日本の美術に対して、欧州の人々が注目するようになった契機は、19世紀中期に始まった、万国博覧会によるところが大きい。
初めて日本の工芸品が展示されたのは、1862(文久2)年のロンドン万博。この時出品されたものは、日本に駐在していたイギリス人・コールコック(イギリスの初代総領事)の蒐集品だったため、美術的な価値のあるモノは少なかった。
国としての参加は、明治維新直前の1867(慶応3)年のパリ万博。この時は、幕府本体から、刀剣や屏風、扇子・提灯等が出品された他、藩の産品として、薩摩藩から琉球や薩摩の織物・陶器などが、佐賀藩からは有田焼が出品された。
1874(明治6)年に開催されたウィーン万博は、日本政府として初めて公式に参加した博覧会であった。出品するにあたり、政府は御雇外国人の一人である、ドイツ人・ワグネルに意見を求めた。ワグネルは、欧州に比べて技術が劣っている工業製品ではなく、日本独自の美術的な工藝品に絞るべきだと、助言を与える。
そうして、出品されたのは、浮世絵などの絵画であり、漆器や細工物、それに染織品や陶磁器などであった。また、会場内には日本庭園や神社を作り、鳥居や社殿、さらには建物に続く渡り橋などを配置し、鎌倉大仏や谷中五重塔を模したものも建設された。
このウイーン万博こそ、日本の芸術文化を欧州の人々に知らしめる、大きな契機となった。後に、欧州美術にも大きな影響を与える「ジャポニズム」への端緒でもある。
ウィーン万博へは、文物を送り出すだけでなく、職人も送り込んだ。これは明治政府が、ヨーロッパの先進技術を学ぶことにより、遅れている自国の技術を変革し、近代化に向かおうと考えたからである。
そして派遣された一人のベテラン織職人が、西陣に革命的な変革をもたらした。それは、当時60歳になっていた伊達弥助が、オーストリア式の新鋭織物機・ジャガードを持ち帰ったからである。また時を同じくして、京都府が三人の西陣の職工(佐倉常七・井上伊兵衛・吉田忠七)をフランス・リヨンへ派遣する。ここには、この最新式紋織機を発明したフランス人、ジョセフ・マリー・ジャガールが住んでいたからだ。
それまでの文様織は、機の台上にいる人間が、経糸に結んだ糸を文様にそって引き上げ、それに応じて、下の織手が緯糸を打ち込むことで、文様が織り出していた。この二人一組で文様を織る機械のことを、「上=空に向かって糸を引き上げる」ことから、「空引機(そらひきはた)」と呼ぶ。
人の力で経糸を上下させるのは、かなり労力を要する。これを、機械が読み取って自由に出来れば、かなりの省力化になる。当然、一人で文様を織り出すことが出来る。
これを実現したのが、「ジャガード機」であった。この機械は、文様に応じて穴を開けた紋紙(パンチカード)を読み込み、それに応じて経糸が自由に開いたり閉じたりするという、画期的なものだった。
リヨンに派遣された三人の職人も、最新鋭のジャガード機を西陣へ持ち帰った。それはすぐに、織機大工職人・荒木小平によって模倣製造され、量産されていく。京都府では、この機械を普及させるために、府立の研修所を作り、リヨン帰りの職人・佐倉常七と井上伊兵衛を講師に招いた。
こうしてジャガード機は、西陣のみならず、全国の織物産地に広がっていった。紋紙のパターン(穴の有無)で制御された機械は、やがて進化し、現在では、コンピューターが発する信号を受けて、経糸を上げ下げする「電子ジャガード」が使われている。
仕事の省力化とともに、このジャガード機無くしては、複雑な文様を織り出すことは出来なかっただろう。そんな訳で、今日これからご紹介する帯も、この技術を生かし、製作者が意図した文様を、精緻に織り出した逸品である。
(手織袋帯 作品名「Bon Voyage(ヴォン・ボヤージュ)」・紫紘)
テーマが決められて、品物の依頼を受けた時、バイク呉服屋がお客様に提示する品物は、5~6点程度である。その方の好みや、テーマなどを綿密に考えれば、ふさわしい品物はそう多くはない。
お客様に提示する前、どれだけ品物を吟味出来るかということが、もっとも商いの成立を左右する。それは、自信を持って依頼人に勧めることが出来る品物を探せるか、否かに掛かっている。理想的には、品物の色目と雰囲気を変え、しかも少しずつ価格帯をずらしながら、5~6点の品物を提案することだ。
