呉服屋になって約30年になるが、今までに一度も「売ったことのないアイテム」がある。それは、「絽の振袖」と「絽の色留袖」だ。どちらも7,8月に限定される、「夏の第一礼装」として使われる品物。
「売る機会がない」ということは、それを必要とするお客様に巡り合わなかったということになる。同時に、そもそも「仕入れることすら」なく、「扱っていなかった」ということにもなる。
一般的には、ほとんど「需要」の見込めないアイテムなのだが、今でも細々とではあるが作られている。専門店向けの染めメーカー(うちの取引先だと、「菱一」あたり)などでは、「売れるかどうかわからないが、作らなくてはいけないもの」という「義務感」で、「モノ作り」をしているように思われる。
例えば、「絽の振袖」を必要とするような方は、どんな方なのか考えてみよう。今、「振袖」と言えば、「成人式」に使うキモノと一般的には思われているが、キモノの「格」から見れば、未婚女性の「第一礼装」として扱われる品である。単に「成人式用のキモノ」ではないことは言うまでもない。
「未婚女性」の第一礼装として、「夏限定」で使われるものが「絽の振袖」に当たる。おそらく、昔は「夏のお見合いの席」や、自分の兄弟や親族の「夏の結婚式」に列席するような場合、使われたと想像がつく。
もちろん、こんな「季節限定の贅沢な品」を用意された方は、「良家の子女、あるいは深窓の令嬢」と言えるだろう。「絽の振袖」を持っている娘=正真正銘の「お嬢様」という公式は、ほぼ100%成立する。
「振袖」ほどではないが、「黒留袖」に関しても、「絽」を用意する方は「それなり」の方だと言える。キモノの常識から考えれば、7、8月の盛夏に「絽」を使うのは「当たり前」で、むしろ「袷」を着ることのほうが、厳密に言えば「ルール」から外れている。
夏の結婚式は、他の季節と比べて数は少ないが、様々な事情でこの暑い時期を選ぶカップルがある。シーズン・オフのため、「格安料金」で式を請け負うホテルや式場もあり、それを勘案してという場合や、結婚する二人の仕事の都合で、「夏」になったという場合もあるだろう。
では、自分の息子、娘が、「夏の結婚式」を選んだ時、「母親」は何を着るのか。今のことだから、そもそも「キモノ」なんて着ないという人もいるだろうが、もし、昔ながら「キモノ=黒留袖」を使うことを考えた時に、「絽」を使わなければと思う人はわずかであろう。
「貸衣装」では、まだ「絽の黒留袖」を扱うところが、ある程度残っている。だから、「絽を借りなければ」と考える人はいる。しかし、わざわざ「新しく買い入れて」まで、用意する方は「よほどの方」であろう。それは、本来のキモノのルール(季節に応じた品物を使うこと)を「厳密」に守り、「用意するからには、晴れの場に相応しい、自分に似合う柄にこだわり、季節感溢れるものを」という意識がある方に限られるからだ。
「買い入れた」としても、その後使えるのは、身内のものが「夏」に婚礼を挙げる場合だけなので、もしかすると「二度と」手を通すことのない品にもなりかねない。だからこそ、盛夏の「第一礼装」の品を求めることは、何より贅沢であり、かつ伝統を忠実に守るということに繋がる。
今月のコーディネートでは、ほとんど使われなくなった「絽の黒留袖」を考えてみた。一般の方には、あまり「縁のない」品物かと思うが、こんなものもあるのか、と参考にしていただければ十分である。「夏には夏にふさわしいもの」をお目にかけたいという、私の勝手な希望で選んだものなので、お許し頂きたい。
なお付け加えれば、この30年で、「絽の黒留袖」のご用意を承ったのはわずか2回。前回依頼を受けたのは、平成4年なので、もう22年も前である。
(虫籠に秋草模様 絽江戸友禅黒留袖 北秀)
以前、「消える黒留袖」の稿の中で、チラっとだけ載せた品物。このブログに登場するのは二度目ということになるが、そもそもうちで持っている「絽留袖」は、これ一枚だけだ。
