バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

オホーツクの残照  知床半島西岸・宇登呂

2016.05 03

バックパッカーだった若い頃、度々「ステーション・ホテル」を使った。このホテル、代金は一切掛からない。寝袋さえあれば、勝手に泊まることが出来る。私は、駅ばかりか、庇の付いたバス待合所や、農業倉庫のトタン屋根の下なども度々利用させて頂いた。雨風さえ凌げればどこでも良かったが、他人には、浮浪者のように見えていたことだろう。

泊まりやすい駅は、無人駅である。駅員がいたり、乗降客の多いところは、どうしても「人の目」が気になる。その点、無人であれば、誰に憚ることなく行動出来るのだ。

 

30年前の北海道には、無人駅以下の駅が多く存在していた。その駅は、仮乗降場という呼び名が付いていたが、全国版の時刻表には記載されていない。当時、国鉄本社は正式な駅とは認めておらず、各路線が所属していた鉄道管理局が、地元住民の便宜を計るため、独自に設けた乗り場であった。

そんな仮乗降場のホームは、ほとんどが木製で、長さは列車一両分だけ。待合所のないところも多く、たとえあっても粗末な小屋程度のもの。ひと気の無い原野や寂しい海岸べりなどに、ポツンと取り残されたように立っていた。

乗降場が設けてある路線の多くがローカル線で、止まる列車はせいぜい一日に5、6本程度。ほとんどが朝と夕方に限定されており、利用客は10人もいれば多い方である。

 

私が好んで利用したのは、このような「乗降場」であった。湧網(ゆうもう)線の志撫子(しぶし)仮乗降場・興浜北(こうひんほく)線の山臼(やまうす)仮乗降場・天北(てんぽく)線の新弥生仮乗降場など、お世話になった駅を数え始めたらキリがない。

志撫子で見た、サロマ湖の朝焼け。山臼で聞いた、オホーツクを渡る風の音。新弥生のホームで見上げた、天北原野に輝く満天の星。粗末な木のホームの上で、仰向けに寝たまま、最高に贅沢な時間を過ごしていたのだと思う。

すでに、これらの路線が廃止になってから、30年あまり経つ。当時の乗降場の姿は、もうどこにも留めていないだろう。けれども、朝露に濡れながら、風に震えながら、そして何一つ光のない闇の中で見つめた光景は、いつまでも消えない。

 

連休なので、久しぶりにむかしたびの稿を書くことにしよう。呉服屋に関わる話を期待されて、このブログを訪ねてこられた方々には申し訳ない。今日は、読み飛ばして頂いても、結構である。それでも読まれた方が、お休みの暇つぶしにでもなれば、嬉しく思う。

今日の旅先は、若い頃よく働きに行っていた、知床半島の漁師町・宇登呂(うとろ)。流氷に覆われる、厳冬のオホーツクの姿を御紹介しながら、お話させて頂こう。

 

流氷が接岸した宇登呂港。1981(昭和56)年・2月の夕景。

 

赤い頃の私は、旅に出る時には、ほとんど何も決めなかった。そして行き先の情報は、なるべく持たないようにして、出掛けた。5万分の1の地図を開き、地名や地形などから、どんな場所か想像を巡らせる。時によれば、土地に付いた「字(あざ)」の名前に惹かれて、行く場所を選ぶこともあった。

根室半島の西側に、風連湖という湖がある。ある時、ここを取り巻く半島の先端に、槍昔(やりむかし)という集落を見つけた。地図で見ると、湖に三方を囲まれ、しかも道がここで切れている。この時すでに、私の中では、荒涼とした風景の中で、鳥が群れ飛ぶ姿が広がっている。槍昔という字の名前は、旅心をくすぐるような、何とも魅力的な地名ある。

そして、実際にこういう場所を訪ねて見ると、自分の想像を超えた風景に出会えることが多かった。今は、日本はおろか、世界中のどんな場所の姿も、ネットで検索すれば、簡単に見つけることが出来るが、自分の気持ちを呼び起こすためには、「何も知らない」ことが大切だと思える。

 

