参議院選挙の投票日まで、あと一週間あまり。どの政党・候補者を選ぶか、ということよりも、そもそも投票所へ足を運ぶか否か、で迷っている。積極的に一票を投じたいという人物もいないときは、消去法で考えて、より「まし」な選択をする他はない。
今回から、選挙制度が変わり、18歳から投票に行けるようになった。どれほどの若者が投票所へ足を運ぶのか、わからないが、ぜひ行かれた方が良いだろう。
少子高齢化に伴い、年々増え続ける社会保障費だが、予算のほとんどが高齢者に向いていて、若者・子育て支援への対策は手薄である。こんな現状を変えるためには、一票で政府を動かす以外は無い。
前回の衆議院選挙の年齢別・投票率を見ると、20歳代は約32%・30歳代は約42%である一方、60歳代は68%にも及ぶ。タダでさえ、高齢者に人口構成が偏っている上に、これだけ投票率に差があれば、政府の対策は、否応無く高齢者重視になってしまう。こんな「シルバー民主主義」のままでは、いずれ国が立ち行かなくなる。
バイク呉服屋が、初めて選挙に参加したのは、今から36年前の東京。1980(昭和55)年の参議院選挙である。当時参議院は、全国区と地方区に分かれていて、それぞれ一人ずつを選んで投票する方式だった。この時、自分で選んだ二人の候補者は、今でも覚えている。東京地方区は宇都宮徳馬で、全国区は市川房枝。
宇都宮徳馬は、戦前京都大学でマルクス主義者・河上肇の薫陶を受けて、共産主義者となるものの、治安維持法で逮捕された後に、転向。戦後は自由民主党に所属しながら、平和共存外交を目指し、対ソ連、中国、北朝鮮との国交回復を主張する。
自民党の中でも、最左派といわれ、「ハト派」の代表的人物だった。あまりに左よりだったために、党内から孤立し、この時の選挙は離党して無所属だった。生涯を通じ、政治家として軍縮という命題に立ち向かった人物でもある。
市川房枝は、1919(大正8)年、女性の社会的地位の向上を目指し、平塚雷鳴とともに「新婦人協会」を発足させる。半世紀以上も、女性の権利獲得のために、働き続けた方。高校の日本史の教科書にも、その名前を見つけることが出来るような人が、まだ議員として存在していたのだ。
当時の年齢は、87歳。どの政党にも属することなく、無所属議員の集まりである「二院クラブ」に席を置いていた。市川の選挙は、何の組織にも頼らない。運動員は個人的な支援者に限られ、みんな手弁当で汗を流した。金としがらみの無い清潔な運動は、選挙の理想と讃えられた。
今の候補者の中に、宇都宮や市川のような、政治家として一本スジの通った人物を探すことは出来ない。組織や利害だけで有権者と結びついたような人物や、政治を家業とするような世襲議員には、何の魅力も感じない。生涯にわたり、大きな命題を持ち続けるような政治家が消えてしまったことが、この国が停滞する一つの要因かもしれない。
世襲議員の三種の神器は、言わずと知れた「地盤・看板・鞄」である。親の代から続く、強固な後援会組織と、政治一家として知られる知名度とを受け継ぎ、その上に潤沢な資金を持つ。徒手空拳の普通の人物では、とても敵うものではない。
議員ばかりではなく、会社も同じで、子どもを始めとした親族で経営権を持ち続ける企業は、中小まで含めると、日本全体で95%にも及ぶ。ほとんどが、ファミリー企業であり、言うなれば家業みたいなものだ。
我々のような、小さな個人経営でも、代を受け継いで商いをさせて頂いていると、多かれ少なかれ「地盤・看板・鞄」の恩恵を受けている。これを総称して「暖簾」と言うのだろうが、現代では、この暖簾を守ることが容易ではない。先代と同じように、顧客を守っているだけでは、商いは細る一方である。継承するものを大事にしながら、自分なりに工夫して行かなければ、たちまち立ち行かなくなる。
前の稿から時間が空いてしまったが、今日は、銀座の老舗履物店の続編を書くことにする。ぜん屋さんに続き、もう一軒の老舗・小松屋さんについて、ご紹介しよう。長く受け継がれた暖簾の下で、どのような商いをされているか、店舗をご案内しながら、お話してみたい。
小松屋さんは、1924(大正13)年に開業。今年で、創業92年を迎える老舗であり、皇室の履物誂え司として、知られている。
赤坂で創業した後、1967(昭和42)年に、銀座7丁目の資生堂ビル内で銀座店を開業。7年前、資生堂ビルの建て直しに伴って、現在の銀座ナイン・2号館内に移転。
現店舗のある銀座ナインは、JR新橋駅の銀座口から歩いて2分ほど。地下鉄銀座線・新橋駅1番出口からはすぐ。三棟ならんでいる銀座・ナインの真ん中、2号館の一番東側一階にあり、中央通りに面している。
