家内に頼まれた仕立て直しのキモノが、何ヶ月も放置されている。また、今年の正月に末娘が着た振袖も、まだ汚れを確認していない。
日常の仕事に追われていると、身内のことなど全く忘れてしまい、手も付けられない。それこそ、「紺屋の白袴」を地で行くことになる。「医者の不養生」や「灯台下暗し」なども、ほぼ同じような意味で使われる。多忙で、自分のことにまで手が回らない例えである。
「紺屋の白袴」は、客から依頼された生地を染めることに夢中になるあまり、自分の袴は白いままという訳だが、紺屋のように、染料を扱う者が、白い袴やキモノを身につけて仕事をすることは常識的には考えられない。あくまで、成語として判りやすく例えているだけだ。
紺屋にまつわる言葉としてもう一つ、「紺屋の明後日(あさって)」というものがある。これは、約束あるいは日限が当てにならないという意味だ。
紺屋の仕事というのは、天候や染料の状態に左右される。客から色を指定され、仕事に取りかかっても、思うように注文された色が発色出来ないことがしばしばあった。これは植物染料を使って染色する場合には、どうしても避けられない。
例えば藍の場合には、紺屋は藍を発酵させた原料・「すくも」に水や石灰、酒などを加え、一定の温度に保ちながら染料を作る。これを「藍建て(あいだて)」と言うが、藍はアルカリに溶けるので、甕の中をアルカリ化する作業が必要になる。藍が建った甕に糸や生地を浸し、それを空気中にさらせば、最初は緑色となり、繰り返すと次第に青に変わる。
染料は生き物であり、染屋の意図する色を出すことは、時間的な制約があると難しい。おそらく、客が染物の仕上がりを催促した際、紺屋が「明後日には出来る」と答えたのであろう。「明日」ではなく、「明後日」と答えたのが、何とも微妙で、その頃には何とかなると当てを付けたに違いない。しかし、生き物である染料は、明後日になっても、思うような色にならず、品物を染め上げることが出来ない。
だから、「紺屋の明後日」は、当てにはならないという意味になったのである。これは「紺屋の白袴」とは違い、本来の紺屋の姿を、よく表現されているものと言えよう。
今回御紹介する昭和の加賀友禅は、江戸・文政年間から続く金沢の紺屋に生まれ、のちに加賀の代表的な作家の一人となった寺西一紘(てらにしいっこう)氏の作品。
(唐子模様 色留袖・寺西一紘 1985年 韮崎市 S様所有)
寺西一紘(てらにしいっこう)氏は、1940(昭和15)年、金沢市の生まれ。生家は、先に述べたように、江戸・文政年間から続く紺屋である。
元は武家であった寺西家が紺屋に転じるのは、1818(文政元)年。9代目当主の、寺西新八篤成が、加賀・前田家の御用紺屋となり、仕事を請け負い始めた。その後、紺屋三郎右衛門(新八篤成から数えて3代目)の時代になると、藩より苗字帯刀(みょうじたいとう)を許されるような、前田家公認の紺屋として、発展していった。すでに、この時代には手描き友禅の仕事が始められており、現在でも当時の模様が「図案帳」の中に残されている。
明治期になると、染職人や図案を創案する模様師などを多く抱え、さらに盛業となる。この頃、屋号を「紺三」とし、仕事を受け継ぐ当主は、代々「紺屋三郎右衛門」を名乗ていた。寺西氏の父である、6代目・紺屋三郎右衛門は、戦前に京都の染場や東京の伊勢丹・図案部などで友禅の修行をし、後に人間国宝となる木村雨山には、数多くの仕事を依頼していた。
このように寺西家の系譜を見てくると、この作家が、加賀友禅の伝統を、自分の家から受け継いだ方ということがわかる。これは、他の多くの作家とは違い、生まれた時から友禅師になることを、義務付けられていたということになろうか。
家業を継ぐといっても、商いではなく技術そのものを継承するということ、これは、かなり難しいし、覚悟が必要だ。江戸の時代より、脈々と続いてきた「紺三」の暖簾に相応しい仕事を身に付けなくてはならない。
さて、寺西一紘はどのようにして、家業の道へ入ったのか。経歴を見ると、金沢大学の付属中・高から、横浜市立大学へ進学している。学歴を問わない友禅職人の世界では、珍しい大学出であり、「インテリ」である。そして卒業後には、会社勤めをしている。入社したのは「大日精化」という、顔料やインキなどを製造する「染料メーカー」。
普通の職人ならば、色に関することなどは親方から学ぶ。だが彼は、それをサラリーマンとして勤めた会社で研究しつつ、学んでいたのである。これは、かなり異色の経歴である。そして、32歳の時に紺三を継ぎ、三年後には加賀友禅の作家となっている。1975(昭和49)年のことである。