30年前、厳冬期に知床半島を訪ねる者は、まだまだ少なかった。北海道の観光シーズンは、やはり夏がメインであり、真冬は静かな漁村に戻っていた。流氷が、観光資源として、それほど注目されていなかった時代である。

半島の真ん中に位置する宇登呂の町へ入るには、釧網本線の斜里駅から、バスに乗り継ぐ他はない。冬になると、バスの運行本数が極端に少なくなり、一日わずか4本になってしまう。

斜里ー宇登呂間は、およそ40k。バスでも1時間以上かかる。運賃は、850円で、金に余裕のないバックパッカーには、負担が重い。こういう時の移動手段としてよく使ったのが、ヒッチハイクである。

 

初めて宇登呂へ行った時も、そうだった。斜里の町外れの、宇登呂へ分岐する国道の角に立ち、必死の形相で手を挙げる。おりしも、かなり雪が舞っている。私の経験では、悪天候な時ほど、早く車が止まってくれる。大切なのは、土地に根付いた営業車を探すことだ。漁協や農協のトラックなどは、止まってくれることが多い。配達に向かう、クリーニング屋や電気屋の車も、確率が高い。

この時、私を乗せてくれたのは、やはり、斜里のクリーニング屋だった。宇登呂には、この手の店がないので、一週間に2日ほど車で家々を廻っている。当時の私の風体は、かなり怪しいものだったが、雪にまみれた姿に同情して、乗せてくれたのだ。

 

三角岩(右側の岩)と宇登呂灯台。夏は観光船の船着場だが、冬は氷が埋め尽くす。

上の画像と、ほぼ同じ場所から写した別の日の海。岩のような氷が、うず高く積もる。

 

集落の入り口で降ろしてもらい、港へ向かって歩く。道の両側には、土産物店が並んでいるが、ほとんど閉まっている。町には旅行者らしい人影は、見当たらない。宇登呂は、知床観光の中心地だが、それは夏だけのことだった。

フラフラと歩いていると、一軒だけ開いていた民芸品店から、声が掛かった。「寒いから、温まっていって」。そこで奥さんと思われる人から、インスタントコーヒーをご馳走になった。しばらく話をしているうちに、「急ぐ予定が無いなら、うちで居候していけば」と言われる。

後でわかったことだが、ここで働くようになる者は、みんなこうしてスカウトされているのだ。ありきたりな生き方を否定するような、当時で言えば「ヒッピー」的な若者は、誘いに乗りやすい。私を含めて、こういう連中は、一度旅に出てしまえば、行く場所も、帰る時間さえも決めていない。長い間、この手の人種を見極めることに長けていた人の目には、狂いがない。私は誘われるまま、厄介になることにした。

 

夕日に映える、夏の宇登呂港。オホーツクの彼方に沈む陽の、最後の輝き。

「居候」で良くとも、タダ飯を喰い、寝る場所を確保してもらうことには、気が引ける。「一宿一飯の恩義」というヤツで、何か役に立てることはないかと、仕事を言いつけてもらう。

民芸品店の留守番や、たまに来る客の相手や品物の販売、ここは民宿も兼ねていたので、その仕事の手伝いもする。私のように、北海道を歩き倒している者は、旅の情報を沢山持っているので、後々それを客に伝える役目も果たすことになる。

この時以来、足掛け4年にわたり、春も夏も秋も冬も、東京と北海道を往復しながら、この店の世話になっていく。店のご主人にも、奥さんにも、本当に良くしてもらった。私も、一生懸命働かせて頂いた。もちろん、働きに対して、それなりの賃金を頂いていたのは、言うまでもない。この店の名前は、「酋長の家」である。

 

知床が国立公園に指定されたのは、1964(昭和39)年のこと。民芸品店・酋長の家は、その2年後にここで店を開いている。初代は、阿寒アイヌコタンの酋長だった、志富イサネと妻・コルラン。私に声を掛けた人が、この夫妻の娘・悦子さん。アイヌの血筋を受け継いでる人らしく、彫が深い顔立ちの、とてもきれいな方である。