ぜん屋さんの開店時刻が、小松屋さんより30分早かったので、ぜん屋さんに伺った後に、小松屋さんを訪ねた。銀座から、少し新橋に戻るような形にはなるが、二つの店は歩いて5分ほどしか離れていない。
ビル内のテナントだけに、開放的であり、気軽に店を覗ける。間口は広くないが、奥行きがある。壁際に設けられた棚には、少し間隔をあけて草履が並べられていて、すっきりとしたディスプレイになっている。所々に置かれた灯りが、美しく草履を見せるためには効果的。
家内が小松屋さんで選ぶ品物も、やはり普段履き。ぜん屋さんで選んだ品物は、シンプルな牛革で、高さを押さえたもの。台の色は淡い鶸色で、鼻緒はクリームだった。全体の雰囲気は、似たような感じになるだろうが、台の大きさや、判の広さが微妙に違ってくるだろう。
小松屋さんで誂えらえた草履。台は、柔らかな灰桜色で、鼻緒は白とごく薄い藤色の二重重ね。前坪の臙脂が、アクセントになっている。
草履の高さは5cmで、大きさはL判。家内の足のサイズは、24~24.5cmなので、最初に台を、2Lサイズのものを合わせてみた。接客して頂いた店の方に相談に乗ってもらうと、もう少しかかとが出ても良いのでは、とアドバイスを受ける。
L判の長さは23.5cm・幅が7.8cmで、2Lは長さ24cm・幅が7.9cm。幅はほとんど変わらないが、長さは5mm違う。このわずかな違いが、履き心地や美しい履き姿に関わってくるので、台選びは大切だ。通常、草履からかかとが2cmくらい出ているのが、格好の良い姿だと教えて頂く。
家内がアドバイスを頂いた、小松屋さんの「小松」さん。もう一人男性の方が店におられて、奥で仕事をされていた。
品物を見立てて頂いたのは、女性の方。胸のネームプレートには、「小松」と記されていたので、小松屋さんと縁続きの方(女将さんさんかどうかはわからないが)とお見受けした。三層重ねの台の高さは、5cmのほかに6cmのものもあるが、家内は上背があるので、低い方をすすめて頂いた。
小松屋さんでも、台の色や鼻緒などは、好みに応じて付けてもらえる。ぜん屋さんで選んだ色が、鶸色だったので、今度はピンク系。キモノの色への対応のしやすさを考えると、やはりおとなしい色になる。
鼻緒は台の色と同系でも、かなり白に近い色。上の画像で、二層になっていることがわかるが、これならば足への当りがかなりソフトになる。大抵の人が、草履の履き始めには、足が痛むように感じられるものだが、少しでもそれを抑えようとする工夫が見られる。そして、履いているうちに、自然に自分の足型に馴染むように、作られている。
草履は、左右がわかり難いので、裏に書いておいたほうが良いようだ。裏側は、小松屋さんのロゴ入りの牛革クローム。かかとを保護するために、ベージュ色のゴムが付けられている。
かかとがすり減ってくると、履き心地が悪くなるので、早めに交換するほうが良いようだ。台の表面や側面は、皮だけに雨に濡れると痛みやすく、十分に乾かしてから仕舞うことが大切になる。落ち難いしみ汚れは、自分で処理しようとせずに、店側に任せた方が安心。あわてて化学洗剤などを使用すると、変色の怖れがある。
特に普段履きは、消耗品であり、長く使うにはそれなりのメンテナンスが必要になる。後の手入れを安心して任せる店こそ、信頼出来る老舗であろう。このあたりは、キモノや帯を扱う呉服屋と全く同じだ。小松屋さんにしても、ぜん屋さんにしても、良い品物を長く使って欲しいという姿勢が、商いの中から伺える。
スペースをゆったりと使い、品物を置く。鼻緒をすげた完成品、台だけを置いたもの、片方だけの草履と、工夫を凝らしながら、上品に見せている。沢山の品物が並んでいる、ぜん屋さんのディスプレイとは対照的である。
小松屋さんには、都会的でモダンな雰囲気が、ぜん屋さんには、昔ながらの小粋な草履屋さんの風情が感じられる。どちらの店にも、それぞれ独特な品物の見せ方や置き方があり、店構えにも個性が出ている。
棚の上段には、礼装用の華やかな草履とバックが、何点か置かれる。小松屋さんが皇室の御用を請けるようになったのは、現・皇后陛下の美智子さまがご婚礼の際に、白金古代柄の草履を誂えられてから。この草履は、婚礼後の各宮家ご訪問の際に履かれ、その履き心地の良さが大変気に入られ、その後「履物なら、小松屋で」と指名されるようになった。
現・皇太子妃の雅子さまや、秋篠宮妃の紀子さまも、ご成婚の時には、小松屋さんで草履を誂えられ、ご持参されている。