夏限定で使われる「意匠」には、「袷」用のものと違い、「季節感」がより強く表現されている。この品に使われている「虫籠」も、「夏」の文様として使われることが多い。特に、「秋草」と並べて使われているものは、明治から昭和初期における「薄物」の文様としては、めずらしいものではなく、むしろ「代表的な夏文様」である。
上前のおくみと身頃、後身頃に付けられている、二つの「虫籠」。
横に丸い太めのものと、楕円のような形のもの、それぞれに「秋草」が添えられている。「紐」で結わえられている虫籠は、何とも「雅やかな」雰囲気を持っている。周りには、浴衣にも使われている夏の草花としてお馴染みの、「撫子」「萩」「鉄線」「桔梗」「菊」の姿が見える。
この品物は、相当以前に、北秀から仕入れたものだが、中の仕事は手描きの江戸友禅であり、丁寧なほどこしを見ることが出来る。刺繍も「鉄線の花芯」や、「菊の花弁と花芯」、「撫子の花の淵」にそれぞれ違う技法の施しがされている。
きちんと「糊を置き」、「色挿し」がされている「本格的な友禅」といってよいのだが、この品物をいくらで買い取ったのか調べてみたら、とても今では「買えないような安さ」で仕入れられている。おそらく「売りにくい絽の留袖」ということで、「北秀」が安く手放したのかもしれない。
この「虫籠」のような、いわゆる「器物」として使われている物を、文様として取り入れられることがある。これに似た形の「夏の器物」として、「提灯」があり、「蛍」と一緒に描かれているものを見かけた。ただ、如何せん「提灯」なので、「虫籠」のように「優雅」な図案にはならず、「格調高い夏の器物」とは言えないだろう。
(桧垣に萩模様 絽綴れ帯 帯の三京)
さて、このいかにも「夏模様」の絽の留袖に使う「夏帯」を考えてみた。一般的には、夏のフォーマル帯として使われるのが、上の品のような絽の綴れ帯や紗の袋帯である。「帯の三京」というのは、織屋ではなく、「買い継ぎ問屋」なので、織られた先は不明である。
金、銀、白だけで、色を付けないシンプルで、あっさりとした、「涼やかな」印象の綴れ帯。「絽」といえども留袖なので、格調は高く、その上なお清涼感あふれる着姿を作ることが大切になる。
前と後ろの帯合わせを写してみた。帯揚げは絽の白、帯〆は夏用で白に金糸使いのものを使えばよいだろう。(お恥ずかしいことに、夏の留袖用の小物が手元にないので、具体的にお目にかけられない)
この帯に付けられた「桧垣文様」は、草花に添えられる文様としてポピュラーなものの一つ。檜の皮で作った「垣根」として、図案に取り入れたものだが、元々は、昔「笠」に組まれて使われていた、「網代」文様と同類の幾何学文様である。これを「木」に見立てたところから、この文様が生まれた。少し大きめの「萩」だけを付けた桧垣は、単純な図案だが、「涼感」を出すには、余計な色や模様が入らない方がよいだろう。
いかにも夏を感じさせてくれる模様同士の組み合わせなので、着姿を見た人にも「爽やか」な印象を与えることが出来るように思う。もちろん「第一礼装」の品物として、それなりの「品格」を出さなければならないが、あまり重厚になり過ぎずに、「軽やかなフォーマル感」になっていればよいのではないだろうか。
この虫籠模様の絽の留袖は、もう「商品」ではなく、夏の店先を飾る「風物品」のような役割を果たしています。お客様の中には、「絽の留袖」の実物を見たことがないという方も多く、そんな方々に「参考」になる珍しい品物と言えましょう。
もちろん品物の質は、丁寧な仕事がされており、「夏」という季節にふさわしい図案でもあります。いつの日か、どなたかにお召しになって頂ければよいのですが、果たしてそんな日がくるのかどうか、全くわかりません。何せ、すでに20年以上、「絽の留袖」のご用命を頂いていないことを考えれば、このまま「お蔵入り」になる可能性も十分あります。
私には跡継ぎがいないので、この品が最後まで残った時には、その行き先を考えることになるかも知れませんね。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。