今日の品は、1985(昭和60)年頃に、当店が扱ったものなので、寺西一紘氏が40歳半ばに描いた作品ということになる。現在75歳になる氏が、加賀の作家として十年ほど過ぎた頃、いわば若き日の品物と言えよう。
地色は薄い鼠色・シルバーグレー。色留袖としてはめずらしい「唐子(からこ)」文様。唐子というその名の通り、唐・すなわち中国の子ども(童子)を描いた模様。
唐子文様の歴史は古く、すでに天平期には日本に伝わっている。正倉院の御物の中に、唐子を描いた花氈がある。花氈(かせん)というものは、織物とは違い、羊の毛を液に付け、それを何層にも重ねて成型したフェルト状もの。
唐子は中国の童なので、髪の毛の左右を剃り落としたように描かれる。また、衣装も中国風になっていたのだが、江戸期以後は日本の童のように描かれることが多くなり、そのほとんどが、遊んでいる姿をモチーフとしている。
頭のてっぺんと左右が剃られた、特徴的な唐子の髪の毛。楽しそうな顔の表情を上手く描いている。
それぞれの童の衣装に、伝統模様が見える。上の唐子は上着が宝尽し文で、丁子や分銅の模様が見える。下は切金文。下の唐子は、亀甲と唐草。
唐子を描く加賀友禅の作家と言えば、やはり由水十久(ゆうすいとく)の名が挙がる。二年ほど前に、このブログの中で御紹介したことがあるので(2013.6.9 初代由水十九 黒留袖・三番叟の稿)、ぜひそちらもご覧頂きたい。下の画像は、初代・由水十久の描く唐子。
上前おくみ、身頃を中心に写した全体像。
模様全体から受ける印象は、大人しく控えめ。淡く、優しい挿し色は、いかにも加賀友禅らしい。小さな草花が咲き誇る庭で遊ぶ唐子の様子が、極めて上品に描かれている。色留袖は、回りを引き立たせるような雰囲気の模様が好まれることも多く、「さりげなく手を掛けた」この品物は、まさにそれに当たると言えよう。
寺西一紘の描く作品は、草花や鳥、茶屋辻文様などの古典模様であり、極めて絵画的なものばかりである。挿し色も、加賀五彩と呼ばれる、藍・臙脂(えんじ)・古代紫・黄土・草色を基調としたオーソドックスな色調。やはりその作風に、代々続く紺屋・友禅師に生まれた伝統の力が、そのまま息づいているように思える。
落款は「紘」。一紘(いっこう)の紘の字を当てたもの。氏の本名は「かつひろ」。
寺西一紘氏の工房は、武家屋敷に近い金沢市・長町にあり、「長町友禅館」として一般に一部が公開されている。この友禅館には、江戸の紺屋時代に使われた図案帳や、寺西氏が製作したキモノや暖簾・屏風などの加賀友禅作品が展示されていて、見学することが出来る。
また、加賀友禅の製作体験が出来るコーナーが併設されており、色挿しなどを試すことも出来る。さらに、キモノも貸し出されていて、金沢散策をキモノ姿で楽しんでもらおうとする計らいもなされている。
寺西氏は、加賀友禅の伝統を未来に繋げていくべく、現在もなお重鎮として活躍中である。
紺屋というのは、微妙な色合いを見極める力や、図案のセンスを必要とされた仕事だけに、そこから著名な芸術家を輩出することがありました。
寺西家が紺屋を始める300年ほど前の、安土桃山時代に活躍した絵師・長谷川等伯(はせがわとうはく)もその一人です。等伯は、下級武士の子でしたが、紺屋の長谷川家に養子に行ったことが契機となり、そこで仏画を学んだ後、30歳を過ぎてから京都へ出て行きます。
この頃は、狩野永徳を盟主とする狩野派全盛の時代。彼は、千利休に知己を得て、次第に狩野派の牙城を揺るがす存在になるのです。利休から依頼された大徳寺の山水図襖は、水墨障壁画と呼ばれ、墨だけで樹木が幽玄に表現されています。これは、利休のような茶人達から影響を受け、中国の南宋画を強く意識して描かれたものとされています。
このような水墨画とは対照的に、智積院楓図に代表されるような、豪華絢爛たる金障壁画も描いています。彼のこのような自在な芸術性の基礎は、まさに幼少時代より養父から学んだ、紺屋の仕事にあると言えましょう。
職人の家に受け継がれる技術からは、優れた芸術が生まれます。それは継ぐ者の資質と努力はもちろん必要ですが、やはり代々その家を支配している「空気」のようなものが、見えない力になっているような気がします。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。