バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

秋になっても使える木綿 片貝木綿と近江綿縮

2015.08 25

8月も20日を過ぎると、夏休みは駆け足で過ぎていく。自由研究や読書感想文など、休みの課題がまだまだ終わらないという子どもたちにとって、残り少ない8月の日が、カウントダウンのように感じられることだろう。休みの期間には地域性があり、冬の厳しい北国の学校では、もう新学期が始まっているところもある。

それにしても、ここ何年かは暑さがなかなか収束しない。9月になっても気温があまり変わらず、新学期が始まってからの子どもたちの学校生活にも、影響が出ている。国や自治体では、この対策としてクーラーを教室に設置する事業を数年前から進めている。

東京都の公立小・中学校ではすでに設置率は99.9%。ほぼ全ての教室にクーラーがあり、快適に授業が受けられる環境下にある。自治体の財政事情により、各県の設置率にバラツキがあるのは、ある程度やむを得ないだろう。ちなみに山梨県は38.9%の設置率なので、まだ三分の一ほどだ。

 

それにしても、教室にクーラーとは、とても考えられない。その昔、バイク呉服屋が通った高校では、「課外」と称して、夏休みに特別講座が設けられ授業が行われていた。この講義は、教室の他に、古い講堂でも行われていたのだが、その建物は戦前に建てられたものなので、ひどく老朽化していた。

もちろん、空調などある訳もなく、窓を開けても灼熱の暑さだった。そんな所での講義だから、よほど集中力と忍耐力のある者にしか、身に入らない。そのため、何とか暑さを凌ごうと、学校側がとった対策は、驚くべきものだった。

それは氷屋から、70cm四方・高さ1mくらいの氷柱を二本購入し、講義をする黒板の両側に立てたのだ。見た目だけでも、生徒に涼しくなってもらい、授業に集中させるとの意図だったのだろうが、どう考えても無理だった。氷柱を見ただけでは、誰一人心地良くなれるはずもなく、この試みは企画倒れに終わった。40年前の学校では、今では考えられないような「暑さ対策」がなされていたのである。

 

前置きが長くなってしまったが、いかに暑さが長く続いていたとしても、9月になってから浴衣を着るというのは、少し躊躇される。もちろん着ることはいけないということではないが、もう少し違う風合いで、街着になるような綿素材のキモノでも良い。そこで今日は、秋になっても使えそうな「木綿」の品物を御紹介してみたい。

 

(片貝木綿 濃藍地色・鰹縞と若草地色・格子  新潟小千谷・紺仁)

木綿といえども、最近はその希少性から手が出し難い価格のものも多い。出雲織や薩摩絣、さらには弓浜絣、広瀬絣などがそれである。以前は野良着として使われていたような久留米絣でさえ、絣の模様によれば10万円を越えるようなモノがある。

木綿という素材は、庶民の普段着として定着していたものだが、生産地ごとに特徴があり、地域の気候や習慣など、土地の風土に根ざしてモノ作りが続けられてきた。

今日御紹介する片貝木綿と近江綿縮は、実用的な綿織物という意識を今に受け継ぎ、気軽な価格で心地よく過ごすことの出来る品物である。

 

(鰹縞・片貝木綿  紺仁)

片貝木綿を織っているメーカーは、紺仁(こんじん)という機屋一軒だけ。創業は江戸中期の1751(宝暦元)年というから、250年以上続く老舗である。元々、紺仁は藍染の技術集団・紺屋だった。創業者・松井仁助の仁を社名にとり、紺仁としたところからもそれがわかる。

片貝は、小千谷市の中でも北に位置する地域で、昭和の末期までは、長岡に近い、信越線の来迎寺というところから分岐した、魚沼(うおぬま)線というローカル線が走っていて、その沿線にあった。言わずと知れた高級米・魚沼産コシヒカリの産地であり、周囲は田園が広がっている。

魚沼地方の織物と言えば、小千谷縮や本塩沢・塩沢紬に代表されるが、紺仁の創業も、この二つの織物が生み出される頃と、ほぼ時を同じくしている。この織屋では、江戸期には火消しが使う藍染袢纏を製作、その後は藍染された糸を使い、綿紬などを織っていた。小千谷や片貝は、江戸期には幕府の天領(直轄地)であったために、染職人や鍛冶職人など多くの職人が集まり、そのことが織物産地として発展した一因でもあった。

 

(若草色格子・片貝木綿  紺仁)

紺仁が片貝木綿を織り始めたきっかけは、染織家・柳悦孝(やなぎよしたか)氏の助言と指導があったからだ。この人物は、名前からも想像が付くように民藝運動の創始者で、「用の美」の提唱者・柳宗悦(やなぎむねよし)の甥に当たる。悦孝は、型絵染の第一人者で、民藝運動にも参画していた芹沢銈介の工房を訪問したことで、染織の道に進むことを決意した人物である。

戦後悦孝は、叔父である宗悦の「用の美」を意識した工芸品や民藝品を生み出すことに傾注した。彼が、木綿を扱っていた紺仁の持っている伝統的な技術に注目し、モノ作りへの提言を行ったからこそ、この安価で使い勝手の良い木綿が生まれたのだ。

 

