バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

呉服屋の道具・9 反箱・帯箱・小物箱

2014.10 12

2,3日前、ある映画製作会社の小道具担当の方から、メールで質問を頂いた。

その内容は、戦前(昭和19年頃の設定らしい)、呉服屋が顧客のところへ反物を持って商売に行くとき、どのような「道具」で反物を包んで運んだかということと、その家で、どのような品物の「見せ方」をするのか、ということだ。

また、映画(ドラマ?)の中では、呉服屋が顧客の家に、品物を預けていくというシチュエーションらしく、置かれた反物が「どんな状態で置かれているか(たとえば、風呂敷に包まれるとか、箱に入れられるとか)」、わかる範囲で教えて欲しいというものである。

 

「バイク呉服屋」としての、毎日の仕事の中で、「反物」をお客様に見せにいくということは、当たり前のようにしていることだ。だが、これは現代の「訪問販売」というのと少し違う。それは、あくまで「お客様の依頼」があってから、初めて品物をお目にかけるもので、最初から「売るため」に品物を持ち込んだりはしない。もちろん、全然お付き合いのないお宅に押しかけて、品物を見せることがないのは、言うまでもない。

戦前の呉服屋というものは、顧客の家へ品物を持っていって、商いをすることが多かった。旧家などの「上客」を持っている店では、季節の変わり目(袷になる前、単衣になる前、薄物を使う前)になると、「旬」の品物を持って、顧客の家へ伺うことが、「日常」の商売の方法として、定着していた。

 

そんな訳で、久しぶりに「呉服屋の道具」の稿を書くことにする。道具はもちろん「反物」を運ぶ時のもの、「反箱」についてである。ただし、今の道具ではなく、「昔使われていた道具」ということで、話を進めさせて頂くことをご了解頂きたい。なお、品物を包んで運ぶものとして、もう一つ「風呂敷」があるが、長くなるので、これは次回にしたい。

 

「バイク」に、祖父が戦前に使っていた「反箱」を積んでみた。

 

昔「反物を運んだ道具」として、思い出したのが、上の画像の「木製・店のロゴマーク入り反箱」。倉庫の隅に積まれたまま、残されていたものだ。

「反箱」の前と後。朱色で、「永源(えいげん)」と書かれた店名と、消えかかって、わかり難くなっている「ロゴ・マーク」が入っている。

実は、この「永源」という呉服店が、うちの店の原点になっている店なので、話がそれるが、そのことに少し触れておこう。

明治41年生まれの祖父が、故郷の身延(みのぶ)町から甲府へ出てきて、「丁稚」に入ったのが、この「永源」という店であった。この店は、当時甲府でも3本の指に入る「大棚」として知られ、扱う品物も他の呉服店と比べ、高級品が多かった。

大正8年頃、小僧(こぞう)として出発してから、順調に「出世」し、30歳になった昭和10年頃には、店の「大番頭」として、商いを取り仕切っていた。太平洋戦争が激しくなった昭和19年頃、呉服屋も品物不足などから、商いを続けることが難しくなり、「永源」の経営者は、店の継続を断念しようとする。そこで祖父は、残り少ない商品と、数人の店員を引き継ぎ、自分で店を始めようとした。これが、「松木」という呉服店の始まりである。

祖父が店を始める間もなく、すぐに終戦。甲府空襲などで町が焼け野原となり、繊維製品が国の「統制品」になったことで、「呉服屋」として生活できず、一時は木炭などの燃料を販売して、凌いでいたようだ。呉服の商いが復活できたのは、昭和27年頃からである。

そんな訳で、「永源」という店名が入った「反箱」がここに残されているのだ。なお今うちで使っている店の「ロゴマーク」は、「永源」のものとよく似ており、「店のルーツ」がまだ生きている。

 

「反箱」は木製で、お客様のところへの「運搬用」であり、また、店内で商品を入れておく箱にもなっていたようだ。画像を見れば、「黒江戸褄」と箱に紙が貼られているが、「黒留袖」が入れられていたことがわかる。

箱の寸法は、上蓋が付いていて、縦1尺8分(41cm)・横1尺4寸(57cm)・深さ6寸(22cm)。この箱、「反物」ピタリと入るように作られている。下の画像でお見せしよう。

当時の反物の幅は、9寸~から9寸5分(約34cm~36cm)がほとんどであっただろう。だから、箱の縦寸法が1尺8分(41cm)に取られている。今の「反幅」は、現代人が「裄」が長くなったことにより、1尺(約38cm)以上あるものも、めずらしくなくなったので、この寸法では、すこし入り難いかも知れない。

画像でわかるように、箱と反幅が合っていて、一列6反、それが三列18反入るように出来ている。

お客様のお宅へ持ち出す時は、そのまま反物を入れるのではなく、布などを敷いて反物を汚さぬように注意していたと思われる。今であれば、画像のように、防虫効果のある「ウコン」で染めた風呂敷を使うと、見映えも良い。

