「京友禅と加賀友禅の違いはどこにありますか」。ブログ読者の方から、よく頂く素朴な質問である。
ある程度、キモノに通じている方ならば、それぞれの友禅技法や特徴を見分け、産地を判別することはある程度可能であろう。特に、京・江戸友禅と加賀友禅の違いは、判りやすい。
しかし、キモノに馴染みのない方にしてみれば、どこをどのようにみれば良いのか、まったくわからないかも知れない。これは無理なからぬことだ。その上、インクジェット加工のモノが巷に溢れている。プリントモノとそうでないモノの判別さえも、普通の方には難しいことであろう。
友禅とは、模様を染め出す一つの技法である。インクジェットは、あくまで友禅染を模したように作られたプリントモノであり、この手の品物は、あくまで友禅風の印刷コピー品。もちろん、産地による特徴も何も、ある訳がない。今や、沢山の「キモノ印刷」が国内外で行われており、市場を席巻している。
インクジェットは論外だが、型友禅はあっても、手描き友禅の数は少なく、限られたところでしか扱いがない。つまりは一般の方には、ホンモノに触れる機会そのものが、失われている。これでは、産地別の品物の特徴を理解することは、難しい。
そこで、今日から数回に分けて、友禅の三大産地である、京都・加賀・江戸の品物をご覧に入れながら、技法や色挿し、さらには図案などの特徴を探っていくことにしよう。今日はまず、友禅というものがどのように作られているものなのか、その過程をお話にして、各々の友禅の比較は次回からとしたい。
左から、江戸友禅・加賀友禅・京友禅。いずれも黒留袖。
「京友禅と加賀友禅の違いはどこか」、という質問は、消費者からの素朴な疑問だと最初に書いたが、実は我々にとっても、かなり厄介な問題がある。
基本的な技法の違い、例えば加賀は繍や箔は用いないで染のみ、そして品物には作家と呼ばれる作り手が存在すること。京都や江戸友禅は、工程ごとに職人が居て、分業により、一枚のキモノを仕上げる。さらに、品物に描かれる模様は、京都は図案的だが、加賀は写実(絵画)的。このあたりが京友禅と加賀友禅の基本的な大きな違いである。
しかしながら、この二つを融合させたような品物の存在がある。例えば、無形文化財保持者の羽田登喜男の作品のようなものは、どちらとも付かない。
羽田登喜男という作家の出発点は、加賀友禅である。金沢で加賀の作家として地歩を固めた上で、京都で京友禅の技術を学び、二つの友禅を融合させて、独自の作風を築いた。上の画像は、以前このブログの中で御紹介した訪問着であるが、氏の得意とする鴛鴦をモチーフにしている。
この図案は写実的であり、加賀的である。もちろん下絵から色挿しまで一人でこなしているが、模様の中には、振り金砂子のような京友禅の技法が取り入れられている。京友禅では、この仕事は別の職人によってほどこされるものだが、京友禅の技術を身につけた羽田は、自らが加工してしまう。つまり、分業としての京友禅の仕事を、単独でしてしまっているということだ。
このような品物は、加賀友禅とも京友禅とも言い難い気がする。羽田氏の工房は、京都にあるので、生産地から区分けすれば、「京友禅」ということになるのであろうが、京友禅の基本とされる、「分業」からは離れている。
このような「仕訳の難しい」作家は羽田氏ばかりではない。やはり人間国宝に指定されていた京都在住の作家・上野為二の作品は、繍や箔の加工はなく、染のみである。また、描かれる模様は茶屋辻や御所解、さらに季節の草花など伝統的な模様や写実性のある意匠がほとんどである。つまり、作品そのものの技法や模様は「加賀的」ということになる。そのため彼の作品は、「京加賀友禅」(加賀友禅に似せて、京都で作られる型友禅とは別モノ)と位置づけられることもある。
また、加賀友禅の中でも、模様が絵画的でなく、デザイン性に富んだ図案を用いる作家もいる。二塚長生(ふたつかおさお)は、加賀友禅作家として木村雨山に続く二人目の人間国宝認定者だが、この方の作品は、風や波をダイナミックに切り取って図案として表現しているものが多い。絵画的と呼ばれる加賀の伝統とは、また違う視点で、描くテーマが見つけられている。
このように、二つの友禅を融合したもの、さらには、加賀的な京友禅や、京的な加賀友禅というものも見受けられる。この辺りが、我々が双方の友禅を隅分けることが難しいとする点なのである。
さて、難解な両友禅の区分は置いておいて、一般の方にもわかりやすい友禅の違いという基本に戻って、これから製作方法の話に入ることにしよう。
(糸目・京友禅)
糸目とは、模様の輪郭にそって引かれる白い線のこと。上の品物の中に見えている、篭目模様や菱模様の輪郭「白いスジ」が糸目である。京友禅らしく、輪郭にも箔や繍が施されているのがわかる。
友禅製作の基本は、京・加賀・江戸といずれもほとんど変わることはなく、同じだ。
どの友禅も、模様が決まると、まず白生地の上に下絵を描く。この時使われるのが、青花と呼ばれる露草の汁。その後、下絵の線に忠実に、糊を置く。ここでは、円錐形の筒を用いる。これは、ケーキ製作の時に使う、生クリームを入れたチューブ状のものをかなり小さくしたものを、想像して頂きたい。