木綿のキモノというと、絹と比較して少しゴワツクような肌触りが残る。それと同時に、裾さばきがスムーズに行かず、生地がまとわりつくように感じられることがある。

片貝木綿は、それを解消するために経糸と緯糸の太さを変えている。特に経糸は、太さの異なる三種類の糸が使われていて、そのことにより織り上がった生地の表面に凹凸が出来る。同じ糸の場合は、表面がフラットになるが、でこぼこさせることにより、肌への馴染みがまとわりつくような感じから、サラリとした着心地に変わるのだ。

また、経・緯ともに単糸で織られているために、使われていくうちに綿に柔軟さが出て来て、柔らかく着やすい品物に変化していく。まさに、普段使いのキモノとして、着る人の側に立って作られ、「用の美」が追求されたものと言えよう。

画像でもおわかりのように、ほとんどの片貝木綿は縞や格子模様である。中には、縞・格子と呼ぶよりも、ストライプ・チェックと呼びたくなるようなモダンで明るい色使いのものも多い。価格も1万円台で、それこそ柳宗悦が提唱した民藝品の条件の一つ、「廉価性」ということにも、十分に適う品物となっている。

 

(黒地に縞・近江綿縮  川口織物)

近江上布の産地として知られる、滋賀県湖東地方。愛知(えち)川流域に広がるこの平野は、古来麻栽培が盛んだった。それにより生まれたのが、近江上布であり、近江縮である。そして戦後には、その麻織物の絣技術・櫛押を取り入れた絹織物・秦荘紬が生産されるようになった。

近江縮には、麻だけのものと、綿との混紡になっているものがある。画像の品物は、綿50%・麻50%の混紡。木綿を使っているので、麻だけのものと比べて、吸湿・吸水力、さらに通気の面でも少し劣る。だから、盛夏ではなく、少し涼しくなる9月になってからの方が使いやすい。

近江綿縮の透け感。麻100%のもの、例えば小千谷縮などと比較すると、サラリとした着心地では劣るが、独特のゴワツキ感が少なく、綿のしなやかさと麻のシャリ感を兼ね備えた、優しく滑らかな肌触りになっている。

近江縮の糸は、一度撚りをかけた糸をさらに350回ほど撚りをかける。これを追い撚りと呼ぶのだが、より強い糸にするため、最初の撚りと同じ方向にさらに撚りをかけるのだ。

この撚り糸を緯糸に使うことで、シボが生まれる。最初に織り出される生地巾は1尺2寸(約45cm)だが、最終的な反巾は1尺ほど。およそ2寸(5~7cm)狭くなった部分が、生地上にシボとして立ち上がったところとなる。

絣の近江上布は生産数も少なく、希少で単価も高いが、混紡の綿縮ならば安価で手に入りやすい。上の画像の品も、2万円台である。着心地も混紡独特のものがあり、季節に応じた使い分けの出来る品物と言えよう。

御紹介したものは、すでに売れてしまったものだが、お求めになった方がこの品物に合わせて帯を選んでいる。どんな品物なのか、ご参考までにご覧頂こう。

(薄グレー地 雲取り文様・紗八寸帯  帯屋捨松)

「雲」を図案化した文様。雲を、思い切り遊び心のあるデザインしてしまったところが、いかにも捨松らしい。この近江綿縮は、黒地に縞という単純なものだけに、着姿は使う帯次第でどのようにも演出出来る。また、この品物が男性にも女性にも使える、いわば共用の品物であるのは言うまでもない。

 

今日は、秋になっても使える綿織物、それも廉価で楽しみやすいという観点から、二つの品物を見て来た。

柳宗悦の掲げた民藝品の条件。それは、普通の人が毎日の生活の中に溶け込んでいる品物であること。そしてその品は美術的な価値のあるものではなく、自然に美しいこと、これこそが民藝品の美と位置付けている。

この自然に表れている美しさは、作られた地域の生活感や、自然の営みの中からこそ、生まれてくるものと考えている。そして品物は、先人の智恵や技術を結集させて作られる、いわば伝統に裏打ちされたものでなければならない。

宗悦は、この他にも実用的であることや、数多く作られるもの、さらに無名な職人の手で作られることとか、価格が安いことなど、幾つもの「民藝品」としての条件を提起している。

「用の美」とは、日常の中で使われるモノの中に、自然の美を見出すこと。木綿のキモノは、それこそ庶民が毎日の暮らしの中で、あたり前に着倒していたものである。社会生活の変化により、使う人が減り、それとともに作り手も減る。そして、作られていても希少品となり、それにより庶民には手の届かないような価格になってしまう。これでは、宗悦の言うところの「民藝品」にはなり得ないのだ。

片貝木綿や近江綿縮は、今の厳しいモノ作りの環境下においても、用の美の意識に立ち、民藝品として現代の社会に息づいている数少ない織物と言えよう。

 

宗悦が提唱する民藝品の条件を、現代社会のモノ作りの中に当てはめることは、かなり難しいことと思えます。しかし私は、これを読むと、思わず衿を正さずにはおられません。

特別な作家が作ったものではなく、無名の人が作り、そして誰もが買い求められるような廉価であること。しかも数多く作られるものという条件まであります。もちろん、素材にこだわり、幾つもの技を結集して作り上げられる逸品も沢山ありますが、やはりキモノの基本は自然に自由に気軽に楽しめること。

キモノや帯を扱う者として、いつも心のどこかに「用の美」や「自然の美」ということを意識しておかなければ、本質を見失うような気がします。これは、自分がどのような品物を扱うべきか、というところにどうしても繋がってきますから。

 

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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