バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

江戸小紋五役の中から 鮫・通し・筋文様を見てみる

2015.02 28

近頃の中学や高校の制服には、デザイナーブランドが多く使われているらしい。特に女子の場合、制服のデザインとセンスにより、その学校の受験者数が違うと言われているほどである。ブレザーにチェックのスカート、それにリボンタイが一般的なようだ。

我々が高校生の頃は、男子は詰襟、女子はセーラー服というのが、定番であったが、現在では、かなりの少数派と言えるだろう。

私の卒業した高校は、1880(明治13)年創立、県内では最も古い歴史を持つ。男子は詰襟だったが、女子の制服はかなり特徴的なものだった。濃紺のブレザーに白いブラウスと、ここまでは平凡なのだが、変わっているのは、紺色のかなり太い幅の吊りスカート(後姿を見ると背中がY字型になっている)と臙脂色の蝶ネクタイを使用していたこと。特に幅広の吊は、江戸時代の武士の裃(かみしも)を連想させるほど太い。

1950(昭和25)年、学制改革により男女共学となった際に、女子の制服が作られたのだが、以来今年で65年間、変わることがない。街でこの「裃型吊スカートと蝶ネクタイ」を着た後輩たちを見かけるたびに、高校時代を懐かしく思い出す。

 

裃というのは、キモノ(小袖)の上に使われ、袴と同じ布で作られる。江戸時代の武士達の第一礼装であり、両胸と背には紋を入れる(仕えている主君の家紋)。徳川幕府が設けた参勤交代制度は、将軍と地方諸大名との主従関係を認識させるためのものだが、大名達が江戸城内に参内する際には、必ず徳川家の家紋(三つ葉葵紋)が付いた裃を着用しなければならなかった。

大名達が、どうしても使わなければならなかった裃。彼等は、その衣装において、他藩と競い合いをした。もちろん裃の形態は決まっているので、差別化をするには、柄ということになる。この裃に施された柄が、江戸小紋柄の発祥とされている。

各々の藩には、代表的な小紋文様というものがあった。例えば、徳川本家は「お召十」という細かい十文字柄であり、加賀・前田藩は「菊菱」、広島・浅野藩は「霰(あられ)」、薩摩・島津藩は「鮫」である。藩には、この裃小紋を作るために、「お抱え」の型紙彫り師や、型染め師がいた。大名たちは、他藩と競うために、それぞれの職人達に意匠を磨かせる。こうして、より精緻で美しい様々な文様を生み出されていった。当時の大名たちが、いかに文様というものにこだわっていたかがわかる。

この時代の小紋柄には、人の手とは思えないほど緻密なものがある。今も江戸小紋柄のポピュラーなものとして知られる「毛万筋(けまんすじ)」の中には、わずか1寸(約3.75cm)巾の中に24本もの筋(線)が施されている品が残されている。

染め上がった時に24本の筋を付けるとすれば、型紙においてはその倍ほどの筋を彫らなくてはならない。まさに「毛」ほどの細かさで、気の遠くなるような技術である。現在、国立博物館に収蔵されている型紙は3000枚以上、この裃だけでなく、中型浴衣や襖用に彫られたものも含まれている。この時代に、多種多様な柄が染められていた証である。

さて、そんな数ある江戸小紋の文様の中でも、「小紋五役」と呼ばれる格の高い代表的な柄がある。今日は、その中の文様を幾つかご紹介することにしよう。

 

(鮫小紋 芥子地色 竺仙・染師 根橋秀治)

大名の裃に端を発した江戸小紋の文様だが、江戸中期以降は市中の一般町人にも流行の広がりを見せ、いっそう多様な文様が生み出されることになる。

江戸中期に編纂された「燕石十種(えんせきじっしゅ)」という随筆集がある。内容は、江戸市中の風俗や人情を描いた記事が集められているもの。この中に「反古染(ほぐぞめ)」という随筆がある。越智久為(おちひさため)という人物が、天明年間(1780年代)に著したもの。

これを見ると、年代ごとに小紋の文様や色目に「はやり」があったことがわかる。すなわち、享保年間(1716~35)には、霰小紋・藍鮫小紋が、元文年間(1736~40)には、柿色小紋や市松模様が、宝暦年間(1751~63)には、通し小紋や麻の葉小紋が、安永・天明年間(1772~88)には、青茶小紋や霰輪違い模様が流行していたと記述されている。

この「男文様」とも言える色や柄は、江戸後期には女性にも好まれるようになり、いっそうの広がりを見せて行くことになる。茶・青・鼠などの渋い地色や、鮫・縞・通しなど無地に近い地味な抽象模様が、「江戸好み」または「小粋」な着姿となっていくのは、この時代からであろう。

江戸小紋の代名詞ともなっているのが、この鮫文様。よく、鮫小紋=江戸小紋と混同されることがあるが、鮫柄は江戸小紋の中の柄の一つである。それほどポピュラーな模様になっているということだろう。