このように、箱の中で反物を包んだ状態にして、持ち運ぶ。お客様の家で品物を取り出す時には、きっとこんな感じだったのだろう。

箱から反物を取り出して、品物を積んでいく。この時には、積み方がある。

反物を積む時は、4反ずつ交互に積んでいく。これを「サギに積む」と言う。こうしておけば、全ての反物の色が、どの方向からも見ることが出来る。例えばお客様から、「地色が青の品」を希望されれば、即座に取り出すことが出来る。また、反物の数を数える時にも、重宝な積み方である。

 

さて、箱に入れたのはよいが、当時どのようにして、お客様の家まで運んだのだろう。その頃の「運搬手段」と言えば、「自転車」か「リヤカー」。「丁稚」が手に持つか、肩に担ぐかして運ぶこともあっただろうが、「反物」というものは重いものなので、かなりの重労働であっただろう。

また、遠方のお客様のところへ伺う時には、国鉄の「チッキ」などを使っていたと推測される。若い方には何のことか、わからないだろうが、「チッキ」というのは、鉄道による「手荷物輸送」のことである。

例えば、甲府駅で荷物を預け、受け取り駅を指定して、荷物だけを送っておけば、持つことなく遠方に行くことが出来る。お客様の「最寄り駅」までは、楽が出来るという訳である。今では、「チッキ」どころか、「国鉄」と言っても、わからない人も多くなり、昭和は遠くなった。

 

祖父は、平成元年に亡くなったが、生前私に、「呉服屋というものは、その家で一番良い部屋へ通される」、「他の商いの者では考えられないような、丁寧な扱いを受けるのが、呉服屋だ」、とよく話してくれた。

「永源」という店の格が高かったこともあり、旧家や大きい商家の得意先を多く持っていたのだろう。その当時、お客様の方も「反物」を選ぶというのは、「楽しみ」であり、貴重な時間だったと思われる。だから、「呉服屋」は大切にされたのだ。

家の仕事に追われて時間も取れず、その上交通手段も限られ、店へ気軽に行くことが出来ない時代の商いだからこそ、それぞれの家と呉服屋の関係は密接になり、長くお付き合いすることが出来たように思う。

 

さて、「箱」繋がりということで、「帯箱」と「小物箱」のことを簡単にお話しておこう。これは、私が今、お客様の所へ伺う時に、日常的に使っているものである。

「帯箱」というのは、「反箱」同様に、袋帯というものの寸法に合わせて作られている。縦1尺5寸6分(約59cm)・横8寸5分(約32cm)。

袋帯は、四つ折りにしてたたまれている。帯丈が1丈2尺2,3寸(約4m60cmほど)なので、これを八等分(四つ折りなので、八つの面が出来る)すれば、1尺5寸3分(57.5cm)となり、帯箱の縦寸法と合致する。また帯幅は8寸(約30cm)と決まっているので、横寸法もそれに合わせたものになっている。

この箱は「紙箱」で、品物を見せるための「運搬用」のものだが、購入して頂いた時、品物を収める箱は違うものを使う。

「龍村」の袋帯など、少し高価な品物などは、「桐箱」を使う。納品時には、箱の下に「ウコンの風呂敷」を敷き、帯を覆うようにしておく。龍村や紫紘の帯などは、織り出されている図案の名前などが、「箱」に裏書されているものも多い。

 

「小物箱」は、「帯〆」や「帯揚げ」などの「小物類」を持ち出す時に使うもの。こうやって持参すれば、見映えがよく、品物が汚れない。どのような「箱」でもよいのだが、たまたま「呉服屋の道具屋」である、富沢町の「ナカチカ」へ寄った時に千円で売っていた箱があったので、それを買ってきて使っている。

 

今日の道具は、「品物を持ち出す時」に使う「箱」ということでお話してきた。祖父の時代は、「モノを運ぶこと」が大変な時代であった。車やバイクがあった訳でなく、「宅急便」のような「運送業者」がいた訳でもない。

そんな中苦労して、お客様のところまで足を運び、商いをしてきた。だからこそ、それぞれの顧客と「信頼関係」を築くことが出来、それが今現在まで繋がっている。それを、受け継いだ父と私で、守り続けているということになる。

今日の稿は、一通のメールを受け取ったところから、話が始まったのだが、先人の苦労を思い起すことが出来る、よい機会を与えて頂いたように思う。改めて、感謝したい。

 

祖父から言われたことで耳に残っていることは、「呉服屋になれれば、他のどんな商売も出来る」と言っていたことです。それだけ、「呉服」の仕事は難しく、奥が深いという意味で、「心して掛からなければ、上手くはいかない。簡単なものではない」ということを言いたかったのでしょう。

仕事に就いて30年近くなりましたが、祖父から見れば、「一人前の呉服屋」になったとは、とても言ってもらえないと思われます。ただ「平成の世」になって、こんなに「需要」が落ち込むとは、じーちゃんにも想像できなかったはずで、もし生きていれば、どんなアドバイスをしてくれたのか、聞いてみたかったですね。

最初の画像で、「反箱」を「バイク」に乗せてみたのですが、考えてみれば、「御用聞き」のように「お宅へ伺うこと」を基本とする私の仕事の進め方は、戦前の「祖父」の時代における「お客様」との接し方と、共通するところが多いと思います。

「質の良い品物を扱うこと」と「顧客との向き合い方」というものが、時代を越えて受け継がれていることを、改めて感じさせてくれました。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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