昭和の時代、地方の駅に降り立てば、必ずその土地の匂いがした。駅前に広がる町並みや行き交う人の言葉に、その町が持っている独特の空気のようなものを、感じることが出来た。
だが、新幹線網が日本中に張り巡らされた結果、駅や町そのものの整備が進み、ビル化した。そして、どこへ行っても同じような印象しか残らなくなってしまった。駅は、町の表玄関であり、美しく飾って旅行者を迎え入れるのは、理解出来るが、その分素朴な個性は消え失せてしまった。
それと同時に東京が近くなったこともあり、全国展開しているような飲食店や量販店が大挙して進出し、どこの町も同じような風景になっている。もちろん地元の人たちには、その店舗があることにより、都会と同じ品物やサービスを求めることが出来るため、歓迎すべきことなのであろう。
ヨーロッパなどでは、古い町並みをそのまま生かした街づくりが、あちこちに見られる。ゆうに100年は越えるような家や建物が、当たり前のように現在も使われて続けている。そのため、街そのものに風格があり、個性的だ。
日本のように、地域や街の個性を簡単に捨てはしない。その土地に根付いてきた文化や伝統を守りつつ、新しいものも取り入れる。そこには、経済効率だけを考えた日本の街づくりとは対照的で、根本的な考え方の違いというか、懐の深さを伺い知ることが出来る。
日本でも、遅ればせながらこれに気が付き、伝統的な町並みを残そうとする動きが出始めた。2004(平成16)年に制定された景観法である。これは、それまで一部の自治体が定めていた景観条例に、一定の拘束力を持たせるために作られたもの。
京都の町家を保護することも、この法令により大分変わった。京都市は、歴史と伝統に則った街づくりを推進するため、景観重要建造物と歴史的風致形成建造物を指定した。これは京都という町並みを守るためには、どうしても残さなければならないものを特定するということだ。
現在、景観的重要建造物が77件、歴史的風致形成建造物は65件が指定されているが、両方に重複して指定されているものが多い。帯屋捨松さんの建物もその中の一つである。指定理由は、西陣という町の景観形成に特に重要なものという位置付けである。
前置きが長くなったが、前回の続きで帯屋捨松さんのお話をする。今日は、店の中の様子や、実際にバイク呉服屋が品物を選んでいるところなどを、ご紹介していこう。
歴史を感じる戸棚や古民具の前に掛けられた、「流水に鴛鴦文様」のすくい八寸帯。衣桁そのものも相当古いもので、黒光りしている。
織屋の個性というのは、図案と配色に表れる。独創的なメーカーが製作した帯は、ひと目でそれとわかる。大胆さと繊細さ、古典とモダン、この両方を兼ね備えたモノ作りは難しい。捨松が作る数々の帯は、これに果敢に挑戦したものである。
我々小売の者も、捨松でなければ作ることの出来ないような、個性的な帯を求めたい。それは、自分の店のお客様にも、他にはない「捨松らしい色とデザイン」をご紹介したいという思いがあるからだ。
捨松では、重厚な袋帯も織っているが、やはりふんだんに遊び心が散りばめられたカジュアル帯に目が行く。だから、見せて頂く品物は、八寸、九寸の名古屋帯が中心だ。
映画のセットのような、重厚な客間にさりげなく帯が飾られる。画像からもその雰囲気が伝わるだろうか。太い箔が織り込まれた紫地色の大柄な唐草文様や、ワインカラー地色の葡萄文様の帯が並んでいる。
捨松の作る帯の個性は、何処から来るものだろうか。それは、モノ作りの一貫性にあるのだと思う。図案を描く、配色をする、織る、これを全て一人で出来ること。つまり、品物を構想するところから、最後に形になったところまで、把握できていることにあるのだ。
最初に図案を描く段階で、すでに色を想像しているはずである。使う人の年齢を想定している場合や、使う季節を限定している場合などは、なおのことだ。作り手の気持ちが、全ての仕事に反映されているからこそ、個性が生まれる。これが、大胆な配色や古典文様のアレンジに繋がっているのだ。
オリエント模様の手織り八寸帯を出して頂く。有難いことに、7代目社長・木村博之氏がじきじきにお相手をして下さる。社長は昭和35年生まれ、やまくまの山田さんと私が34年生まれなので、ほぼ同世代である。
考えてみれば、木村さんは老舗織屋の7代目、やまくまさんは帯問屋の3代目で、それこそ西陣のお坊ちゃまとお嬢様である。それが、スーパーカブを乗り回す、ガサツな地方の小さな呉服屋を相手に商売をしている。ミスマッチというか、不思議な取り合わせになっている。
帯地色としてはめずらしい、濃い葡萄色や芥子色。インパクトのある色には、人を思わず引きこませる力がある。博之社長は、淡々と品物を広げていく。能弁ではなく、静かに語る。説明しなくとも、一本一本の帯の表情が全てを物語るということなのだろう。やまくまさんが、広げた帯を巻きあげているところが写っている。