酋長の家には、アイヌの民族衣装・アトゥシや、民族楽器のムックリが置いてあった。アトゥシは、ニレなどの木の樹皮の繊維を撚って糸を作り、織機にかけたもの。普段着は無地モノだが、儀礼用のものは、袖口や衿、裾に刺繍やアップリケがほどこしてある。模様は、アイヌ模様(アイヌ語では、アィウン模様)という、独特な流線形。観光客の目を楽しませるために、何回か着たことがあったが、割と着心地は軽い。

ムックリは、竹製の薄いヘラの端に紐が付いているもの。これを口に咥えながら紐を引っ張ることでヘラを震わせ、音を出す。悦子さんには、よく教えてもらって試してみたが、なかなかうまく音が出なかった。アイヌの社会では、ムックリの演奏が、女性の役目であった。

 

海明けが近い3月。オホーツクが一望できる「オロンコ岩」の上から写したもの。

知床は観光地だが、長く留まっていると、思わぬ美しい光景に出会うことがある。

最初の画像の左側に見える大きな岩が、オロンコ岩。高さが60m、岩には階段が付いていて、上まで登ることが出来る。この頃は、頑丈な手すりやフェンスが付いていなかったので、大変危なかった。

酋長の家には、「タケル」という名前のアイヌ犬がいたが、私は毎日、朝夕散歩に連れ出して、この岩に登った。頂上に立てば、オホーツクが眼下に限りなく広がる。流氷が接岸する冬は、毎日海の表情が変わる。風の向きにより、一日で氷が消えたり、突然、見渡す限り氷原が広がっていたりする。その海を映す夕陽の色もまた、毎日違う表情を見せる。

今も、オホーツクの残照が瞼に残る。ここより美しい夕陽に出会える場所を知らない。

 

宇登呂の町のはずれ、峠へ向かう高台・幌別橋からみた、海の全景。

冬の知床連山。宇登呂の山側に点在する、茶志骨(ちゃしこつ)開拓集落で。

 

皆様に画像としてお目にかけるには、あまりにも稚拙なものである。私に写真の覚えがあれば、もう少し本当の美しさを感じ取って頂けたはず。それが残念でならない。

あれから30年が経つ。宇登呂の町は、どのように変わったのだろう。酋長の家は、今も同じ場所にあり、多くの旅行者を迎えている。私がお世話になった時代のご主人・梅沢征雄さんと悦子さんは、まだ元気に働いておられるようだ。今は、経営を息子さん夫婦に任せ、初孫の世話にも忙しい。

年に一度ほど、悦子さんから電話を頂くが、旅行者の質は明らかに違うと言う。外国人観光客と、日本人の中高年客の姿が目立ち、若者の姿はほとんどない。「シゲルくんのように、寝袋をかついで北海道を放浪する人は、もうどこにもいないよ」と笑う。

自分の足で、苦労して歩くからこそ、出会える風景がある。こうして旅に出る者は、どこにもいない。すでに私など、化石のようなものであろう。時代は町も変えるが、そこを訪ねる人の姿も変える。仕方あるまい。

 

サブちゃんは、「はるばる来たぜ」と歌い、石川さゆりは、「私も一人、連絡船に乗り」と歌う。函館の女は1960(昭和40)年、津軽海峡冬景色は1977(昭和52)年の大ヒット曲。

北海道新幹線の所要時間は、青森まで3時間、函館は4時間。すでに上野発の夜行列車は消え、青函連絡船の記憶も無くなってしまいました。

 

早く目的地に着くことだけでは、得られない心の風景があるように思えます。時間をかけて辿りつくからこその、非日常。それは、距離の遠さを体で感じなければ行き着くことはない、感性のようなものでしょうか。

年を重ねても、私は、飛行機も新幹線も使いたくないですね。今度行く時は、バイクを使います。もちろん寝袋も、持参します。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

宇登呂への行き方。

上野から青森まで19時間。青函連絡船は、函館まで4時間。長万部・小樽・札幌・帯広・釧路経由で、斜里まで20時間。バスあるいは、ヒッチハイクで1時間。合計すると、44時間。(1980・昭和55年の所要時間)

現在、どれほどの時間がかかるのか、私にはわかりません。悪しからず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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