「フリーマーケット」というものを、イベントや地域活性化の「集客の目玉」として利用する商店街や自治体が、本当に増えた。家庭の不用品を持ち寄って安く販売する。本来なら「商売」に無縁な「素人」が楽しみながら「商売」をするのだが、最近では、「フリーマーケット」専門の「商売人」もいるようだ。これは、「家にある品」を売るのではなく、どこからか「仕入」をして、販売をする。いわば、「フリーマーケット」を商いの場として使っている人達である。
「人が集まる場所」には「市」が立つ。「門前市を成す」という言葉の通り、古くから寺社の前には、「市」が立った。大勢の参詣客を見込んで、その門前には様々な店や露店が並ぶのだ。
京都の門前市で有名なのは、東寺(教王護国寺)の「弘法市」と北野天満宮の「御縁日」。
「弘法市」は、天台宗の開祖「空海」の命日にあたる毎月21日に、「御縁日」は「菅原道真公」の誕生日と命日にあたる毎月25日に開かれる。どちらも「門前市」として、古くから開かれていて、そこに並ぶものは、書画骨董、アンティークキモノ、植木、日用雑貨などから食料品まで、多岐に渡っている。
特に「弘法市」の歴史は古く、1239年に始まったというから、すでに800年近く続いている由緒ある門前市。1200もの店が並び、毎回20万人もの人出がある。この市に出店しているのは、もちろん「素人」ではなく、普段は他に店を構えているものが、この日だけここで商いをする。
ここでは、キモノ関係の店が数多く出店されており、古着やアンティークモノを扱う店や、生地を切り売りする店、「端切れ」を扱う店など、その形態は様々である。「古着」を探す人ばかりでなく、京都観光をする外国人にとっても、格好の「土産品を見つけるスポット」となっているようである。
前回の稿では、タンスに眠るキモノや帯の「引き受け手」が乏しいことをお話したが、今日は、それを「買取」ったり「無料」で引き取ったりする業者が扱う品物、いわゆる「リサイクル品」について、少し考えてみたい。
「リサイクル品」として世に出る品物は、「誰かが身に着けた仕立て上がりの品」ばかりではない。不思議なことに、我々の店先に並んでいるような「反物」の状態のままの品や「未仕立ての帯」もある。つまり「古着」という位置づけにはならないものだ。
なぜこのような「品物」が「リサイクル店」や「古着市」に並ぶのか。これには幾つかの訳がある。
「デッドストックとして、持て余している品はありませんか? 鑑定無料、高価で買取致します。」などと書かれた手紙や葉書が時々届く。中には電話などをかけて来る業者もいる。
「デットストック」とは、長く在庫として持ち続けている品物で、「売れる見込み」のないものや、店に置いているうちに色がヤケたり、変色するなど、不具合を起こして「商品価値」がなくなってしまったもののことである。
もちろんうちには現在そんな品物はなく、もし「不具合を起こしたモノ」があれば、自分でその行く末を考える。例えば、店の照明で反物の色が「ヤケ」てしまったような品物ならば、「売り物」にはならないので、うちの奥さんの仕事着にしてしまうとか、または変色部分を除いた上で、「裏地」や「襦袢の袖」として「再利用」するかである。
だが、店によっては「過剰在庫」に苦しんでいたり、後継者がなくて、商品の処分を考えなくてはならないところもある。こうした店では、買取業者の誘いを「渡りに船」と思う場合がある。
先日ある取引先から聞いた話だが、「後継者」のいない呉服店の経営者が亡くなった時など、あちらこちらの業者から、「商品買取」の勧誘が入るそうである。特に、商品知識のない人が、店主亡き後に残された場合、店の棚の品物をどのように「処分」してよいかわからない。例えば、親が経営していた呉服屋を息子が継がずに、まったく違う仕事に就いているような場合である。
それこそ、一般家庭でタンスの中のキモノの処分に困るように、「店の反物」の処分に苦慮する。こんな時に、「買取業者」から連絡が入れば、一にも二にも「頼みたくなる」だろう。「店をたたむ」とすれば、品物の存在は「邪魔」になる。これをまとめて買い取ってくれるならば、こんな有難いことはない。
もともと「呉服」に関して、何の知識もないので、自分で始末する方法を持たない。買取業者にとって、このような店はもっとも「旨みのある」取引が出来る店だ。なにしろ「売り手」側に知識がないので、品物の価値がわからない。つまりは、値段を安く付けようが高く付けようが、相手にはわからないことになる。結局買い取り業者の「言い値」で、品物が引き取られていくのだ。
廃業する呉服屋から、こうして未仕立の反物や帯が流れ、リサイクル店や古着屋の店先に並ぶのである。そして、現在「後継者」のいない呉服屋が多く存在することを考えれば、ますますこのような「小売屋から流出した品物」は増えていくことが予想される。
では、少し視点を変えて、「リサイクル店」や「古着店」の存在意義を考えてみよう。
この十年の間、店舗数は本当に増えた。大手百貨店の中に「テナント」として入る古着屋あり、ネット販売だけで高級品ばかりを扱う店あり、古い銘仙や希少な木綿のものなどの、いわゆる「アンティーク品」に絞って品揃えをするところあり、とその業態や扱い品は様々である。
