一番大きい風呂敷の巾は、どのくらいなのかご存知だろうか。もともと風呂敷の巾は、反物の巾や長さを基準として作られている。今でこそ反物の巾は少し広くなったが、基本となる巾は9寸(34cm)である。
この縦横9寸(反物を無駄なく使うために、正方形ではなく微妙に長さが違う・34cm×37cm)の風呂敷を、一巾(ひとはば)と呼び、大きさの基準となっている。最大の大きさは、六巾。一巾の六倍なので、5尺4寸・204cm×207cmとなり、縦横が2m以上もある、かなり大きいもの。
このような大風呂敷は、寝具を始めとして、家財道具の一切合財を詰め込んで運ぶためのものだった。引越しの時や、地震や火災などで緊急にモノを運ぶ時、さらに借金取りから夜逃げする際にも使われたと思われる。風呂敷は手に持って運ぶだけではなく、背負い込むことも出来るので、昔の大きい荷運びには、大変重宝なものであった。
けれども、「大風呂敷を広げる」という諺になると、かなり意味合いが違ってくる。これは、実現出来そうもない計画を、大言壮語することの喩えである。戦前、台湾や満州などの植民地経営に腕をふるい、関東大震災に見舞われた東京の復興計画を立てた後藤新平は、大風呂敷を広げる政治家の代表格だった。
帝都復興院の総裁として、焼け野原となった首都を新たな都市として再生させるために、後藤は実現不可能と思える計画を作る。当時の国家予算にあたる13億円を使い、私有地を買い上げて区画整理を行い、環状道路や幹線道路を大胆に整備して、欧州にも負けない近代的な街に作りあげると、ぶち上げたのだ。
もちろん予算的にも、そのまま後藤の思い通りに事が進むはずはなく、かなり計画は縮小・変更された。広げた大風呂敷は小さくなってしまったが、現在でも、この時の計画に基づいて作られた幹線道路が幾つも残っているところなどに、この時の後藤の先見性の一端を、伺い知ることが出来る。
さて、現在でも後藤新平に負けないほど、いやそれ以上に「大風呂敷を広げる」政治家が存在する。安部首相である。先頃、アベノミクス・第二ステージの指針として発表された「新三本の矢」。中身を知れば知るほど、その大風呂敷ぶりがわかる。
GDP600兆円・出生率1.8・介護離職ゼロ。強い経済・子育て支援・社会保障という三本の矢に込められた、それぞれの目標値である。三本ともかなりの大風呂敷だが、その中でも出生率1.8というのは、誰がどう考えても無理であろう。
この目標設定は、50年後に国家として人口1億人を維持することを考え、弾き出された数字である。これを実現するための政策に、子育ての経済的な負担や幼児教育の無償化などを挙げているが、こんなものは、目に見えて問題となっているところだけに手を付けるもので、いわば靴の上から足を掻くようなものだ。出生率の低下は、日本社会の構造的な変化に大きく影響され、結婚に対する考え方や、個人それぞれの働き方、さらに取り巻く環境などに、もっと重大な問題がある。
出生率が上がらない大きな理由は、非婚化や晩婚化、そして夫婦共働きの増加によるもの。共働きしないと思うような生活が出来ない。もちろん子どもを産み育てることも難しい。となれば、働く女性への援助や、夫が子育てに協力出来るような環境整備が必要なのに、ほとんど何も出来ていない。
厚生労働省が出している厚生労働白書や、内閣府の男女共同参画白書を見ると、1980(昭和55)年には、夫が単独で働いている家庭は1114万世帯、共稼ぎが614万世帯。それが昨年には、単独が720万、共稼ぎが1077万と完全に逆転している。そしてこれ以外に、共稼ぎでも、夫婦共に短時間労働者という世帯が99万世帯もある。出生率を見ると、1980年が1.75で昨年が1.42。
