桜の花 散り散りにしも わかれ行く 遠きひとりと 君もなりなむ (釈迢空・折口信夫)
桜の季節になると思い出す歌がある。「桜の花がはらはらと散りゆくように、君は別れて、遠い人になってしまうのだろうか。」 まさに、「惜別」の歌であり、人と人とが別れ行く、「卒業」という節目の情景を映し出す歌である。
「桜の木」がない学校、というのはほとんどないだろう。卒業の3月、入学の4月、別れと出会いの季節を彩る花として、桜がある。だからこそ、日本人の心の琴線に響く。
毎年春先になると、気象庁から「桜の開花予測」が出され、人々はその訪れを待ちわびる。先週から、今週にかけて全国各地で「満開」となり、今が盛りだ。この「桜前線」に使われる「桜」の種類は、「ソメイヨシノ」。この品種、実はそんなに古いものではなく、江戸期に育成され、明治中期から大々的に植樹されたものである。
「ソメイヨシノ」の「ソメイ」とは、「駒込染井」という地名から付けられたものである。「駒込染井」は、江戸・駒込染井村(今の東京都駒込付近)のことで、この村に住んでいた植木職人により育成された「桜」にちなんだもの。初め、この「染井桜」は、「吉野桜」と同じものとされていたが、調べてみると違う品種だった。
「吉野桜」は「ヤマザクラ」という種であり、この桜こそ、古くから日本人に愛されてきた桜である。桜という花が、この国で「特別な思い」を持って見られた始めたのは、平安期・桓武天皇の頃からとされている。この天皇が、御所の庭の梅の木に変えて、吉野から取り寄せた桜の木を植えた。これが、「桜を愛でる」きっかけになった。
御所では、これ以後、桜の季節になると「花の宴」が催されて、桜を愛でて歌が詠まれ、同時に管絃が演奏された。「ひな人形」の段飾りを見ても判るように、「右近の桜」、「左近の橘」として、この国の春を代表する花となったのである。
では、この「桜」、花の色はどんな色だろうか。一般的には、「ピンク」とか「薄桃色」とか、「白に薄くピンクが掛かった色」と言われている。キモノの地色や柄に付けられる「桜」の色も、大体それに添った色だが、本当の桜の色と比較して、違いはどうだろう。今日は、こんなテーマで話を進めてみたい。
この桜は、甲府市の北部にある「八幡神社」の傍らに咲く「ソメイヨシノ」。この社は、あまり大きくないが、横に小さな公園があり、毎年必ずバイクを止めて見る桜。「花見客」など見かけたこともないが、私のお気に入りの「花見スポット」である。
では、「花の色」を見てみよう。五弁の花弁の基調は「白」であり、付いているかどうかわからないほど、ほんのりした「ピンク」に染まっている。「蕾」では、開いた花に比べて、濃く染まり、特に蕾の先端は、「桃色」のような濃さになっている。
一輪ずつ見る色と、まとまって見る色では、少し印象が違う。やはり、「桜の木全体」では、「白」よりも「ほんのり色づいた薄いピンク」を感じさせてくれる。この「桜色」はどちらかと言えば、「わずかな赤み」のある紫色を薄めた色になっている印象だ。
古来、桜や桃系統の色を表現するために使われてきたものは、「紅花」である。現代で言う「ピンク色」を表す色として、「一斤染(いっこんそめ)・聴色(ゆるしいろ)」とその色を薄めた「退紅(あらぞめ)」があり、「桜色」はこの「退紅」をさらに薄めた色という位置付けになっている。
「一斤染」というのは、絹一疋(二反分)に対し、紅花600gを使い、淡い紅色に染めることである。「一斤(いっこん)」というのは、今の重さで言えば600gのことで、この当時の「重さ単位」から取られたものだ。平安時代には、紅色を染めることが出来る「紅花」と、「紫色」を染めることが出来る「紫根」は、とても貴重な植物染料だった。この両方を大量に使う「濃染」は、高価なものであるため、一般の人々には、使うことの出来ない「禁色(きんじき)」とされており、一部の公家や、高位の者だけが、身に付けられる色になっていた。
庶民が許される「紅花染」の限界の濃度が、この「一斤染」である。つまり、絹二反に紅花600gまでは使うことを許されていたということで、別名「聴色(ゆるしいろ)=許色」の名が付いていたのだ。
(一斤染・聴色に近い色 北秀八掛見本帳「秀美」より)
「退紅(あらぞめ)」は、前の「一斤染」と「桜色」の中間色になる色だが、この「退」の意味は「褪」と同意義で、「褪めた紅」という意味である。この色を染める時には、紅花の搾り滓を使ったという記録も残っているほどだが、平安時代の公式記録とも言える「延喜式」には、「退紅帛一疋 紅花小八両、酢一合、藁半囲、薪三十斤」という正式な染め方が記載されており、一疋(二反)に対し、使われる紅花の両は「小八両(約13g)」であり、一斤染の600gと比較して、ほんのわずかな量であったことがわかる。