店が増えたということは、供給する品物が増えたということになる。先にお話したように、「家庭のタンス」から出る「仕立て上がり品」や、「廃業する店や在庫整理する店」から出る「未仕立て品」の数が増え続けているという裏返しとも言える。
あとどれくらいで家庭に残されている「古着」が無くなるか、予想は付き難いが、何せ現時点で2億点以上のキモノや帯が存在していることから考えれば、まだ、先は長いと思える。
リサイクル店が「多様化」したのは、品物を求める消費者のニーズに合わせて「細分化」されたものだろう。それは、キモノや帯を求める人の「購入先」として、ポピュラーな場所と認知された結果でもある。
キモノを着てみたいと思う若い人は予想以上に多い。「潜在的なキモノファン」なのだが、いざ「購入」するとなると、ネックになるのはやはり「価格」である。例えば街着を作りたいと呉服屋の暖簾をくぐる。キモノ、帯、襦袢から小物、草履まで揃えるとすれば、10万円以内で収まることはほぼ不可能であろう。
これを、「リサイクル店」で考えれば、十分可能になる。若いOLや学生でも「何とかなる」価格になる。「古着屋」の存在意義の一つは、キモノ購入に対するハードルを決定的に下げたところにある。そして、「敷居の高い」呉服屋でなくても、気軽に、自由に、品物を見ることが出来る点もポイントが高い。
「自分の身に着けるモノ」として、キモノや帯は、他の洋服類に比べて「以前誰かが着ていたモノ」であることが「あまり気にはならない」ようだ。もちろんリサイクル店の店頭に並ぶ時には、出来る限りしみや汚れは落とされていて、「良い状態」になっているのだが、元々「キモノは古いモノ」という意識が根底にあるからなのかも知れない。
古着屋やリサイクル店に注目するのは、キモノ初心者ばかりではない。ある程度キモノに精通する人が使うこともある。それは、「古着」でなければ流通しないような質の高い商品や、希少品に巡りあえるからだ。
すでに亡くなってしまった作家の品や、生産量が激減した産地の織物、または手を尽くした良質の友禅や精緻な型を使った小紋、それに有名メーカーの帯などがそれに当たる。稀に呉服屋の店頭にあったとしても、「高額」なものでなかなか手が出ないものが多い。
「古着」であることを除けば、品物の質はあまり変わることはなく、価格も安い。品そのものに価値を認めることが出来るような、「品物がわかる人」にとって、そんな商品と出会える「古着屋」には魅力を感じ、利用価値がある。
もちろん、このような「質の高いリサイクル品」を扱う店は、品物の知識が要求され、それと同時に品物を供給するルートが必要になる。「素人」ではとても開けない「古着屋」であり、「呉服を専門に扱ってきた」者が、この形態の店で商いをしていることが多い。皆さんも、一度ネットでこのような店を覗いて頂けば、どんな品物が高額で買い取られているのかがわかる。
以上、二つの形態の「リサイクル店」を見てきたが、これからは「価格」や「質」に特化した店ばかりではなく、もっと細分化した店が増えていくかも知れない。例えば、「カジュアルモノ専門」の古着屋とか、「若い方向けの品物ばかり集めた」古着屋、「男物専門」の古着屋などが想像できる。
それと同時に「寸法部分直し」や「洗い張りして仕立て直し」など、購入した人の寸法に合わせて品物を「直す」仕事を要求されるだろう。「古着」であっても、やはり着る方の体型には近い方が良いからだ。寸法に関する知識を持つ古着屋は、利用者にとっては重宝である。そして、キモノと帯、小物類のコーディネート力も要求される。特に初心者が品物を選ぶ際、店の者の的確なアドバイスが必要となる。
「リサイクル店」は、呉服というモノの「敷居」を低くする役割を果たしたが、これを考えてみると、そこには、既存の呉服店では出来なかった消費者への対応力や、商品価格の問題点が浮かび上がる。
扱う品物が高額なことから、店側で客を選んでしまっていることとか、良質な品を、消費者の購入しやすい価格で提示してこなかったことなど、一言で言えば、「消費者目線」で商いを進めてこなかったということに尽きる。
すでに、「古着屋」や「リサイクル店」は、呉服小売店にとって無視出来ない存在であり、改めて学ぶべきところも多い。その上に立って、我々既存小売店に出来ることは何かを考えることが必要であり、それは自分の店が社会の中で、どのようなスタンスで商いをしていくかということにも、繋がっているように思う。
うちにも「後継者」がいないので、いずれは、「棚に並ぶ品物」の行く先を心配しなければならない時が来るかも知れません。
なるべくならば、自分の手で仕入れた品物は、出来る限り売り切って終わりたいと思います。「自分の娘のように愛着のある品」が「見知らぬ業者」に貰われて行くくらいなら、値段などいくらでもよいので、せめて「自分の知るお客様」に使って頂きたいですから。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。