源氏物語は、日本の文学における最高傑作であり、古典文学の頂点を極めるものとされている。平安期の雅やかな宮廷生活を、「光源氏」という主人公の生涯を通して、壮大に描いている。
894(寛平6)年の遣唐使廃止を契機に、日本独特の風土や生活に基づいた文化が生まれる。いわゆる国風文化と言われるものだが、その中でも、当時の政治中枢である天皇・摂関家の雅やかな生活を、仮名文字で生き生きと描いた紫式部の作品は、傑出している。
紫式部は、受領(ずりょう)と呼ばれた役人の娘である。この役職は、地方の行政官(現在では知事のような役割か)として、中央から派遣されるもので、父・藤原為時は淡路や越前・越後など、各地へ赴任していた。
当時、受領のような中級官吏の娘は、宮中に「女房」として採用されることが多かった。女房というのは「奥さん」ではなく、身分の高い者の世話係や家庭教師という役割の役職である。紫式部の父・為時が、当時権勢を誇っていた摂関家・藤原北家と縁続きだったことも、彼女が女房として採用された一因のようだ。
紫式部は、一条天皇の中宮(妻)彰子の女房として、採用される。彰子は、当時の実質的な権力者・藤原道長の長女である。藤原氏は、自分の娘を次々と天皇の妻に送り込み、外戚関係を築き上げることで、自分の地位を不動のモノにしていた。
源氏物語は、貴族社会の奥の院で働く「女房」でなければ描くことの出来ない「女房文学」であり、だからこそ、リアルで生々しい。そしてそれを、美を意識した、教養溢れる見事な筆致で書き上げている。同時代の随筆・枕草子も、歌人・清原元輔の娘として宮中に出仕していた清少納言の作であり、平安期の文学は、女性視点の女房文学であったことがわかる。
さて、この源氏物語は絵巻物の題材として残されている。もっとも古いものが、藤原隆能(ふじはらのたかよし)の手による「隆能源氏」と呼ばれるもの。現存するものは、全二十巻のうち四巻のみで、徳川美術館に三巻、五島美術館に一巻が所蔵されている。
これを、織物として復刻したのが、山口伊太郎・源氏物語錦織絵巻。1970(昭和48)年から2007(平成19)年まで、実に38年をかけて織り上げられたものである。山口伊太郎氏については、以前ブログの中で詳しく御紹介しているので、(2013.7.21 小袖几帳模様袋帯の稿)そちらをお読み頂きたいと思うが、現存している隆能源氏四巻を全て織物で復元するという、気の遠くなるような仕事がなされたものだ。
伊太郎氏は、70歳の時にこの仕事を決意する。完成する直前の2006(平成18)年、105歳で亡くなるまで、織りに全ての精魂を傾けていた。絵を写し取ることを、絵筆でなく、織りで表現する。これは、高度な技術と感性、それに挑戦者としての情熱無くしては、挑めるものではない。伊太郎翁は、最後まで織り職人として生きた稀有な人物であった。
伊太郎翁が作った会社・紫紘は、その名前からもわかるように、源氏物語が強く意識されている。会社のロゴは、源氏香図の「若紫」であり、山口伊太郎の源氏へのこだわりが見える。(詳しくは、2013.9.15 取引先散歩・紫紘の稿をご覧頂きたい)
紘という字の意味には、広げるとか、繋げる、紡ぐという意味がある。紫を紘げるというのは、源氏物語の世界を紡ぐ、という意味が込められているように思える。それは、平安宮廷の雅やかさを表現することであり、紫紘が織り上げる帯には、そのことが強く意識されている。そこには、日本固有の優美さそのものが題材にとられ、精緻な模様を美しい配色で描き切っている。
当店では、伊太郎氏が戦後、紫紘という会社を創設した時以来、60年以上にわたり、お付き合いさせて頂いている。現在、手入れのために店に戻ってくる紫紘の帯には、伊太郎氏の手による素晴らしい仕事を見ることが出来る。そして中には、今となっては、なかなか織り上げることが難しい品もある。
そんな美しい帯を、バイク呉服屋だけが見ていても仕方がない。ぜひ、皆様にもご覧頂こう。不定期にはなるが、ノスタルジアの稿の中で、これからその都度御紹介していくことにしたい。今日は、その第一回として、「胡蝶の舞」を題材にした品物である。
(胡蝶の舞 金地引箔袋帯・山口伊太郎 紫紘 1975年頃 韮崎市 S様所有)