品物を見れば見るほど、店に置きたいものばかりだが、限界がある。何点かをより分けて、どれを最終的に仕入れとするのか、迷う。一度でいいから、金額にこだわらず、自分の思うままに買ってみたいものだ。
濃芥子地インカ文様・濃葡萄地小花文様・濃焦げ茶地裂取文様。今回は、紬八寸3本と九寸1本、それに夏帯2本を見分けた。上の画像の品はその一部。
遊び心溢れる図案。蝶文・クローバー・玩具・猫・フクロウ。楽しめる品物であるが、仕入れるとなると難しい。あまりに趣味的なものなので、どなたにも勧められるというものではないからだ。
捨松の作る帯にくらべれば、私の好みなど、まだまだ保守的なものだ。これは作り手に若い人が多いからこそ生まれる、ギャップなのだと思う。
図案はもとより、この配色の妙を見て頂けば、それがわかる。配色を任されるようになるまでには、10年かかるという。捨松が作る帯の種類はおよそ40ほどあり、それぞれに使う糸の種類や合わせる本数がわかっていないと色の差配が出来ない。例えば、一枚の花びらを考えても、そのほとんどが、何色もの糸を合わせて作られている。これは理想の色は自分で作り出すものと、意識されているからだ。
下絵、図案製作、織と組織を理解して、初めて配色に辿りつく。だからこそ、古典的配色と現代的なカラフル配色の両方を描けるようになるのだろう。
神棚がある玄関脇の小部屋。年季の入った糸巻き機や機の模型が置いてある。木版のレリーフや時計もかなりの年代物。
捨松の魅力の源泉はどこにあるのか。それは今を生きる職人の手による、古典文様の優れたデザイン化であろう。新しきモノを作るには、まず古典を知るところから始まる。これは全ての基礎になる。古典を理解し尽した上で、現代に流行る色や文様を融合させる。
また、伝統文様は学ぶと言う観点は、日本だけではなく、アジアは言うに及ばず、中東やアフリカ、ヨーロッパなど世界の各地域に及ぶ。古くから使われて続けているオリジナルなデザインに注目し、これを積極的に取り入れようとしている。
例えば「花文様」で代表的なものといえば、まず唐花を思い浮かべるが、捨松は、様々な地域で使われてきた装飾的な花文様を取り入れている。ウクライナ、フィンランド、プラハ(チェコスロバキア)等々。また、フランス刺繍の柄や、ペルシャ絨毯の模様を参考にした品物もある。
その一方では捨松が創業した頃の、江戸安政期に流行した文様や、大正期に数多く作られた柄の復刻などもなされている。要するに、文様に対しての懐がすごく深いのである。
このような文様への意識の上に立って、帯がデザインされる。通常織屋では、図案は外注に出され、しかも最近ではコンピューターで紋図(帯の設計図になるもの)が作られる。それを捨松では、社員達の手により全て手描きでなされている。
この姿勢は、徳田義三に師事した、先々代からのモノ作りの基本が今も息づいているということ。自分で考えて自分で作るという、オリジナリティこそが命なのだという姿勢が、貫かれている。
7代目・木村博之社長に、玄関先まで見送って頂く。ガサツなバイク呉服屋が写したものなので、社長のお顔をぼやかしてしまった。大変申し訳ない。
納得できる品物を作ることは、「省かない」ということに尽きるだろう。ゆっくり時間をかけ、試行錯誤を繰り返しながら一本の帯を仕上げる。当然、携わる職人を育てることにも時間を使う。理想を追うということは、手間を惜しまないということである。
古い京都の町家を大切に使い続けていることと、モノ作りへの姿勢には、いずれも共通した理念があるように思える。伝統を重んじると同時に、時代の変化を取り込み、新たな挑戦をする。経済効率ばかりを追っていたら、一番大切なことを見失うと、教えられた気がする。
今年の1月、京都ではめずらしく20cm以上の大雪が降りました。博之社長によれば、気が気ではなかったそうです。というのも、築100年を越える建物だけに、雪の重みにどこまで耐えられるのかわからないから。
万が一、不具合が生じても、自分で勝手に修繕することは出来ないということ。これは、景観重要建造物等に指定されているためで、行政の判断を待たねばならないのです。
「自分の家であって自分の家でないような気がする」と笑っておられましたが、守り続けていくということは、我々が考えているよりもずっと大変なことなのでしょう。
選ばせて頂いた品々は、作り手の思いも含めて、お客様に伝えさせて頂きます。店の外観や中の様子など、快く撮影させて頂いたことを感謝し、この場を借りてお礼申し上げます。
今日も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。