2,3日前、ある映画製作会社の小道具担当の方から、メールで質問を頂いた。
その内容は、戦前(昭和19年頃の設定らしい)、呉服屋が顧客のところへ反物を持って商売に行くとき、どのような「道具」で反物を包んで運んだかということと、その家で、どのような品物の「見せ方」をするのか、ということだ。
また、映画(ドラマ?)の中では、呉服屋が顧客の家に、品物を預けていくというシチュエーションらしく、置かれた反物が「どんな状態で置かれているか(たとえば、風呂敷に包まれるとか、箱に入れられるとか)」、わかる範囲で教えて欲しいというものである。
「バイク呉服屋」としての、毎日の仕事の中で、「反物」をお客様に見せにいくということは、当たり前のようにしていることだ。だが、これは現代の「訪問販売」というのと少し違う。それは、あくまで「お客様の依頼」があってから、初めて品物をお目にかけるもので、最初から「売るため」に品物を持ち込んだりはしない。もちろん、全然お付き合いのないお宅に押しかけて、品物を見せることがないのは、言うまでもない。
戦前の呉服屋というものは、顧客の家へ品物を持っていって、商いをすることが多かった。旧家などの「上客」を持っている店では、季節の変わり目(袷になる前、単衣になる前、薄物を使う前)になると、「旬」の品物を持って、顧客の家へ伺うことが、「日常」の商売の方法として、定着していた。
そんな訳で、久しぶりに「呉服屋の道具」の稿を書くことにする。道具はもちろん「反物」を運ぶ時のもの、「反箱」についてである。ただし、今の道具ではなく、「昔使われていた道具」ということで、話を進めさせて頂くことをご了解頂きたい。なお、品物を包んで運ぶものとして、もう一つ「風呂敷」があるが、長くなるので、これは次回にしたい。
「バイク」に、祖父が戦前に使っていた「反箱」を積んでみた。
昔「反物を運んだ道具」として、思い出したのが、上の画像の「木製・店のロゴマーク入り反箱」。倉庫の隅に積まれたまま、残されていたものだ。
「反箱」の前と後。朱色で、「永源(えいげん)」と書かれた店名と、消えかかって、わかり難くなっている「ロゴ・マーク」が入っている。
実は、この「永源」という呉服店が、うちの店の原点になっている店なので、話がそれるが、そのことに少し触れておこう。
明治41年生まれの祖父が、故郷の身延(みのぶ)町から甲府へ出てきて、「丁稚」に入ったのが、この「永源」という店であった。この店は、当時甲府でも3本の指に入る「大棚」として知られ、扱う品物も他の呉服店と比べ、高級品が多かった。
大正8年頃、小僧(こぞう)として出発してから、順調に「出世」し、30歳になった昭和10年頃には、店の「大番頭」として、商いを取り仕切っていた。太平洋戦争が激しくなった昭和19年頃、呉服屋も品物不足などから、商いを続けることが難しくなり、「永源」の経営者は、店の継続を断念しようとする。そこで祖父は、残り少ない商品と、数人の店員を引き継ぎ、自分で店を始めようとした。これが、「松木」という呉服店の始まりである。
祖父が店を始める間もなく、すぐに終戦。甲府空襲などで町が焼け野原となり、繊維製品が国の「統制品」になったことで、「呉服屋」として生活できず、一時は木炭などの燃料を販売して、凌いでいたようだ。呉服の商いが復活できたのは、昭和27年頃からである。
そんな訳で、「永源」という店名が入った「反箱」がここに残されているのだ。なお今うちで使っている店の「ロゴマーク」は、「永源」のものとよく似ており、「店のルーツ」がまだ生きている。
「反箱」は木製で、お客様のところへの「運搬用」であり、また、店内で商品を入れておく箱にもなっていたようだ。画像を見れば、「黒江戸褄」と箱に紙が貼られているが、「黒留袖」が入れられていたことがわかる。
箱の寸法は、上蓋が付いていて、縦1尺8分(41cm)・横1尺4寸(57cm)・深さ6寸(22cm)。この箱、「反物」ピタリと入るように作られている。下の画像でお見せしよう。
当時の反物の幅は、9寸~から9寸5分(約34cm~36cm)がほとんどであっただろう。だから、箱の縦寸法が1尺8分(41cm)に取られている。今の「反幅」は、現代人が「裄」が長くなったことにより、1尺(約38cm)以上あるものも、めずらしくなくなったので、この寸法では、すこし入り難いかも知れない。
画像でわかるように、箱と反幅が合っていて、一列6反、それが三列18反入るように出来ている。
お客様のお宅へ持ち出す時は、そのまま反物を入れるのではなく、布などを敷いて反物を汚さぬように注意していたと思われる。今であれば、画像のように、防虫効果のある「ウコン」で染めた風呂敷を使うと、見映えも良い。
このように、箱の中で反物を包んだ状態にして、持ち運ぶ。お客様の家で品物を取り出す時には、きっとこんな感じだったのだろう。
箱から反物を取り出して、品物を積んでいく。この時には、積み方がある。
