土曜日から、急激にブログへの訪問者が増えた。このところ、150人前後で推移していたのだが、200人を超えている。
理由は、「御嶽山の噴火」である。調べてみると、「昭和レトロトリップ」の稿「消えた仙人境・王滝 濁川温泉」の読数が極端に増えているのだ。「グーグル」や「YAHOO」で「王滝」とか「濁川温泉」を検索して、このブログにたどり着く人が多いと思われる。
今度の噴火が、32年前の「長野県西部地震」、そして御嶽山の山体崩壊による土石流災害の記憶を人々に思い起こさせたのだろう。そういえば、あの災害も「9月」だった。
御嶽山の岐阜県側の登山口には、「濁河温泉」が健在。呼び名は、「にごりご」温泉。長野県側の王滝村にあったのが「濁川温泉」で「にごりがわ」と読む。救助された登山者が、岐阜県側へ下ろされれば、濁河温泉へ行き着く。「濁河」と「濁川」を混在して検索された方もおられるのではないか。
「濁川温泉」が消えてから、すでに30年。昔の姿を知る人は、かなり少ない。もともと、ほとんど知られていない、世間から隔絶した秘湯であった。そんな「王滝村」が世間から注視されるのが、また「御嶽」の災害とは、何ともやりきれない気持ちになる。
さて、またまた「今月のコーディネート」が、月の最後になってしまった。明日からは、「袷の10月」。「単衣」に向く品物なので、今回もまた「来年のご参考までに」ということになる。
「普段着としてのキモノ」を楽しみたい方にとって、「価格」というのは一つのネックになる。手間をかけた手織りの品や、草木染の色を求めたいのは山々だが、値段を考えればなかなか手が出ない。
もう少し安価で、ホンモノと「似たような風合い」の品物を探す人もおられよう。特に着心地を重要視する「単衣」の時期の品なら、なお多いのではないだろうか。
そんな訳で、今日のコーディネートは、気軽な価格で楽しむことが出来る「石下紬」の「縮」をご紹介しよう。
(石下縮 変わり菱絣と十字蚊絣)
「石下(いしげ)紬」という産地名に、馴染みのない方もおられるだろう。「石下」は「結城郡」で織られている織物であるため、「石下結城紬」とも言われている。一般の方が品物だけを見れば、「本場結城紬」と「石下結城紬」は見分けがつきにくい。
石下は、本結城同様に、真綿の紡ぎ糸を使用するために、その風合いはよく似ており、仕立ててしまうと、その見た目や、手触りから、どちらが「本場」でどちらが「石下」かわかりにくくなる。
この二つの見分け方は、反物に付いている「証紙」にある。「石下」と「本場」、この二つの組合検査証などの「証紙デザイン」は実に酷似している。そんな中で、証紙で一番見分けやすいポイントは、石下が「紬」印で、本場結城が「結」印が付いているところ。
「石下結城」も広い意味では、「結城紬」の範疇に入るもの(「結城郡」という場所で織られているので)だが、糸の紡ぎ方から、絣作り、織り方の手間など、見た目は似ていても、工程はかなり違う。手間という点からみれば、雲泥の差がある。もちろん、「価格」にも相当違いがある。
だから、「まぎらわしい証紙」ではなく、きちんと「すみ分け」をしたほうが、我々流通に関わる者や、消費者にもわかりやすく、親切だと思える。「本場結城」に似てはいるが、「違うもの」であることを強調した商品提示を、「産地」の関係者は考えるべきであろう。その方が、すっきりする。
そんな訳で石下紬は、最初にお話したように、「安価」に「本場結城」に似た風合いを楽しめる、いわば「気軽」な品物である。つまり、今日のコーディネートのコンセプトにそったものということになる。
今日は、「十字蚊絣」の方を使ったコーディネートを考えてみよう。一見「単純」な絣の配列のようだが、なかなか「仕立て」の難しい品物である。
「石下」は、水戸から西へ50kほど離れた、茨城県西南部にあり、筑波学園都市に隣接している。「石下町」は、2006(平成18)年に水海道市に編入され、同時に常総市となり、今に至っている。本場結城紬の生産地である「結城市」は、石下より北、県最西部に位置し、栃木県小山市と境を接している。
石下の織物の歴史は、この地方で綿や藍の栽培が盛んだったことに始まる。明治30年代に、緯糸が綿、経糸が絹を使った「交織」の織物を作ることに成功し、昭和30年代になると「正絹」ものの生産も始まった。
「石下町」は1896(明治28)年に「結城郡」となる前は、「豊田郡」であった。このことから、「綿と絹の交織」の織物は、「豊田織」の名が付いていた。数年前、紬問屋の「秋場」でこの懐かしい「交織・豊田織」の品物を見たことがある。どうやら今でも、わずかながら生産されているようだ。
