バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

取引先散歩(8) 紫紘本社  京都西陣・大宮通西入東千本町

2016.10 15

友禅の染料を定着させるためには、どうしても必要な蒸し加工。京都で、この仕事を専業とする会社が、とうとう一軒になってしまったらしい。右肩下がりに減り続ける生産が、加工職人を直撃した結果である。

だが、最後まで残ったこの加工会社は、現在多忙を極めていると言う。そして、蒸しのために必要な釜を増設したとも聞く。友禅の生産量が激減したとはいえ、全ての蒸し加工が一軒に集中するのだから、自然に仕事は増える。

 

そう言えば、うちが仕事を依頼している、人形町の太田屋・加藤くんのところも、かなり忙しくなっていると、聞いた。仕立直しや寸法直しのためには、どうしても洗張りやスジ消しは欠かせない。けれども、請け負う職人の数は、すでに限られている。40代の加藤くんなどは、組合の中ではもっとも若手の一人であろう。

減り続けてはいるが、決してゼロにはならない。どんな時代になろうとも、キモノや帯がすべて消えてしまうようなことは、ない。だが将来、モノは作ることが出来ても、見えない所で仕事を下支えする職人がいなくなれば、結局は廃れてしまう。この業界の危機は、消費者からは見え難い場所で、確実に進んでいる。

 

8月末、今までうちの帯加工を一手に引き受けてもらっていた、西陣の植村商店さんが廃業した。この店の仕事については、ブログの中で幾度かご紹介したので、読んだ方には覚えがあるかも知れない。

古い帯の難しい修復やカビ・しみ直しなどに優れた技術を持っていただけに、何とも惜しい。買継ぎ問屋のやまくま・山田さんの話によれば、採算が合わず、この先仕事を続けていても、赤字が膨らむばかりと判断したからだそうだ。

うちとしても、このままでは帯仕事を請け負うことが出来ないので、早速山田さんにお願いして、新しい職人さんを紹介して頂いた。この方は、植村さんと同じように技術が高い。代を繋いで西陣で商いをしている山田さんだからこそ、良い職人を知っている。彼女には、本当に助けられている。

 

さて今日は、厳しい西陣の中にあって、毅然としてモノ作りに向きあっている織屋・紫紘の様子をご覧頂くことにしよう。最近のブログの中でも、よく取り上げている織屋なので、どんなところで仕事をしているのかと、関心をもたれている方も多いと思う。

以前、同じ「取引先散歩」の稿として、東京・浜町にある東京営業店をご紹介したが、今回は西陣の本社、実際に帯が製作されている現場を見て頂こう。

 

西陣・東千本町に店を構える、紫紘の正面玄関。源氏香図・若紫の大暖簾が掛かる。

「松木さんが、京都店に来るなんて、珍しいですね」と、たまたま在店していた野中淳史くんに言われる。以前にも書いたが、彼は紫紘の創業者・山口伊太郎翁のお孫さん。バイク呉服屋より、二回りも若く、将来の西陣を担う若者である。

この日は、姉小路新町にある個性的な染問屋・松寿苑へ寄ってから、紫紘を訪ねた。目的は、以前から依頼されている図案の帯を探すためである。大概の品物は、東京・浜町の店で用事が足りるのだが、なかなか思うようなモノが見つからなかったので、本社まで来て見たという訳である。

紫紘の展示会は、ほとんど外の会場を借りて行い、東千本町の本社を使わない。その上展示会は、毎月東京でも開かれるので、よほどのことがなければ、京都本社まで出向くことがない。野中くんと会うのも、ほとんど東京店でのこと。だから、「珍しい」などと言われてしまう。

 

重厚な本社の建物。一階は事務所、二階が図案室、三階が織り場。

呉服問屋やメーカーが集まる「室町」から「西陣」へは、地下鉄・烏丸線の烏丸御池駅から乗車し、北へ二駅目の今出川で降りる。ここは、京都御苑の北側にあたり、同志社大学・今出川キャンパスがすぐ近くにある。

駅から今出川通を西へ進み、大きな堀川通を渡って次の筋・大宮通を北に上がる。西陣中央小学校を横に見ながら歩き、寺之内通の一つ上の筋を左に曲がると、東千本町となる。今出川の駅から歩けば、15分ほどであろうか。

 

それでは、店内をご案内することにしよう。

一階事務所の奥には、来客用のスペースがあり、壁際には様々な糸が色別に収納されている。画像では切れてしまったが、伊太郎翁の写真が飾られ、今も仕事場を見つめている。撞木に掛かっているのは、ウイリアム・モリスの葉模様の帯と、正倉院文様の帯。

