することにしよう。

 

龍村美術織物・関東店 東京ショールームの玄関

「一生の間に一度でいいから、龍村の帯を締めてみたい」。少し織物に通じている方からは、こんな声をよく聞く。正倉院裂を始め、数々の古代裂を復元して図案とし、それを多彩な糸で精緻に織り出す。一目で龍村製と判るような光に映える帯姿は、今も、多くの人の憧れである。

龍村の仕事は、帯だけに留まらない。緞帳やタペストリー、壁貼生地、カーテンやカーペット、イス貼生地などのインテリア用品、また、祭りの鉾や神輿に掛かる懸装品(天井幕や水引)、そして鉄道・航空機・車などの座席シートやカーペットなど、かなり多岐にわたっている。

 

龍村の織物が使われている場所は、皇室の儀礼を始めとして、それこそ、日本を代表する建造物や祭礼、車両などである。

例えば、先年新装となった歌舞伎座の緞帳は、「春秋の譜」と命名され、楓と桜を綴織で織り出した雅やかなもの。インテリア製品では、東宮御所や大宮御所の壁貼・イス貼地やカーペット、国会議事堂内・衆参両院のカーテン、最高裁判所のタピスリー、帝国ホテルやオークラの壁貼地など、枚挙に暇がない。

また、皇室使用の龍村製織物として良く知られているのが、納采の儀に際して妃殿下が着用するローブデコルテ。現在の皇后陛下・美智子さまや皇太子妃・雅子さま、さらに秋篠宮妃・紀子さまが着用されものは、いずれも龍村が納めた品物である。

そして、一般の人が日常の中で何気なく使う場所にも、龍村の織物技術が見られる。開業したばかりの北海道新幹線には、グリーン車の座席シート・カーペット・カーテンは何れも龍村製。航空機の内装は、すでに1955(昭和30)年に、日本航空が採用している。

また、高級車両ばかりではなく、地下鉄日比谷線や、千代田線の一部の車両シートも、龍村の手によるもの。毎日の通勤で座るイスが、織物界の大御所・龍村製とは、ほとんどの方は気が付かないと思う。

つまり、龍村という会社は、日本の織物界の中では、稀有な存在なのである。誰もがその技術を認め、製品は特別な品物として評価される。極論を言えば、他の織屋は消えてしまっても、おそらく龍村だけは残り続けるだろう。

そんな「大龍村」を、得体の知れぬ地方の小さな呉服屋がご紹介するのは、畏れ多いことであるが、とりあえず京橋の店まで、ご案内してみよう。

 

東京駅の八重洲中央口を出ると、すぐ目の前を走っているのが、外堀通り。かつてここは、江戸城の周囲をぐるりと囲んでいた堀があったところ。そのため、この通りは今も環状道路になっている。

外堀通りを東に渡り、100mほど歩くと、日本橋3丁目の交差点。交差する大きな通りが、中央通り。この道が日本橋を基点とする、旧東海道・現在の国道1号線。右折すると京橋・銀座方面となり、左折すると日本橋。

左側の日本橋方向を見ると、日本橋・高島屋のフラッグが見える。

龍村の東京店は、これまで何回か移転しているが、いずれもこの京橋界隈でのこと。呉服関係のメーカー・問屋のほとんどが、人形町や小伝馬町あたりに店を構えていることを考えると、かなり離れた特異な場所にある。

龍村が京橋にこだわる理由の一つは、高島屋と隣接しているからではなかろうか。そのように想像されるほど、龍村と高島屋とは、初代平蔵の時代から大変関係が深く、それは、取引関係と言う言葉で単純に言い表せないほど、縁が深い。どのような関わりがあるのか、少し長くなるが、お話してみよう。

 

龍村の初代平蔵は、1876(明治9)年、商家の長男として大阪・船場博労町に生まれた。父の弥助の兄弟には、子どもが無かったため、祖父は平蔵をただ一人の孫として可愛がり、子どもの頃から、書道・茶道・華道・香道・俳諧などを学ばせ、いわゆる英才教育を受けさせた。

平蔵は俳諧に秀で、文人としての道を志していたが、大阪商業学校(現在の大阪市立大学)在学中に、祖父が亡くなり、それとともに家業の経営が悪化する。そのため平蔵は学校を辞め、自分の生きる道を模索するうちに、呉服で身を立てることを決意する。

平蔵には、大阪心斎橋で丸亀屋という呉服商を営んでいた、田村太兵衛という叔父がいた。この人物は、のちに初代・大阪市長となる傑物である。平蔵は、この太兵衛の下で、織物人生の第一歩を踏み出した。

 