美智子皇后が使われた草履と同じ、正倉院華文・白金皮製のバッグは今も、製作されている。この他に、若い方の振袖や訪問着用としてビーズバッグや、少しカジュアルな有職文様の布バッグも置かれている。
あくまでも上品な小松屋さんの草履は、どんな礼装用のバッグに合わせても、よく馴染む。スタンダードな良品の姿は、時代を経ても美しい。
今回、小松屋さんとぜん屋さんで、家内が誂えた二点の草履。どちらも牛皮の三層重ねの台と、皮の鼻緒。色は違うが、優しい色を組み合わたもので、雰囲気は似ている。
サイズ的には、高さは、ぜん屋さんのものの方が、わずかに低い(ぜん屋・4.5cm、小松屋・5cm)。幅はほぼ同じだが、長さは小松屋さんの方が少しだけ小さい。台の寸法は、店ごとに微妙に基準が違うので、実際に店を訪ねて、相談に乗ってもらうほうが、確実であろう。
キモノを着る時、草履は、欠かすことの出来ない重要な品物。履き心地の良い草履ならば、キモノで出掛けることも苦にならない。特にカジュアルモノを使うときには、自分の足にピタリと馴染むような歩きやすい草履は、必須アイテムとなる。
自分の足に合う台を見つけることはもちろん、台や鼻緒、前ツボの色など、自分の好みに合う組み合わせを考えるのも楽しい。もちろん、今持っているキモノの色や柄、それに履いていく場所なども思い浮かべながら、選んでいく。
ご紹介した小松屋さんや、ぜん屋さんでは、まず、使う人の話を丁寧に聞いた上で、的確にアドバイスをする。老舗ではあるが、決して敷居が高い訳ではない。ぜひ皆様も気軽に出掛けて欲しい。きっと、満足されるはずである。
小松屋さんの営業時間は、毎日11:00~20:00まで。第三日曜日は、銀座ナインビル全体がお休みのため、閉店しています。ネットでの販売もされていますが、ぜひ一度は、店舗の方を訪ねてみて下さい。
小松屋さんが創業した年・大正13年は、藩閥や枢密院を主体とする清浦圭吾内閣が倒れ、護憲三派(立憲政友会・憲政会・革新倶楽部)による加藤高明内閣が誕生した年。「憲政擁護・閥族打破」のスローガンの下、政党政治の実現や、普通選挙実施などを求めた、いわゆる護憲運動の高まりを受けて成立しました。
翌年には、普通選挙法が成立し、25歳以上の男子全てに選挙権が与えられます。それと同時に、言論や信教・出版の自由などを制限した悪法・治安維持法も制定され、いわば「飴と鞭」を兼ねた法整備になっていました。
バイク呉服屋が政治家として、尊敬する人物は二人。戦前、粛軍演説を繰り返して民政党を除名された斉藤隆夫。国家が戦争へと傾く時代、最後まで反軍と反ファシズムを言葉で体現し抵抗を続けた、稀な政治家でした。その勇気と、意思の強さには、驚くばかりで、戦前の政党政治の中で、一際光を放っています。
もう一人は、戦後の政治家・松村謙三。敗戦直後の東久邇宮内閣で厚生大臣、その後の幣原内閣で農林大臣を務めます。富山県の大地主でしたが、自らが進めた農地改革により、自分の土地をほぼ没収されてしまいます。また、中国との国交回復を誰よりも早く主張し、生涯にわたり関係改善に尽力します。
まだ、中国に誰も見向きもしなかった1950年代、半官半民の貿易・LT貿易(廖承志・高碕達之助による)実現に尽力。私費で中国に渡り、周恩来と独自のパイプを築き上げ、後の日中国交回復の礎となりました。自由民主党にありながら、ハト派の代表的な人物で、昭和34年の総裁選挙では、当時の岸信介首相のタカ派的な考え方を徹底的に批判するために、負け戦と判りながらも出馬しています。
政治的な実績もですが、松村の素晴らしさは、「政治家は公僕である」ことを体現したこと。息子が学校に提出する親の職業欄は、いつも「無職」だったそうです。公僕=社会奉仕をする仕事は、職業ではない。それが政治家のあるべき姿だと考えていました。
選挙では金をかけず、組織を持たず、応援する人達は、手弁当。そんな松村を知った全国の市井の人たちからは、「貧者の一灯」として、寄付が寄せられていました。その私生活が質素そのものであることを、知られていたからです。選挙区だった富山県・福光の人たちからは、「けんそはん」と親しまれ、尊敬されていました。
考えてみれば、市川房枝、宇都宮徳馬、斉藤隆夫、松村謙三、この人達はみな世襲を許していません。政治家としてよりも、人としての気位の高さを感じさせてくれます。
今は、どこをどのように探そうと、こんな政治家には出会えませんね。ついぞ、長い後書きになってしまいました。お許し下さい。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。