伊太郎翁の直筆・「錦織源氏絵巻」を背にした衣桁。蜀江文の金地引箔帯と、銀引箔の和楽器文袋帯。東京店とは違い、品物を見せる畳敷きのスペースが、ゆったりと取られている。以前、営業店舗は丸太町にあり、ここは図案室と織り場だけだったそうだ。

 

「たまには、うちの仕事場も覗いて下さいよ」との言葉に甘えて、図案室と製織室を見せてもらう。まずは、二階の図案を考案している場所から、ご案内してみよう。

パソコンの前にすわり、図案の配置や配色を考えている二人のベテラン職人さん。

コンピューター化される以前の、帯の設計図にあたる紋意匠図(もんいしょうず)は、専用の紙を使い、図案に基づく経・緯糸の組織を一コマずつ分解しながら彩色していた。これに短冊形の紋紙を合わせ、専用の紋彫機を使ってパンチ穴を開ける。それをジャガード機に取り付けて、経糸を選別させていく。図案の複雑さで、使われる紋紙の数は異なるが、単純なもので、8千枚ほど、複雑なモノでは、数万枚もの紙を要した。

ジャガードのコンピューター化は、それまで西陣の織屋が担ってきた、膨大で煩雑な紋図製作を、革命的に省力化する。まず、手作業だった図案のデザインはコンピューターの画面上で行えるようになる。そしてそれは、自動的に紋紙のデータとして変換され、パンチ穴のパターンをフロッピーの中に読み込み、それを使って紋彫機が穴を開ける。つまりは、万単位の紙媒体からは開放され、図案はたった一枚のフロッピーの中に全てが納められるようになったのである。

その後、紋紙を読み取る部分さえも装置化され、紋紙そのものが不要となる「ダイレクトジャガード」が開発される。このシステムは、フロッピーの情報だけで、経糸が制御出来るために、紋紙に関わる経費が掛からなくなったのと同時に、製織までの時間が大幅に短縮したのである。

外から見るよりかなり広いスペース。棚には、帯の命とも言うべき、フロッピーディスクがずらりと並んでいる。

フロッピーの大きさは8・5・3.5インチと様々。だが、ダイレクトジャガードが開発されて、すでに30年が経過し、このシステムの「肝」でもあるフロッピーディスクそのものの生産がほとんど終わっているのが現状だ。

そのため、最新式のジャガードは、フロッピーで情報を出力せずに、データを直接取り込んで経糸を制御させる「電子ジャガード」なのだが、従来のフロッピー接続式のジャガード機から転換させるためには、多大な費用がかかるため、なかなか普及しない。

同じフロアには、織り上がった帯の検品台が置かれ、その奥には、今まで紫紘で織り出された数千本の帯の「見本裂(西陣では、この裂のことをメザシと呼ぶそうだ)」が並ぶ。

野中くんによれば、この裂を参考にしながら、復刻させる帯を考えるらしい。だが複雑な図案の帯ほど、糸の費用もかかり、織手間もかかる。だから、あれもこれもと昔の図案を織り直す訳にはいかない。商いを取り巻く今の状況を考えると、伊太郎翁の仕事を受け継ぐことが、いかに難しいことなのか、理解出来る。

そして、復活させることのできる帯は、フロッピーに情報が残っているものだけに限られる。紙そのものを使った紋意匠図は、すでに保管されてはいないと言う。つまりは、コンピューター化される前に製織された帯の復刻は、難しいということだ。

帯のデータが、ほとんど一枚のフロッピーに集約されている現状では、なんらかの理由でディスクが破損してしまえば、全てが雲散霧消となる。しかも、システム的には、フロッピー接続のダイレクトジャガードが、すでに一時代前のものである。

フロッピーのデータを、USBメモリに置き換えるという対応策もとられてはいるが、全体を見渡せば、まだまだ生産は旧式に頼っている。西陣を代表する織屋・紫紘でも、このあたりに大きな課題が残されているようだ。

 

ジャガードを付けた手機(てばた)がずらりと並ぶ、三階の織場。

紫紘が織り出す帯の特徴は、何といっても、精緻で複雑な図案を美しく描き出したもの。ふんだんに色糸や引き箔糸を用い、帯の地や模様に独特の表情を持たせる。機械機(力織機)では、使える色糸の数に限りがあり、引き箔糸などは扱いが難しい。手機だからこそ、紫紘らしい帯が織り出せるのだ。