(退紅色に近いと思われる色 宝相華紋 綸子色無地)
では、今日のテーマの「桜色」はどんな色なのか。桜色の位置付けは、一斤染>退紅>桜色であり、紅花染めの中で、もっとも淡い色ということになる。
平安時代の記録の中に、「桜色」の染め方に関する記録は残っていない。ただ、「源氏物語」の中に、興味深い記述を見ることが出来るようだ。それは、「光源氏」が宴席に招かれた際、纏っていったとされる直衣の色。まだ遅い桜が残っている季節だったので、「桜の唐の綺の直衣」を着て出掛けたらしい。
この「桜の直衣」は、「表地」が透明な「白い生絹」で、「裏地」が「紅花あるいは蘇芳で染められた赤」であった。この着姿を光が透過して見た時、淡い「桜色」に見え、「なまめきたる」美しさになっていたという。(「吉岡常雄著・日本の色辞典」より)
(桜色に近い色 北秀八掛見本帳「秀美」より)
ホンモノの「桜の花」と上の「桜色」を比較してみると、ほんのりと現実の花に色づいた色は、まさしくこの色に近い。白に近いほど薄く淡く染められた色こそ、「桜色」と言えるのではないだろうか。
(桜色より僅かにくすんむ「桜鼠色」・墨染めの桜色というべき色)
桜の花の「散り際」に見せる色。盛りを過ぎ、少し風が吹けば散らされてしまうような時、この色を感じることが出来る。「蕾」から「散り際」まで、それぞれの色がこの「桜色」にはあるように思える。それは、この花を見る人が、その時々に感じる心の移り変わりを表しているような気がする。
ついでに、この季節に盛りを迎えるもう一つの花、「桃」の花について、簡単に見ておきたい。もとより、全国一の桃の産地である山梨では、「欠かせないもう一つの春の花」である。
この画像は、5日ほど前に写したもので、まだ「二分咲き」といったところ。場所は山梨の中でも一番の桃の産地、甲州市一宮町の桃園の様子。南側の日の当たるほんの一部が、花を開いている。桃の花は、桜よりも一週間から十日ほど遅れて開く。山梨県人は、二度「お花見」をすることが出来る贅沢な土地柄だ。
「桃の色」は「桜」に比べて、かなり「濃厚」なピンク。甲府盆地の東に位置する桃の里を、山側から見下ろせば、「ピンクの絨毯」を敷き詰めたような、あざやかな風景になる。「濃い色」だけに、一層美しい。
「桃」の色は、かなり古くから意識され染められていた。「日本書紀」には、667(天智天皇6)年、「桃染布(つきそめのぬの)」の記載が見え、「万葉集」にも「桃花褐(つきぞめ)の浅らの衣」と詠まれた箇所が見られる。
「桃」は古代の色名では、「つき」と読まれていたようで、その染色に使われていた原料は、やはり「紅花」である。使われる量は、先に記した「退紅色」より、少し多いため、それより「濃い色」になっている。
(「桃色」に近い色 北秀八掛色見本帳「秀美」より)
(「桃色」にやや近い地色の小紋 飛び絞り加工着尺)
控えめな「桜」のあとで見る「桃」の色は、その色の主張の度合いが大きい。同じ系統の色なのに、これほど印象が違うものかと驚く。ただ、日本人の好みとしては、やはり「桜」に軍配が上るようで、「パッと咲いて、あっさり散る」ような引き際のよさと、「薄く、淡い」その色に引き付けられるのだと思う。
最初の歌の作者、釈迢空・折口信夫(おりぐちしのぶ)は、日本を代表する民族学者「柳田国男」の後継者。国語・国文学の研究者、そして、正岡子規の「アララギ」同人として、作歌、選歌者であった。
1920年代に國學院や慶応の文学部教授となり、万葉集や源氏物語の研究をする一方、作風が合わないことから、アララギから別れ、北原白秋らと、「月光」を創刊する。「桜の花、散り散りにしも・・・」の歌は、1930(昭和5)年に刊行された、歌集「春のことぶれ」の中に入っている。民俗学、文学に精通しながら、日本を代表する歌人でもあり、まさに「巨人」ともいうべき人物だった。
バイク呉服屋にとって、「折口信夫」は同じ大学、同じ学部の偉大な先輩であり、まさに、「雲の上の人物」です。入学時にはかろうじて、「おりぐちのぶお」ではなく、「おりぐちしのぶ」と読むことを知っていたくらいのもので、その認識は恥ずべきものだったと言えましょう。
今年もまもなく「散り散り」となる桜の花。学生時代に出会い、その後別れたままになっている人達が、今どうしているのだろうかと、ふと気になりました。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。