「胡蝶」は源氏物語54帖の中の、第24帖にあたる。壮大なこの物語は、内容によって、区分けされるような構成となっている。胡蝶は、「玉鬘(たまかづら)十帖」の中の三つ目の帖である。玉鬘というのは、光源氏の愛人・夕顔の娘のことで、彼女を中心として描きながら、物語が進行している。第22帖の玉鬘から31帖の真木柱までが、玉鬘十帖にあたる。
夕顔は、「頭中将(とうのちゅうじょう)」と呼ばれていた人物の妻である。この頭中将というのは、官職名であるが、物語の中でこの人物は名前ではなく、官職名で登場している。彼は、源氏の正妻・葵の上の兄であり、光源氏とは義兄弟になる。夕顔は、素性を明かさぬまま光源氏との逢瀬を続けるが、急死する。残された娘・玉鬘は夕顔の死後、紆余曲折の末、源氏の養女として引き取られる。
源氏物語というのは、相互の縁戚関係や繋がりを覚えるだけでも大変で、光源氏はその間をぬうように、縦横無尽に恋愛関係を作っている。平安のプレーボーイの所業は、止まるところを知らない。自分の継母・藤壷と恋に落ちて子を産ませたり、正妻だった葵の上の死後、藤壷の面影を強く残す姪・紫の上を後妻に迎えたり、その上引き取った養女・玉鬘にも手を出しかけている。無茶苦茶・ドロドロの関係には、呆れるばかりだ。
源氏の女性遍歴を書いていると、いつまでも終わらないので、胡蝶の段に話を戻そう。
「胡蝶」の段のあらすじは、源氏が春・3月に催した船楽の模様を描くところから始まっている。船楽というのは、寝殿の前の池に高瀬船を浮かべ、その上で雅楽を演奏したり、童に舞を舞わせたりする「宴」のこと。
この童による舞が、「胡蝶の舞」と呼ばれる舞楽である。これは、蝶をモチーフとし、平安時代初期の歌人、中古三十六歌仙の一人でもある藤原忠房(ふじはらのただふさ)が作曲、宇多天皇の第八皇子・敦実(あつざね)親王により振り付けされたもの。基本的には、四人の少年による舞だったようだが、神社などでは巫女や少女が舞うこともあった。
今日御紹介する帯は、胡蝶の舞を舞う童達の衣装を、図案として使ったものである。
胡蝶の舞を舞う童の衣装。
春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童八人、容貌などことに整へさせたまひて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の花瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。 (胡蝶・第四段 「中宮、春の季の御読経主催す」 より)
この段に、童が付けている「胡蝶」の衣装の記載があるので、大約してみよう。
春の上(紫の上のこと)の志として、仏前に花が供えられた。特に器量が良い美しい子を八人選び、その子達には、それぞれ蝶と鳥をかたどった衣装を身につけてさせた。そして、鳥の衣装を着た子には、銀の花瓶に桜をさしたものを、蝶の衣装を着た子には、金の花瓶に山吹をさしたものを持たせた。桜も山吹も、見事な房ぶりで、世にまたとないような麗しい花を揃えられていた。
上の記述にある、「蝶の装束」というのが、胡蝶の舞に使われるものと同じと考えられ、この時には、舞を舞うのではなく、仏花の供え役として童が着飾っている。
「蝶」をイメージして付けられた羽。衣装の翼は、皮、あるいは和紙に胡粉を引き、紅や緑青で彩色されている。翼は背だけでなく、胸にも付けられる。帯で表現されている羽は、十本に区分され、橙・紫・緑・青の四つの色が配されている。手に持っているのは、源氏物語の記述通り「山吹」の花。
宝冠を付け、髪には山吹の花を差し込んでいる。髪や顔の表情が、精緻な織りで表現されている。色を変え陰影を付けたり、一本一本の髪のほつれまで、流れるように細かく織り込まれている。伊太郎氏の源氏物語錦織絵巻でも、この帯と同様に織り込まれた「髪」を見ることが出来る。こういう織表現は、紫紘の帯でしか見られないものだ。
顔と髪を拡大してみた。織りとは思えないほどの細かさと、配色の妙がある。
袴と袍(ほう)と呼ばれる衣装の織り表現。袴は茄子紺色に木瓜(もっこ)模様が織り出され、袍には梅鉢と唐草が入っている。袍は朝廷へ出仕する時に着用されるものだが、画像で判るようにお尻の方へ、長く垂れ下がっている衣服である。