キモノが5,6点とすれば、用意する帯は、10本程度になる。私の中では、「このキモノだったら、この帯を」と、ほとんど決めている。品物をお目にかける場合、まずキモノを選んで頂き、決まったら帯に移る。逆から、モノ選びをすることは、ほぼない。
加賀友禅「さざなみ」にふさわしい帯、と決めていた「ヴォン・ボヤージュ」
帯を製作したのは、紫紘。この老舗織屋の品物については、今までにも度々ブログの中でご紹介してきたが、多くが、古典的な図案をモチーフにしたものだったように思う。それは、創設者・山口伊太郎翁の手で織り出された、「源氏物語絵巻」と同様に、雅やかな平安王朝の風景や、儀礼を切り取ったような文様であった。
「ヴォン・ボヤージュ」は、これまでの紫紘の帯が持っていたイメージとは、まったく違う。画像を見ればお判りになるように、これは外国、それもヨーロッパのどこかの国の風景を、そのまま織姿に出したものだ。
紫紘は、数年前から「ウイリアム・モリス」シリーズの帯を製作している。ウイリアム・モリスとは、19世紀に活躍したイギリスのデザイナーで、新たな美術運動である「アーツ・アンド・クラフツ運動」の創始者、「モダンデザインの父」とも呼ばれる人物。
産業革命以後、急速にヨーロッパで進んだ産業の機械化は、いかに効率良く、沢山の商品を安く作るか、ということに主眼が置かれていた。モリスは、このようなモノ作りを先行させる社会に対して、疑問を投げかけ、一石を投じる。それが「アーツ・アンド・クラフツ運動」であった。
モリスが理想とする社会は、16世紀のイギリス・チューダー朝時代。まだ、産業革命が始まる以前のイギリス社会では、手仕事によるモノ作りが主体であり、品物の中のデザインには、自然や伝統につちかわれた美の表現があった。それは、この時代に生きた人々が、穏やかで、あるがままに暮らしていた証でもある。
人々が暮らしの中で、心に潤いを持つことが出来る品物。そこには、人の手による美しく、独創的な装飾デザインが欠かせない。もの作りを通して、受け継がれてきた普遍的な美の再興とは、「生活の中に芸術を見出すこと」であり、それこそが、モリスの求めていたことであった。
モリスが装飾に使った品物は、家具や壁紙、ステンドグラスなどのインテリア商品や、書籍の表紙やカバー。それは、人々が日常生活の中で、いつも目にするものばかりであった。デザインの題材にしたものは、自然の中で育つ樹木や草花が多い。そんな何気ないものを、日々の暮らしの中から見つけて、モチーフにした。
良く知られたモリスのデザインの一つ、「いちご泥棒」。いちごの枝の下に、対のツグミが描かれているものだが、これは、モリスが庭で育てていたイチゴの実を、鳥が食べてしまったことがヒントになっている。
紫紘が、モリスのデザインを帯に使おうとした理由は、模様そのものが美しいだけではなく、モリスの精神に共鳴したからだろう。文様をデザインとして、生活の中に残すことは、日本も同じこと。そして、その仕事は人の手でなければ、生まれてこない。
今日ご紹介する帯模様は、モリスとは直接関係がない。だが、優れたヨーロッパのデザインをモチーフとする中で、紫紘の製作者がこの風景に出会い、図案にしようと決めたものと考えられる。そこには、ここ数年来ウイリアム・モリスシリーズを製作していることで生まれた、「モダンデザインへの意識」が働いていたのだろう。
前置きの話がかなり長くなってしまったが、具体的に帯のデザインを見てみよう。
帯の腹部分。どうやら、どこかの橋の姿を描いたものとわかる。
この帯の模様には、実在の場所が使われてる。それは、イタリア中部の都市・フィレンツェ。上の橋は、街の中心を流れるアルノ川に掛かる「ポンテベッキオ」。古い橋という意味を持つ名前の通り、この橋が建設されたのは、1345年のこと。この街の橋は、第二次大戦下ですべて破壊されたが、ポンテべッキオだけが、唯一残った。
橋の上には家々が並んでいる。実際にこの橋の上では、金細工や宝石職人達が、小さな店を構え、軒を並べている。家々の色は、朱・緑・白のイタリアンカラーを使って織りだしている。
橋の背景には、うっすらと町並みが浮かび上がっている。
これは、フィエーゾレの丘。フィレンツェの中心から、バスに30分ほど揺られると、この丘に着く。ここからは、フィレンツェの街が一望することが出来、特に夕景は素晴らしく、街そのものが浮かび上がるようにも見えるそうだ。
