とても懐かしい品物が「里帰り」してきた。今日ご紹介するのは、私が呉服屋になって初めて「振袖をコーディネート」し、お客様にお求め頂いたものである。今から、30年前ほど前のことなので、1980年代の品ということになる。
今度は、「母」から「娘」へ受け継がれるための「手直し品」として、私の所に戻ってきた。折角なので、「ノスタルジア」の稿で取り上げて、皆様にご覧頂こう。
なにぶん、呉服屋としては「駆け出し」の頃なので、お客様には大変申し訳ないが、「確固とした自信」を持ってお勧めしたものではないだろう。しかし、今改めて、帰ってきたものを見ると、そんな「売り手」の未熟さを感じさせない商品力がある。
「質の良い品」は、「勧める側」の知識が身についてなくとも、結果として、「満足できる組み合わせ」となり、お客様にお求め頂ける。「良品は売り手を選ばない」ということの「よい例」である。
(綸子紅色慶長文様振袖・北秀 白地聖樹瑞鳥錦袋帯・龍村美術織物 山梨市・I様)
「モノの売り方」や「コーディネート」は、「教えてもらう」ものではない。「盗んで覚える」ものだ。私も、先代の「品物の勧め方」を見て、基本的なことを覚え、そこから「自分らしい商いのやり方」を見つけていった。
どんな品物をお客様に勧めるか、というのは「売り手」が変われば、変わるものだ。私と父では、「色の好み」が違い、「図案の好み」も違う。専門店では、「代替わり」すると、仕入れる品物が変わると言われているが、「好みが違う」主人に交代したならば、当然のことである。
ただし「変わる」といっても、あくまで「質のよい品物にこだわる」ことを、変えてはならない。品物の水準を落とせば、今まで積み重ねてきた「店のイメージ」を壊すことになる。
うちの取引先の社員などからは、「代が変わったら、すっかり品物を扱ってもらえなくなった」という話をよく聞く。昨今では、「専門店」として、知識を持つことを億劫だと考える若い跡継ぎも多く、「振袖屋」に様変わりするような店も増えたようだ。
「専門店」と「振袖屋」では、まるで仕事が違う。もちろん扱う商品も違うので、「取引相手」も変わってゆく。「自分で品物を覚えて、自分でコーディネートする」ことが出来るまでには、時間がかかり経験も必要だ。それを諦めてしまったり、「楽をして」商いをしようとすることは、「専門店」としての「プライド」や「生き方」を捨てることになる。それをわかっているのだろうか。
つまらない話に方向がそれたが、今日の品物をご紹介していこう。
(紗綾型紋綸子 紅色地 雲取りに四季花 慶長文様京友禅中振袖・北秀)
キモノ全体をいくつかに「区切って」模様付けされているのは、「慶長文様」の特徴。上の品物では、背から裾に、両袖の上から下へと、三ヶ所の「切り取り」が見える(黒地の部分)。また、柄の中心部分となる「上前のおくみ」と「身頃」には、二つの「雲取模様」が見られ、中は金の「摺箔」が施されている。
このような、「抽象的図案」で、切り分けられる場合、使われる色は、「黒」「紅」「藍」「白」が基本となる。上の品物もやはり、「黒」、「紅」、「白」の染め分けになっている。そして、「切り分けた」中に、様々な模様が描き出されている。
この振袖の背の中心部分、すなわち「帯」が入って見えなくなる所には、模様付けされていない。金と白の横段のような模様があるだけだ。(この模様は「壺垂(つぼたれ)文様」と言い、壺の淵から釉薬(ゆうやく)が流れて垂れた様を、文様に使っている)
一般的に、「見えない部分」の柄付けは、少なくなることが多いが、慶長文様を使ったものには、この「見えない部分」にまで柄を付け、全体を模様で埋め尽くすような、「豪華絢爛」たる仕事がされているものがある。以前ブログでご紹介した、「緋色立浪青海波・慶長文様振袖」がそれに当たる。(詳しくは、1・19「呉服屋へ嫁ぐ日」の稿をご参考にされたい)。このような、「地色がわからなくなるほど」模様付けされたものを、「地なし模様」と呼ぶ。
(「裾模様」の柄付け。「切り込み」が幾重にも重なっている。)
慶長年間というのは、1596~1615年にあたり、丁度江戸幕府が開府した頃であるが、慶長文様というものは、一つ前の時代である「桃山時代」の「桃山文様」に強く影響を受けている。
桃山文様は、「小袖」の形が定まったことで、図案の配し方に一つのルールのようなものが定まった。その特徴は、キモノの全体を区切った上で、その中に模様を入れるというものである。この「区切り方」は様々で、「片身替り(かたみがわり)」と言って、背縫いを境に左右対称に模様を替えたり、全体を何段かの「段」に区切り、そこにそれぞれの模様付けをする、「段替わり」と呼ばれるような手法が取られていた。
慶長文様は、この「区切り方」がさらに変化したもので、「円」、「菱」、「四角」、「三角」など、様々な形で「境界」が作られるようになった。また、「何の形」かわからないような「不整形」な形で区切られたものもあり、複雑化した。今日の品物を見ても、「不整形に区切られたもの」ということが、わかると思う。
(柄の中心、上前おくみと身頃を拡大したところ)
この時代の模様に施された技法は、「摺箔」と「刺繍」、「絞り」である。「糸目糊置き」による「友禅」の技法がまだ無かった時代、「箔」を多用した慶長小袖には、豪華絢爛たる贅沢なものが多く見られる。この文様を意識してモノ作りをするとすれば、やはり「箔」の印象を強くするということになるだろう。