衣装の模様一つ一つを変えて、細やかに織り出す。一体どれくらいの時間をかけて、これだけのものを織り出しているのだろうか。考えただけでも、気が遠くなりそうだ。
桜と楓で表現されている「前」の部分。胡蝶の舞は、「お太鼓」で表現されているが、前は、桜と楓の春秋模様である。実は、この模様にも意味がある。
源氏が居を構えていたところは、六条院と言う場所だが、ここには広大な敷地があり、四つの町で構成されるほどの大邸宅であった。源氏の後妻となった「紫の上」は、春をこよなく愛していたため、彼女の居所は「春の町」と呼ばれていた。一方、「秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)」という人物も、六条院の中に住まいがあり、その名前でわかるように、「秋」を好んでいた。そして彼女の居所は、「秋の町」と呼ばれていた。
この秋好中宮という女性は、源氏が若い頃恋愛関係にあった「六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)」の娘である。六条御息所というのは、源氏の父・桐壺の弟(前坊と呼ばれ、皇太子の地位にあった)の妻を指す。
源氏は、自分の叔父の妻、血は繋がっていないが叔母とも「いい仲」になっていたのだ。この叔父と叔母の間に生まれたのが、秋好中宮であり、源氏とは従兄弟ということになる。
桐壺の弟・前坊は早く亡くなったため、六条御息所は娘の秋好中宮を伴い、天皇の居所の内裏から、六条院へ移り住んだ。もうだれかれ構わず手を付けたい源氏は、六条御息所が亡くなった後、美しく成長した秋好中宮にも興味深々であり、彼女へも近付いていた。
ある時、源氏が秋好に「春と秋、どちらが好きか」と聞いたところ、秋好は、「母、六条御息所が亡くなった季節である秋が良い」と答える。これを機に、源氏は秋好のために「秋の風物」を配した場所を六条院の中に用意する。ここが「秋の町」となる。
春を好む源氏の妻・紫の上と、秋を好む秋好中宮は、事あるごとに春と秋どちらが趣があるか、というような競い合いをしていた。この帯に付けられている春秋模様は、この二人の風流な季節合戦を表現しているものなのだ。
紫の上・桜と秋好中宮・楓の競演。模様を拡大するとよくわかるが、桜・楓の一枚一枚の模様に、それぞれの工夫が見える。特に楓の紅葉したさまなどは、配色を変えながら見事に表現されている。
色を挿すのではなく、織りでここまで写実的に描けるというのは、織糸の色や質を自在に変えているからだ。伊太郎氏は、様々な塗料や色を使った箔を開発し、それを多様に組み合わせて織り込んでいる。これにより、微妙な色や濃淡が表現出来る。また、糸質を撚糸と平糸で使い分けることにより、立体的で奥深い模様が織り出される。
どのような質の糸を使い、それにどのような細工を施せば、自分の描く模様を織り出すための「理想的な糸」になるか。この創意工夫を終生続けた。この帯の精緻な模様の裏には、それを生み出すための、血の滲むような試行錯誤が繰り返されている。
最後にもう一度、帯の全体像をご覧頂こう。
源氏物語の「若紫」をシンボルとする紫紘。若紫の段は、紫の上の幼少時代のお話である。紫の上が見た「胡蝶」の姿は、山口伊太郎氏でなければ表現できなかっただろう。
一昨日、年始の挨拶を兼ねて、紫紘の東京店へ行ってきました。丁度、伊太郎氏の孫である、野中淳史くんが居て、この「胡蝶の舞」の帯の話になりました。
昨年の秋、京都の本社で、偶然この帯の「見本裂」が見つかったとのこと。紫紘のface bookにも掲載されているようなので、興味のある方は、ぜひそちらもご覧下さい。
胡蝶の舞は、現在製作されていないため、品物を見ることができるのは「里帰り」してきたモノに限定されます。野中くんに、いま製作するとすれば、どのくらいの値段になるのか、と聞いたところ、「う~ん」と笑って確固たる返事をしてくれませんでした。それでも、「この帯をもう一度織ってくれないか」という引き合いがあるそうです。
伊太郎翁の意志を繋ぐためにも、ぜひお孫さんの手で、もう一度織って欲しい品物です。ただ、バイク呉服屋にはとても買えそうもありませんが。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。