この反物の「絣」の付け方を見ると、上の画像でわかるように、「蚊絣の大きさ」が違っていて、中には「絣のない」部分がある。このように、均一な絣模様でない場合は、仕立ての工夫次第で、着姿が変わってしまい、難しい柄付けということが言えよう。
はっきりした「十字蚊絣」と小さな「十字蚊絣」。絣模様に「グラデーション」が付けられているようだ。
石下の原料糸は、「真綿の手紡糸」である。繭を真綿にするところは、「本場結城紬」と同様だが、「糸」にする方法が異なる。「本場」は、「つくし」という道具に真綿を巻き、「人の手」により紡がれていくが、「石下」は、動力を使った「手紡機」という「機械」で糸作りがなされる。(機械で紡がれた糸のことを「手紡糸・てぼうし」と呼ぶ)。まずここに、「手間」の違いが見られる。
この品物は「縮」なので、緯糸には、強撚糸が使われる。1mに1000~2500回ほど「撚り」をかけた糸を強撚糸と呼び、この糸を使って織られたものが「縮」である。(8・8 小千谷縮の水通しの稿を参考にされたい)
強撚糸を使って織り上げられたものを、湯の中で揉むと、「緯糸」が縮むことで、表面にシボが出来る(「シボ寄せ」と呼ばれる)。これで、「縮独特」のサラリとした風合いが生地に生まれる。
「本場結城紬」でも、昔はこの「縮」の生産が大部分を占めていた。現在は、「高級紬」の代名詞ともなっている「平織」が中心で、「縮」は生産全体の3%程度にすぎず、「稀少品」となっている。本場結城縮では、糸に撚りをかける時、「八丁撚糸機」という機械が使われ、糸が切れることを防ぐために、水で濡らしながら作業が行われる。
「石下」と「本場結城」の大きな違いは、「絣作り」と「織り方」の手間にも見られる。「本場」は、絣を作る上で、「絣くくり」という「人の手」による作業が欠かせない。絣の柄の部分に染料が入らないようにするため、絣糸を綿の糸で縛らなければならないのだ。(昨年12・8 藍地120亀甲総絣の稿を参考にされたい)
一方の「石下」の絣は、経糸と緯糸のそれぞれを、「型紙で捺染」していくことで、作り出されている。また、「織り方」も、動力で「杼」を飛ばしながら織られているが、「絣を合わせる」ことには、「人の指」が使われている。という訳で、「石下」の織物は、「本場結城紬」の「地機(じばた)」のように、人の力で糸の張り具合を調節しながら、織られていくような手間とは、比べものにならないほど、「織り」に要される時間は短縮されている。
このように、「作り方」を考えれば、「価格」が大きく異なるのは、仕方がない。「工程」は似ているが、「方法」がまるで違う。極端に言ってしまえば、「人の手」か「機械」かということになるだろう。
ただそうだからと言って、「石下」の品物が「本場」と比較して、極端に質が落ちるということはない。紹介している上の品物は、「単衣」に使うものとしては、「着心地」の大変良いものである。
つまり、作り方を理解した上で、「価格」も買いやすいものであるし、「気軽」に使えるものとして、楽しんでもらえる。「売り手」の方でも、「石下紬」というものを、「正直」にお客様に伝える必要がある。「石下」も「本結城」も「ひとくくり」にしてはいけない。あくまで、「別物」であることを、理解して頂けばよいのだ。
(灰桜色 紬手織八寸無地帯 西陣・杉村)
コーディネートに使ったのは、薄墨桜色とも言うべき、薄い無地帯。キモノがシンプルな十字蚊絣なので、あえて、「色」のコントラストだけで、着姿を作ってみた。
紬糸で、整然と織られているものだが、無地織の中にも、表情が見える。織り手の息遣いが聞こえてきそうな気がする。この帯を製作した「杉村」の創業は、1838(天保7)年。最初の画像のラベルに記載されている「織り人・杉村町子さん」は、「5代目の妻」にあたる。
「杉村」が得意としているのは、「すくい帯」。「すくい」には「紋紙」がなく、下絵を見て選んだ色糸の杼で経糸を「すくう」ことによって織り出される帯のことである。それは、「織り手」の感覚により、自由に糸を入れることが出来ることになる。
この機屋は「家族経営」だが、若い後継者がいる。「自由な感覚」で作れる「すくい帯」は、「若い感覚を表現」するにはまたとない品物だ。他にも、パッチワークの技法を取り込んだり、「バティック」を緯糸に織り込んだりと、斬新な考え方が、「手織」の中に吹き込まれている。