江戸小紋の柄は、言うまでもなく型紙に模様付けされたものであるが、表現される柄によって、型紙の彫り方が異なっている。上の鮫文様やこの後ご紹介する通しや行儀文様などには、「錐(きり)彫り」という技法が使われている。これは、刃の先が半円形になっている彫刻刀を型紙に垂直に当て、それを回転させながら彫り進めていく。

鮫文様を見ると、円を描くように点が並び、それが連続することで、青海波模様のようにも見える。

 

(角通し小紋 芥子地色 竺仙・染師 根橋秀治)

縦横に整然と並ぶ小さな正方形の角。この品のように、同じ大きさで、同じ間隔を持って乱れなく並んでいる模様のことを「通し」と呼ぶ。中の模様が正方形なら「角通し」、丸なら「丸通し」である。

先ほどお話したように、この文様の型紙には錐彫りという技法が使わるが、もう一つ「道具彫り」という技法を用いることもある。これは、彫刻刀の刃そのものに模様を施し、それを用いて彫り抜くこと。菱文様やお召し十文様などで使われることが多い技法である。

角通し文様なのだが、中の柄は、丸のようにも見える。このような通し柄は、染付けの際、型紙を寸分の狂いもなく型付けしなければならない。もし型紙と型紙の継ぎ目がズレてしまえば、「通し」にならなくなる。縦横整然と並んでこその「通し」なのだからだ。

人の手による型紙を、人の手で置いて染めるのだから、微妙な狂いが生ずるのは、どうしても避けられない。それを修正するために、染工程の最後に「地直し」という作業がある。染めムラや型紙の継ぎ目跡などが、刷毛やヘラなどを使い丁寧に直されていく。実は、この出来不出来が、品物の質を左右するのだ。江戸小紋職人は、地直しが上手く出来てはじめて一人前と認められると言う。江戸小紋の染め場には、この直しを専門に担う「地直し職人」がいるところも多い。

 

(毛万筋小紋 黒地色 竺仙・型紙師 児玉博 染師 浅野榮一)

縞(筋)彫りの達人と呼ばれた、重要無形文化財保持者(人間国宝)児玉博(こだまひろし)氏の手による型紙。浅野榮一氏は縞柄の染師として知られる。2008(平成19)年には、唐桟縞の染技術で現代の名工に認定されている。現在竺仙の仕事として、児玉清氏の型紙のみを、請け負って染めている。

その昔、型紙の故郷伊勢白子でも、筋彫り職人はほんの数人しかいなかった。博氏の父・房吉氏がその中の一人であったため、父に付いて修行を始める。博氏12歳、大正8,9年の頃のことである。

筋彫りというのは、定規を当てながら均等に筋を引く。型紙を7,8枚重ねて引くので、少しでも力の入れ方が変われば、均等にはならない。児玉氏は、一本の筋を引くのに、三回刃をあてる。当然三回とも同じ力加減にしなければならない。

児玉氏の作品の中で、最も細かい「極微塵(ごくみじん)縞」は、3cmの中に31本の縞が付けられている。ということは、実際に引かれる筋はその倍、62本ということになる。計算すれば、1mmごとに一本の筋を引き、さらにその1mmの中で彫る部分と残す部分に分けなければならないことになる。実際には、0.4mm分彫り、0.6mmが残される。半々でないのは、糊付けを施すと、これで均等になるからだ。この十分の一ミリ単位の間隔を見切って筋を引くというのは、人の技術を越えた極致の仕事と言えるだろう。氏はこれを、全て自分の感覚だけを頼りにして、進めていたというのだから、熟練という言葉を越えた凄腕である。

児玉氏が亡くなったのは、1992(平成4)年のこと。すでに20年以上が経過しているが、型紙が健在な限り、氏の技術は作品の上で生かされ続ける。死してなお、名を冠した品物として作り続けられるものは、江戸小紋をおいて他にないだろう。現在、児玉氏を凌ぐような、筋彫り師の姿を探すことは出来ない。だからなおのこと、氏の残した型紙は貴重なものとなっている。

 

江戸小紋五役の残り二つは、行儀と霰(あられ)文様。ほかにも鱗(うろこ)、松葉、武田菱、亀甲、麻の葉等々、少し思い浮かべただけでも、実に多様なものがある。いずれ、またご紹介したい。

 

 

私の母校のOBに、サンリオの社長がいます。何年か前の同窓会で、母校の制服である「裃型吊りスカートと蝶ネクタイ」を着た「キティちゃん」のストラップを特別に作り、参加者に販売(進呈?)したようです。

もちろん、この制服に思い入れがある我々中高年世代では、何とも嬉しく、心憎い演出のように思いますが、現役の在校生や、若いOBにはこの制服があまり芳しく思われていないようです。うちの娘の中の一人も卒業生ですが、太い裃型吊りスカートを嫌がっていました。やはり65年も続いた裃は、時代遅れと感じるようですね。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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