反物を積む時は、4反ずつ交互に積んでいく。これを「サギに積む」と言う。こうしておけば、全ての反物の色が、どの方向からも見ることが出来る。例えばお客様から、「地色が青の品」を希望されれば、即座に取り出すことが出来る。また、反物の数を数える時にも、重宝な積み方である。
さて、箱に入れたのはよいが、当時どのようにして、お客様の家まで運んだのだろう。その頃の「運搬手段」と言えば、「自転車」か「リヤカー」。「丁稚」が手に持つか、肩に担ぐかして運ぶこともあっただろうが、「反物」というものは重いものなので、かなりの重労働であっただろう。
また、遠方のお客様のところへ伺う時には、国鉄の「チッキ」などを使っていたと推測される。若い方には何のことか、わからないだろうが、「チッキ」というのは、鉄道による「手荷物輸送」のことである。
例えば、甲府駅で荷物を預け、受け取り駅を指定して、荷物だけを送っておけば、持つことなく遠方に行くことが出来る。お客様の「最寄り駅」までは、楽が出来るという訳である。今では、「チッキ」どころか、「国鉄」と言っても、わからない人も多くなり、昭和は遠くなった。
祖父は、平成元年に亡くなったが、生前私に、「呉服屋というものは、その家で一番良い部屋へ通される」、「他の商いの者では考えられないような、丁寧な扱いを受けるのが、呉服屋だ」、とよく話してくれた。
「永源」という店の格が高かったこともあり、旧家や大きい商家の得意先を多く持っていたのだろう。その当時、お客様の方も「反物」を選ぶというのは、「楽しみ」であり、貴重な時間だったと思われる。だから、「呉服屋」は大切にされたのだ。
家の仕事に追われて時間も取れず、その上交通手段も限られ、店へ気軽に行くことが出来ない時代の商いだからこそ、それぞれの家と呉服屋の関係は密接になり、長くお付き合いすることが出来たように思う。
さて、「箱」繋がりということで、「帯箱」と「小物箱」のことを簡単にお話しておこう。これは、私が今、お客様の所へ伺う時に、日常的に使っているものである。
「帯箱」というのは、「反箱」同様に、袋帯というものの寸法に合わせて作られている。縦1尺5寸6分(約59cm)・横8寸5分(約32cm)。
袋帯は、四つ折りにしてたたまれている。帯丈が1丈2尺2,3寸(約4m60cmほど)なので、これを八等分(四つ折りなので、八つの面が出来る)すれば、1尺5寸3分(57.5cm)となり、帯箱の縦寸法と合致する。また帯幅は8寸(約30cm)と決まっているので、横寸法もそれに合わせたものになっている。
この箱は「紙箱」で、品物を見せるための「運搬用」のものだが、購入して頂いた時、品物を収める箱は違うものを使う。
「龍村」の袋帯など、少し高価な品物などは、「桐箱」を使う。納品時には、箱の下に「ウコンの風呂敷」を敷き、帯を覆うようにしておく。龍村や紫紘の帯などは、織り出されている図案の名前などが、「箱」に裏書されているものも多い。
「小物箱」は、「帯〆」や「帯揚げ」などの「小物類」を持ち出す時に使うもの。こうやって持参すれば、見映えがよく、品物が汚れない。どのような「箱」でもよいのだが、たまたま「呉服屋の道具屋」である、富沢町の「ナカチカ」へ寄った時に千円で売っていた箱があったので、それを買ってきて使っている。
今日の道具は、「品物を持ち出す時」に使う「箱」ということでお話してきた。祖父の時代は、「モノを運ぶこと」が大変な時代であった。車やバイクがあった訳でなく、「宅急便」のような「運送業者」がいた訳でもない。
そんな中苦労して、お客様のところまで足を運び、商いをしてきた。だからこそ、それぞれの顧客と「信頼関係」を築くことが出来、それが今現在まで繋がっている。それを、受け継いだ父と私で、守り続けているということになる。
今日の稿は、一通のメールを受け取ったところから、話が始まったのだが、先人の苦労を思い起すことが出来る、よい機会を与えて頂いたように思う。改めて、感謝したい。
祖父から言われたことで耳に残っていることは、「呉服屋になれれば、他のどんな商売も出来る」と言っていたことです。それだけ、「呉服」の仕事は難しく、奥が深いという意味で、「心して掛からなければ、上手くはいかない。簡単なものではない」ということを言いたかったのでしょう。
仕事に就いて30年近くなりましたが、祖父から見れば、「一人前の呉服屋」になったとは、とても言ってもらえないと思われます。ただ「平成の世」になって、こんなに「需要」が落ち込むとは、じーちゃんにも想像できなかったはずで、もし生きていれば、どんなアドバイスをしてくれたのか、聞いてみたかったですね。
最初の画像で、「反箱」を「バイク」に乗せてみたのですが、考えてみれば、「御用聞き」のように「お宅へ伺うこと」を基本とする私の仕事の進め方は、戦前の「祖父」の時代における「お客様」との接し方と、共通するところが多いと思います。
「質の良い品物を扱うこと」と「顧客との向き合い方」というものが、時代を越えて受け継がれていることを、改めて感じさせてくれました。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。