人口を維持するために必要な出生率を、人口置換水準というが、日本が同じ水準で人口を維持するためには、2.08人が必要になる。この数字は、1973(昭和48)年にまで遡らなければ、出て来ない。
こう考えると、出生率が減少を辿る分水嶺は、1980年前後だったと推測できる。それは、夫単独労働から共稼ぎ増加に転じ始める頃と重なり、同時に女子の大学進学率の増加や、89年の男女雇用機会均等法の成立などにも、関わりがあると思われる。
日常生活の中からキモノが消えたのは、おそらく昭和50年前後。核家族化が進んで、おばあちゃんのいる家が少なくなり、パート勤めをする妻が増え、さらには「家事手伝い」として家に残る娘が激減していった時代。つまりは、家から女性が消えたことで、普段着としてのキモノも姿を消したのである。
いつにも増して長々と前置きを書いてしまったが、今日のコーディネートは、三世代同居の家が多く、専業主婦家庭が当たり前で、出生率などほとんど問題にもなっていなかった、昭和40年代にタイムスリップしてみよう。その当時、家の普段着として使われていたキモノ姿を再現してみたい。
(雪輪文様・小紋 玩具文様・紬半巾帯 菊扇文様 絞り絵羽織)
日常着として家で着るとなれば、簡単で楽なもの。炊事、洗濯、掃除などの家事仕事をこなすのに、動きやすい上に、汚れが気にならないものがよい。
当時普段着として、もっとも使われたものがウールだった。ウールは、裏地を付けず単衣で仕立てるので、着ていても楽であり、汚れたらクリーニング店などで丸洗いしてもらえば良いので、手入れも簡単だった。その上、価格も絹モノに比べれば、安価。昭和50年頃だと、おそらく5,6千円だったように思う。
そして、羽織を使うことで、温度調節をする。寒くなれば羽織ればよく、暑い時は脱ぐ。この時代、今と違って部屋全体を簡単に暖めるような空調が整っている家はほとんどなく、コタツやストーブなどに頼っていた。さらに、部屋の密閉性が保たれず、外気が簡単に入り込む。寒くなれば、羽織は必需品であった。
簡単に着る、という意味で使われたのが半巾帯。結ぶ手間が少なく、帯〆・帯揚げなどの小物も使う必要がない。羽織を着てしまえば、後の帯姿は見えないので、これで十分なのだ。
(駱駝色 雪輪文様小紋・千切屋治兵衛 芥子色 玩具模様紬半巾帯・西陣芳彩織)
冬の暖かさを出すために、茶系のキモノと半巾帯を使ってみた。キモノ地色は柔らかい駱駝色、いわゆるキャメル色を少しくすませたような色合い。大小の雪輪を散りばめた模様は、肩の張らない普段使いの小紋らしい。雪輪そのものが、白抜きと茶の輪郭の二種類だけという単純さも生きている。
半巾帯も、紬素材のもので優しい芥子色。色紙の中に、兎や紙風船、招き猫、ぽっくりなど玩具的な模様を使い、遊びのある模様。お正月に使っても良い。
この絵羽織は、先頃ブログの中で御紹介した品物。求められたお客様の仕立をする前に、使わせて頂いた。おとなしい配色の菊扇小紋なので、フワッとした印象の羽織になり、いろんなキモノの地色と組み合わせても、邪魔にならない。このように、後姿では背中がすっぽり隠れて、帯は見えなくなる。
前の合わせで、キモノとのコントラストを見る。少し飛び柄っぽい雪輪のキモノに対して、羽織は総模様。羽織紐は、少し濃い雪輪の柿茶色のものを考えたい。
全体像は、こんな感じになる。当時の羽織丈は2尺~2尺1寸程度と短いものだったが、こうして合わせてみると、長丈よりもむしろ短丈の方が格好良い気がするが、如何だろうか。
キモノも帯も羽織も、肩の凝らない、いかにも普段着らしいもの。家にいる女性達は、家事の時には羽織を脱いで割烹着を使い、近所の買い物へは羽織姿のまま出掛けていた。当時は、スーパーなどがあまりなく、買い物カゴを下げて、肉屋、魚屋、八百屋と一軒ずつ回っていた。夕餉の支度に歩くキモノ姿こそが、昭和の日常風景のひとコマであろう。