平蔵が太兵衛から初めて任されたのは、繻子の買い付けだった。西陣の機屋を熱心に廻わり、織の技術を体得していく。そして2年後には、早くも独立を果たすのである。

1898(明治31)年、平蔵を支えていた叔父の太兵衛が、大阪市長となり、自分の店・丸亀屋を閉め、これを高島屋に譲ることになった。その縁で平蔵は、当時高島屋の経営にあたっていた飯田忠三郎・飯田新兵衛(両名とも創業者・飯田新七の孫)から、経営指導や商いの援助を受けることになる。当時平蔵の主力商品だった繻子を、高島屋が関連する織屋で生産することを手始めに、以後商いのパートナーとして、密接な関係を築いていく。

平蔵は、当時普及し始めたジャガードを使い、新たな技法による織物作りに邁進する。それまでの伝統的な西陣の手法に挑戦するかのごとく、研究に研究を重ねる。そして、高波織・纐纈織・推古織・聚楽織などを開発し、専売特許や新案特許を得た織技術は、36件にも及ぶ。

平蔵が生み出した新しい織物は、大変人気が高く、そのため模倣する業者が多く現れてくる。特許権を侵して作られた模造品は、次第に平蔵の商いを逼迫させていく。訴訟に持ち込んだものの、心労が重なり、ついには倒れてしまった。

その苦境にあって、新たな帯製作を決意させたのが、高島屋の社長・四代目・飯田新七(飯田鉄三郎・初代新七の孫)の助言だった。目指すところは、古代裂など染織の研究をし尽くし、その上で生み出される美術的な織物。平蔵の第二の出発点であり、現在の龍村美術織物が生み出す品物の原点が、ここにある。

かように、龍村と高島屋との間には、長い歴史に培われた深い絆がある。龍村が、高島屋がある「日本橋」にほど近い、「京橋」という地にこだわるのも、判る気がする。

 

中央通りに並んで店を開く老舗。左官道具店の西勘・果物店の千疋屋

日本橋3丁目の角を右に曲がり、中央通りを京橋方向に歩く。三車線通り沿いには、老舗が立ち並んでいる。

京橋という地名の通り、ここには橋が架けられていた。下を流れていた川が京橋川だが、これは江戸時代に開削された人口的な川。東海道の基点となる日本橋を出発すると、最初に渡る橋が石のアーチ橋・京橋だった。

現在の中央通りと同じように、江戸期から沿道には店が並び、明治に入ると、京橋から新橋にかけて、レンガ作りのモダンな建物が建てられるようになった。京橋は、日本橋と銀座の中間に位置にし、江戸の繁華街と、明治のモダンな街を繋ぐ街であった。

 

上の画像で紹介した西勘は、左官道具や刃物の専門店。創業は、1854(安政元年)。下総(千葉県)成田出身・西田屋勘造が開いた金物屋が始まり。関東大震災を契機に、左官道具を専門に扱うようになった。

高級果物店として知られる千疋屋の創業は、1834(天保5)年。武蔵(埼玉県)千疋郷(現在の越谷市)出身・大島弁蔵が、果物や野菜を売る「水菓子安うり処」として店を開いたのが、始まり。なお、千疋屋の本店は日本橋店で、京橋と銀座の店は、暖簾分けされたもの。お判りのように店名は、創業者の出身地から取られたものである。

 

中央通りに入って最初の信号、京橋2丁目の角に、龍村の入る八重洲中央ビルがある。通りを隔てて向かい側には、重厚な造りの明治屋本社ビルが見える。1933(昭和8)年に建築された、イタリア・ルネサンス様式のビルで、東京都の有形文化財に指定されている。東京大空襲にも耐えた、貴重な昭和初期の建築物である。

5Fが龍村のフロア。ここに関東地区の営業拠点としての店舗があり、ショールームが併設されている。次回は、実際に店舗の中の様子を、ご覧頂くことにしよう。

 

特別な場所で使う、特別な品物を作り続ける「龍村」のことを、当店のような小さな店の者が語るのは、あまりにも役不足と言えましょう。

ただ、こんなお話が伝えられるのも、直接取引があるからこそだと思います。龍村は、高島屋を始めとする老舗デパートか、有力な専門店でなければ、直接的な取引はしていません。ですので、もし龍村の品物を扱おうとすれば、ほとんどの呉服店は、龍村の品物を買った買継ぎ問屋から仕入れる他はありません。つまり、見たい品物があったとしても、直接龍村に出向くことは出来ないのです。

現在のバイク呉服屋など、決して「有力専門店」ではなく、「微力専門店」に過ぎないでしょう。けれども、こんな細々とした縁でも、先代が龍村と直接取引を結んでくれたからこそ、繋がっていられるのです。受け継いだ自分の店の暖簾の重みを、改めて感じます。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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