筒の中に入れる糊には、糯米や塩、水など天然素材を調合して作る「糯米糊」と、化学剤を使った「ゴム糊」がある。筒の先端には、先金(さきがね)と呼ばれる糊の抽出口が取り付けられるが、この口先はものすごく細い。糯米糊を使って引いた筋は「糊糸目」、ゴム糊の方は「ゴム糸目」とよばれ、区分されている。
模様の輪郭には、太い線も細い線もある。葉の葉脈や蔓状の枝、花の蘂、さらには波頭や家の柱など、限りなく細く精密に付けなければならない時などは、糊の押し出し方一つで、模様の出来不出来が決まってしまう。また、使う糊(糯米かゴムか)によっても、糸目の出来に変化がある。引く筋(糸目)がどのようなものか見切って、糊を使い分けるというのも、職人の技量が試されること。
(加賀友禅の糸目)
加賀友禅は、ご存知のように絵画的な模様のものが多く、その雰囲気は優しく柔らかい。そのためには、糸目の引き方にも工夫が必要になる。柔らかい印象を出すには、柔らかな線=糸目を引くことが大切になる。それは、全て糊置きの出来如何に大きく関わってくる。
最初の京友禅の糸目と、加賀友禅の糸目に違いがあるのがわかると思う。図案が違うので、当然筋の細やかさが異なるが、糸目そのものの表情の違いというものも、十分に感じられると思う。誤解をされてはいけないので、お断りしておくが、京友禅より加賀友禅の方が、糸目が細やかということではない。京友禅の中にも、加賀以上に繊細に糸目を表現している品物は沢山ある。あくまで、今日取り上げた二つの品物の間だけでの違いである。
このように、模様の輪郭を表現する糸目というものは、友禅の製作過程において、かなりの重要な比重を占めている。そしてその優劣は、表現する人の技量如何で、変わっていく。もちろん手間ということを考えても、大変な労力を要する。
手描き友禅には、この人の手による糸目の工程を欠かせない。というより核心といった方が正しいだろう。筋を引くという、一見単純な作業に思われるかも知れないが、仕上がった時の品物の表情を左右する。
この工程を人の手ではなく、型紙を使うものがある。これが「型友禅」である。これは、同じ模様(色違いも出来る)のものを、何枚か作る時に使われるものだが、人の手による糸目なのか、型なのか見分けるのは、かなり難しい。なぜならば、型そのものも人が作るものだからである。型は使っていても、色挿しは手でされているので、一般の人には型か手描きかの区別は付き難い。ただ、加賀友禅では、上坂幸江さんなど一部の作家を除いては、加賀染振興会に登録されている落款で、判別することが可能になっている。
(江戸友禅の糸目)
糸目は、模様の輪郭だけではなく、模様そのものを表現することも多い。上の江戸友禅の品物では、川の流れが糸目だけで表されている。一本一本の糸目にはそれぞれ表情があり、一枚のキモノの中で、それぞれの模様がどのような役割を果たしているか、というところまで考えが及ばなければ、ふさわしい糸目にはならない。絶対に、人の手でしか出来ない仕事である。
糸目引きが終わると、地入れという作業に移る。これは、染料を定着させて滲みを防ぐために、豆汁(ごじる・大豆をすり潰した汁)を生地全体に刷毛で引く。そして、生地は伸子(しんし)でピンと張られて、模様の色挿しに入る。
色挿し後は、色が入った模様の部分に糊が置かれ(伏せ糊という)、そこに染料が浸み込まないようにしておいて、地色染めをする。さらに、高温で蒸されて、色を定着させ、その後水洗いして糊を落とす。京友禅や江戸友禅の場合には、さらに箔や繍があしらわれることになる。
どんな友禅でも、見る人はまず、模様や挿し色に目が引きつけられると思う。しかし、図案や彩色をより優れたものにするためには、糸目をどれだけ芸術的に引くことが出来たか、ということに深く関わる。
今日の稿では、友禅の製作過程について話を進めてきたが、大部分が「糸目」のことになってしまった。これは、それだけ大切な作業であり、ぜひ皆様にも知って頂きたかった。さりげない白い筋がどのように付けられているのか、品物を見る際には、ぜひ注目して頂きたい。
次回は、産地の異なる三枚の友禅・黒留袖を個別に御紹介しながら、その違いを見て頂くことにする。
目立たない仕事にこそ、品物の根幹があるというのは、どんなモノ作りの過程でも同じではないでしょうか。今日お話した「糸目糊置き」などは、まさにその典型です。
昨今、問題になっている建造物の杭などは、まさに人が見えないところだから手が抜かれたのでしょう。表から見える美しさの裏には、見えない部分の努力があるからこそ、でなければなりません。「張子の虎」は、いつかは剥がれてしまいます。
我々も、「お客様に怖れを持つ」ということを常に心の隅に置いて、仕事に臨みたいと思います。呉服というものが、判り難い品物だけに、なおさらですね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。