三階の一番手前におかれた、巨大ジャガード機。これは、伊太郎翁が心血を注いだ「源氏物語絵巻」を製織する時に使われたもの。

ジャガードに連動して取り付けられた手機。製織する前に必要なのは、綜絖(そうこう)に糸を繋ぐ作業。綜絖というのは、緯糸を入れるために、経糸を上下に開口させる部品のこと。枠に付けられた綜絖の中心部には目が作られ、そこに経糸を一本ずつ通していく。

この作業は、経糸の数だけ必要となる。ちなみに、源氏物語絵巻には、4000本もの経糸が使われたが、気の遠くなるような根気と、熟練した技がなければ、出来るものではない。

 

ダイレクトジャガード機で、織りを進める女性職人。画像の左にみえるのが、フロッピーディスク用のコントローラー。機械の左側に、ディスクの差込口が見える。

織手は、緯糸を打ち込むごとに、必要な綜絖を上下に動かし、通されている経糸を上下に分け、杼の通る道を作る。これを開口(かいこう)と呼ぶ。そして、杼を経糸の中にくぐらせて、緯糸を通す。杼は、使う色糸の数だけ、用意しなければならない。

通された緯糸を前に打ち付ける「筬打ち(おさうち)」。これにより、緯糸と経糸が正しい位置で交差する。模様が複雑で多色であればあるほど、織り手間が掛かる。筬打ちの力の入れ方一つで、織面のツヤが違うと言われる。織職人には、平均的な力で長時間織り続ける忍耐力も、求められる。

 

三階の一番隅の手機には、熟練したベテラン男性職人。やはり、フロッピー接続のダイレクトジャガード機が使われている。どんな図案の帯を織り出しているのかと、近くに寄ってみると・・・

何と、「ヴォン・ボヤージュ」であった。先月のコーディネートの稿でご紹介した、モダンにして精緻な図案を覚えておられる方も多いだろう。紫紘がこの帯を完成させるまでに、数年の歳月を要したと言う。いかにパソコンを駆使してデザインを考えても、構図や配色、使う糸の種類が決まるまでには、相当苦労があった。

このヴォン・ボヤージュには、引箔糸が多く使われている。この糸を織り込むためには、人の手がどうしても必要になる。

箔糸は、杼に入れた色糸とは別にして、数十本ずつまとめて新聞紙に包み、手の届きやすい場所に置いておく。使う時は、一本ずつ抜き取っては竹の棒に引っ掛けて、経糸に通す。丁寧に箔糸が織り込まれた生地は、他には見られない重厚感が広がる。

丁度、帯の垂れ部分を織っていたのだが、数十人もの人の後姿を、細かく色彩豊かに描いている図案だけに、ここだけでもかなりの時間を費やしている。最初の画像に見えるように、見本裂の図案の色を確認しながら、丁寧に織り進められていく。

 

仕事場を拝見して、改めて感じたことは、帯という織物の中には、さまざまな人の思いというものが、凝縮されているということだった。図案や色を考案する人。品物にもっとも適した糸を作る人。織職人が使う道具を作る人。そして、一越一越心を込めて織る人。それ以外にも、多くの職人が関わっている。

一本の帯が仕上がるまでには、複雑な工程を辿る西陣の仕事。それぞれの職人が、自分の持ち場で技術を磨いてきた「分業の歴史」があるからこそ、今の時代まで、この町が存在し続けてきたのだろう。

システム化して、どんなに効率が重視されようとも、全く人の手を使わないモノ作りは不可能だ。西陣が生み出す至高の織物を未来に残すためには、時代に逆らうほどの強い意志が、一番必要ではないだろうか。

最後に、快く仕事場を案内して頂いた、紫紘の野中くん兄弟には、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

 

西陣の中で、真っ先に図案設計と紋紙製作にコンピューターを導入したのが、紫紘・山口伊太郎翁でありました。時は、1970年代後半・昭和50年代初頭のことです。

当時、周囲からは、「コンピューターを利用して作ったような帯には、人の心がこもっていない」との、批判の声も多かったと聞きます。けれども伊太郎翁は、「新しいことは、やってみなければわからない」と、積極的な態度でコンピューターと向き合います。今考えれば、この時が、伝統技術と情報技術を結んだ西陣織の転換点だったと思います。

「四千年以上前にすでにある技術、表現に埋没し、百年一日の如く同じもの等には、興味が無い」。これは、伊太郎翁が残した言葉です。「新しき事への挑戦こそが、未来へと続く道に繋がっている」ということですね。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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