フィエーゾレは小さな町だが、14世紀に建立されたサンフランチェスコ教会が現存するように、古くからキリスト教の拠点都市として栄えてきた。歴史的に見れば、フィレンツェより古い。帯の模様の中に、教会の塔らしき建物が見えるのには、訳がある。
中世の帆船をイメージしたような気球が、お太鼓の模様。遊び心がいっぱい詰まった、見ていて楽しくなるような飛行船。
気球が係留している船に乗って、街を見下ろす。船には樽や鳥かご、家のミニチュアなどが一緒に結わえられていて、さながらメリーゴーランドのようだ。かなり細部まで密に描かれている模様だが、これは絵画ではなく、織の表現である。この精緻な仕事こそ、紫紘の真骨頂である。
気球部分を拡大してみた。結わえられた縄は、少し緩んだような姿で織り出されているので、自然に映る。手で描いたとしても、ここまでリアルに表すことはなかなか難しいだろう。これを「織」で表現してしまう技術とは、どれほどのものなのだろうか。
模様そのものは、コンピューターを使ってデザインされているので、どんな複雑なものでも考えることが出来る。しかし、実際に織り込んでいくのは、人の手である。いくら優れた精密なデザインであっても、織り出す職人の技術が伴わなければ、それこそ「絵に描いた餅」になってしまう。
帆船に取り付けられている、鳥籠と樽。
小さな滑車一つを織り出すだけで、一体どれほどの時間を必要とするのだろうか。しかも、模様を良く見れば見るほど、細かく色が入っている。使われている糸の種類を考えても、この帯の価値がどのようなものかが、判る。
気球のてっぺんには、足で旗を持つニワトリがいる。
ニワトリの羽は、金銀糸を使いながら、立体的に表現されている。しかも、鶏冠の赤が効いている。模様を、平面的にも、立体的にも、自在に見せることが出来る織の技は、まさに至高であろう。
気球に手を振る人々の姿が、帯の垂れに見える。
バイク呉服屋は、今まで沢山の帯を扱ってきたが、垂れの模様を、これほどまで図案にこだわって、しかも精緻織り出した品物には、出会わなかった。
木の上に梯子を掛けて登り、手を振る人。建物の煙突の途中で手を振る人。見送る人が連れてきた犬。気球を見上げる人は、すべて後姿だが、その様子は一人一人違う。
この帯に名前が付いているのも、気球を見上げている「垂れの人々」がいるから。この人たちは、きっと口々にこう叫んでいるはずだ。「ヴォン・ボヤージュ!」と。
この言葉はフランス語で「よい旅を!」という意味である。ヨーロッパでは、旅行者にかける言葉としてよく使われている。フィレンツェの人ならば、イタリア語の「Buon Viaggio(ヴォン ビアッジョ)」になるが、同じ意味だ。
見送る人々は、まさしく老若男女様々。一人一人、背格好が違い、服の色も違う。後姿であっても、人々の笑顔が思い浮かぶ。ストーリーのある作品は、手間を惜しまぬ仕事があるからこそ、生まれる。これは、先日ご紹介した加賀友禅の「さざなみ」と同じである。
お太鼓の帯姿は、こんな感じになるだろうか。皆様も、「良い旅を!」と手を振って叫ぶフィレンツェの人々の姿が、浮かんでこられたかと思う。
次回は、「さざなみ」と「ヴォン・ボヤージュ」をコーディネートした姿をご覧に入れよう。作者の自由な発想から、ストーリーのある模様が生み出され、それを、伝統に基づく技で精緻に表現し、一つの作品とする。そんなキモノと帯を組み合わせると、どのようになるのだろうか。
紫紘とフランスとを結ぶ縁は、深いものがあります。山口伊太郎翁が、その晩年に精魂込めて織り出した「源氏物語絵巻」が、フランス国立・ギメ東洋美術館(ルーブル美術館の東洋部門)に寄贈されています。
これは、伊太郎翁が、西陣の発展に多大な貢献をした「ジャガード」という機を生み出したフランスに対して、感謝と敬意を表したことに他なりません。それは、この機の存在なしには、西陣を語ることは出来ないということになるでしょう。
過日、西陣・東千本町にある紫紘の本社に立ち寄った時に、仕事場を拝見することが出来ました。図案を作成している方々や、手機で織仕事をしている職人の方々の姿を拝見し、改めて紫紘という織屋に対する理解が深まりました。
また同時に、「源氏物語絵巻」を織った機や、これまで紫紘で織り出された、おびただしい数の帯の布見本なども、見せて頂きました。近いうちに、この時の様子を、「取引先散歩」の稿として、お話したいと考えています。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。