(泥染・地空き大島紬 サンタクロース模様・紬半巾帯 市松唐花模様・絞り絵羽織)
今度は、紬を使った合わせを考えてみよう。羽織は、やはり先頃紹介させて頂いたものを使ってみた。紬などの織物類は、ウールとともに日常着として定着していた。毎日使うために、かなり汚れたり裏地が傷んだりするが、洗い張りをしながら、長く大切に使い続けていた。
紬は、長く使うことにより生地が柔らかくなり、着やすくなる。着始めた時よりも、二回、三回と洗張りを繰り返すうちに、実に着心地の良いものとなる。もちろん、洗張りそのもので生地を痛めるようなことはなく、強いものである。
昭和の時代には、自分でキモノを解き、洗張りをして、自分で仕立てをやり直すようなおばあちゃん達が沢山いた。当時、洗張りに使う「張り板」を置いてある家も、珍しくはなかった。キモノばかりか、裏地も丁寧に洗い、裾の切れた八掛けなどは、上下をひっくり返して(天地にすると言うが)付け直されていた。キモノというものが、毎日手を通すものだからこそ、大事にしたいと意識されていた時代であった。
(泥染 角に縞・地空き大島紬 柳色 サンタクロース模様紬半巾帯・西陣芳彩織)
無地場の多いモダンな大島紬を、クリスマス模様の帯で合わせて、今風の街着のようにしてみた。この大島のように、絣が飛び模様になっているものを、「地空き」と呼ぶが、泥染めの深い黒地が目立つので、どちらかと言えば明るい帯を合わせたい。
昭和の時代には、サンタクロース模様の帯など織られていなかっただろうが、今、街着として楽しむ分には、どんな模様でも構わない。最初の帯がお正月なら、こちらは年末最大のイベント・クリスマス。どちらにも旬がある。
羽織は、大胆な市松模様の唐花。地色の暗い大島が、いっぺんに明るくなるようだ。キモノがモダンな幾何学図案だけに、羽織も個性的な模様の方が、合わせやすい。絞りの粒が、全体の雰囲気を和らげているようだ。
こんなカジュアル着でも、半巾帯を変えるだけで、かなり印象が違ってくる。
ごくオーソドックスな、白地の献上縞の博多半巾帯の合わせ。かなり大人っぽくなったと同時に、より日常着らしくなったような気がするが。
半巾帯と羽織は、日常着として欠かすことの出来ないものであった。キモノも含めて、この組み合わせを自在に変えることにより、普段のおしゃれを楽しんでいた。母や祖母が使っていた羽織や半巾帯が、まだ箪笥に残っているという方もおられるだろう。ぜひ、もう一度見直して活用して欲しい。
思えば、オイルショックがあった1973(昭和48)年が、一つの節目だったように思われます。高度経済成長が終わったことで、社会の様々な形が変わらざるを得なかったのではないでしょうか。
家族の形、女性の生き方などは、それまでとらわれていた戦前の家父長制や、男子の優位性が薄れ、より平等で、個人の考えが尊重されるようになりました。とは言え、当時から40年以上過ぎた今も、女性の立場が完全に社会から理解されたとは言えません。
出生率が改善するか否かは、日本の社会全体が、「子どもを育てやすい環境」に成り得るかどうか、でありましょう。しかし、欧州や北欧のように、子どもの教育や医療を完全に無償化したり、満足出来る子育て給付金を支給出来るような財源が、この国に残ってはいません。それどころか、国の借金は1000兆を越え、そのツケはこの先の時代を生きる子どもたちに回されようとしています。
国の経済が成長することで、社会の好循環が生まれるというのは、高度経済成長時代の幻想に過ぎないでしょう。成長しなくても、心豊かに暮らせる国にするという、未来への処方箋を描ける方は、どこかにいないものですかね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。