上の画像を見ても、柄の中心の「雲取り」の中は、「摺箔」で埋められていて、そこに「菊」「桜」「椿」などの花々が描かれている。わかりにくいが菊の花弁の輪郭は、刺繍の「駒縫い」で形作らたもの。「箔」はこの振袖の印象を豪華に引き立たせる役割を担っていて、そこにも「慶長文様」を意識して作られたものということがわかる。
(白地 聖樹瑞鳥錦 正倉院ペルシャ文様袋帯・龍村美術織物)
帯に話を移そう。この文様を今までのこのブログのどこかで見掛けたことがある、と思われた読者の方もおられるのではないだろうか。
以前のブログで、天平を代表する樹木である「ナツメヤシ」のお話をした。この木が、古代エジプトやメソポタミアの時代から、「聖なる木」と崇められてきたことや、「ナツメヤシ」の下に配される「一対」の鳥や獣を描いたものが、「聖樹獣紋」と呼ばれ、ササン朝ペルシャの代表的な文様であったことなどである。(詳しくは、2.2 「品川恭子作品」に見る「天平」・文様編 「花喰い鳥とナツメヤシ」をご参考にされたい)。
これは、ペルシャから西域とシルクロードを通って「正倉院」へ運ばれたもので、それこそ「オリエント」の香りが漂うものだ。
この文様は、「花樹双鳥模様」と呼ばれ、「ナツメヤシ」の下の一対の鳥が、左右対称に向き合っている姿が描かれている。正倉院に残されているあしぎぬの中に、「紺地花樹双鳥模様夾纈」と呼ばれるものがあり、その図案をそのまま「龍村」がモチーフとしたのが、この帯である。
龍村の創始者である龍村平蔵は、様々な正倉院裂の復元を手がけているが、その始まりは、1924(大正13)年に当時の帝室博物館より、委嘱を受けたことによる。そして、わずか4年後の1928(昭和3)年には、複製に成功し、10種類の錦を納入している。
その中には、ナツメヤシの下に一対の鴛鴦(おしどり)が配されている、「赤地鴛鴦唐草文錦」や、やはり同じようにナツメヤシの下に一対の鹿が配されている「狩猟文錦」を復元したものがある。
特に、「狩猟文錦」は、正倉院に伝わる「ペルシャ式狩猟文」の裂を再現したもので、「連珠円文」という丸文の中央に、ナツメヤシと一対の鹿が置かれ、円の周囲に獣を配し、それを馬上から弓を射って倒そうとしている狩人の姿が描かれている。
この図案は、「ナツメヤシ」の下に配されるものにより、文様の名前が異なる。「鹿」ならば、「花樹双鹿文」であり、「羊」ならば、「花樹双羊文」となる。いずれも、構図は同じで、一対のものが、左右対称に描かれている。
龍村ではこの帯に、「聖樹瑞鳥錦」と名前が付けているが、「聖樹」はもちろんペルシャの聖なる木「ナツメヤシ」であり、「瑞鳥」はその下にいる「縁起の良い一対の鳥」である。
最後にもう一度、振袖と帯を組み合わせた画像をお見せしよう。
振袖が日本的な「慶長文様」なのに対し、帯は異国の香りただよう「天平のペルシャ文様」。キモノのこっくりとした「紅色」に、龍村独特の光を帯びた色が映えるようだ。帯地色が「白」であることが、コントラストをより引き立たせているのであろう。
「龍村帯」の不思議なところは、使うキモノにより、まったく違う表情を見せるところだ。このお客様は、この帯を、娘さんだけでなくお母さんも兼用にして使っていたとのこと。
振袖にせよ、訪問着にせよ、留袖類にせよ、着る人の「年齢」や使うモノの「派手、地味」を問わず、キモノを自在に表現できる帯であり、これはやはり、帯に施されている「天平文様」に「不思議な力」が感じられるということなのだろうか。
「駆け出し」の「バイク呉服屋」がコーディネートしたものとしては、「上出来」と思われるかもしれないが、もちろんこれは当時の「私の実力」ではなく、品物が「上質」だったことに助けられたものである。
専門店としての仕事の実力を付ける条件として、「質のよい品物」に囲まれているということは、重要なことだ。それは、力のない売り手が、「商品」に助けてもらいながら成長することが出来るということ。そして、経験を積むことで、「力のある品」を使い回せるようになる。
しかし、「コーディネート」というのは一筋縄ではいかないもので、「正しい答え」というものがない。「お客様が満足されること」が「合格点」というのであれば、「世代を越えて使いたい」という希望が出されたことで、一定の評価を頂いたと考えてよいのかも知れない。
今日の品物は、「初心忘れるべからず」ということを、改めて感じさせてくれた。これからも、いつの時代になっても「良いコーディネート」だったと振り返って頂けるよう、精進したいと思う。
良質な品は、「不易流行」であり、いつの時代になっても、その輝きが鈍ることはありません。この振袖を作った三十年前には、今の呉服を取り巻く環境が、これほど厳しくなるとは、思いもよらぬことでした。
けれども、「良質」なものを作ろうとする職人と、「良質」なものを求めようとするお客様は、どんな時代になろうとも存在し続けることは、間違いありません。
この両者を繋ぐ役割を担う、我々「小売」の仕事は、手間を惜しまず品物を探し、丁寧にお客様のもとへ、提案していくことでありましょう。その意欲が無くなった時には、この仕事から離れなくてはいけない、と思います。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。