柄のない帯を合わせるということは、「帯でポイントを作る」ことを排除して、「色の印象」だけで、着姿を作ることになる。キモノも小さな絣なので柄の主張がない。「主張しないもの」同士の合わせというのは、「キモノ感覚」というより、むしろ「洋服感覚」に近いのではないだろうか。
これが、「単衣」に使うものとして、「すっきりとしたモダンな感覚」を意識した「合わせ方」だと、使う方に感じて頂ければと思う。
(藤袴色 飛び絞り帯揚げ・加藤萬 薄藤色 ゆるぎ帯〆・野沢組紐舗)
帯地の灰桜色よりすこし赤みのある「藤袴色」の帯揚げと、帯の色より少し薄い藤色の帯〆を組み合わせた。全体から受ける色の印象の「邪魔」にならないような、控えめな小物の色使い。
「柄」を排して、「色」だけを生かすコーディネートなので、「小物」の色がはっきりしてしまうと、そこだけが目立ってしまう。「帯の色」に近い「濃淡合わせ」にしておけば、着姿から受ける印象が変わることはない。
夏や単衣のカジュアルモノというのは、気軽に使うことが出来るからこそ、着る機会が増えるように思う。「気軽に」というのは、「あまり高くない価格」で「求めやすいもの」ということになる。浴衣にせよ、小千谷縮にせよ、手の出しやすい値段だから、普段キモノに縁のない方たちでも、「着てみよう」と思うのだ。
モノの値段は、「手間のかかり方」で付けられているので、廉価のものには、それなりの理由がある。今日取り上げた「石下縮」と「本場結城縮」を比較しても、その違いは明らかである。
だが、単衣ものや薄物として、「着心地が良いもの」であることに変わりはない。前月ご紹介した「能登上布」も、「絣」なら高くなってしまうが、「無地や縞」なら、手の届きやすい価格になる。「能登」の麻の質感は、「縞」でも感じることが出来る。「石下縮」も、十分「結城の風合い」は感じることが出来る。
もちろん、職人の手を尽くした品物が優れたものであることに、疑いはない。出来れば、多くの方に「手仕事」の素晴らしさを実感して欲しいと思う。だが一方、「着たいと思っている方」にとって、その「価格」がネックになっていることも事実である。
一人でも多くの方に、「気軽」に着てもらうには、まず、求めやすい価格のものを考える必要があるだろう。そんな方に、「価格がこなれていて、質の良いもの」を提案していくのも、呉服屋の重要な仕事である。
「紬を中心とする織物類」はとくに、価格の幅があり(上は100万を越えるものから、下は1、2万のものまで)、人により選ぶものが違う。私などは、「キモノ初心者」の方に、初めから高価なものを勧めようとは思わない。まずは、「着やすいもの」で、キモノに慣れて頂こうと思う。お母さんやおばあちゃんの着込んだ紬などが使えれば、それが一番「着やすい」キモノなのである。
ともあれ、カジュアルのものは、「楽しんで」使うもの。「気軽に」ということを頭に置きながら、来年も質の良い薄物や単衣ものを、ご紹介して行きたいと考えている。
昨年の8月、家内と二人で、王滝村へ出かけました。昭和57年5月に濁川温泉を訪ねて以来31年ぶり。昔、村営バスの終点だった滝越地区まで入ってみました。
道は途中から、車がすれ違いにくいほど細い道。旧「柳ヶ瀬」バス停の前には、地震の慰霊碑があります。昔ここから、濁川温泉に入る林道が分岐していたはず。(今通行することは出来ません)。さらに進み、「下黒沢」までくると、立ち枯れした木が屹立する湖が現れます。ここは、地震の前には、王滝川の狭い峡谷だったところ。
あの地震による土石流が、峡谷に入り込み、流れがせき止められたために出来た「湖」。地元では、「自然湖」と呼ばれているようです。現在は、カヌーがおかれ、自然教室のようなことも催されていて、30年という歳月の経過を感じさせてくれました。湖の水が澄んでいるために、湖面に映る木々がそのまま立ち上がっているよう。あまり見られない「不思議な」光景です。
王滝トンネルを抜けると、村最奥の集落、滝越地区。ここの名産の蕎麦を食べて戻ってきました。御嶽から吹く涼風が、何とも心地よく感じられる日だったので、あの災害が、本当に遠い昔のこととなったように思えました。
信仰の山、御嶽と共に生きてきたのが、王滝村の人々。土石流災害から30年がたち、その記憶が薄れかけた頃、今度は突然の噴火災害。秋、快晴の週末ということで、悲劇が増幅されました。自然を予知するということの難しさを、またも思い知ることになってしまったのです。
一刻も早く、「山の怒り」が静まり、まだ見つからない、不明者の方々が、山から下りられることを、心から願わずにはおられません。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。