一枚のキモノを長く生かす方法として、「染め替え」がある。若い頃気に入って使っていたものが、年齢とともに派手になっていくのはやむを得ない。柄行きをそのまま生かしながら地色を変えて行く技術は、「キモノだからこそ出来る智恵」である。
ただし、「染め替え」にはある程度のリスクが生じ、コストもかかる。この仕事を受ける時は、最初にどのような色に変えるのかという前に、依頼する人が思い描く「キモノ像」というものを伺うところから始めなければならない。
そして、元の品に素晴らしい手仕事が施されてあるものであればあるほど、ことは慎重にならざるを得ない。「染め替え」は、それが生まれ変わったものとして使われてこそ、価値ある仕事といえるのだ。「元のままのほうが良かった」とお客様に思わせてしまったら「失敗」であり、「大いなる無駄」になってしまう。
今日は、そんな「染め替え」の仕事がどんなものであるか、依頼された品物を通してお話してみたい。
(栗梅地色=薄珊瑚地色の染め替え 成竹登茂男 加賀友禅訪問着)
先に述べたように、素晴らしい仕事が施してあるものほど、「染め替え」は躊躇する。今回の依頼は加賀友禅、それも「成竹登茂男」の品である。あまりに「元」の品が良すぎるので、出来れば色を変えずにそのままにしておきたいというのが、正直な気持ちだった。
加賀友禅作家の作品の地色変えというのは、滅多にはない仕事だ。「手を付けたくない最大の理由」は、「地色」の色というものが、作家自身の作品として重要な要素であり、柄の色の施しは、地色を考慮に入れた上で挿されている。だから、その地色を染め替えてしまうことで、作品を「壊してしまう」ことになりはしないかということだ。
依頼したお客様に、そんな私の考えを伝えたのだが、「価値ある品物だからこそ、地色を変えて使いたい」と言われた。「長く使うのに値するキモノ」ということをお客様自身が自覚している。
ここまで言われれば、仕事として受けない訳にはいけない。受けたからには、「失敗の許されない仕事」である。
(柄の中心 上前のおくみ、身頃の近接したところ)
「染め替え」の場合、元の色を抜いて(白生地の状態に戻して)染め返す場合と、色を抜かないで染め返す場合の二通りがある。後者は、「薄い地色を濃い色にする」ケースで使うことのできる方法だ。「元の色が濃い色」の時は、その色が「抜けない=残ってしまう」ことが考えられ、「抜いてみないと」どのような状態になるかわからないというリスクがある。また、コストのかかり方も、色抜きした染め替えのほうが手間がかかり、そのまま色を上からかける方法より高いことは言うまでもない。
単純に無地の染め替えをするだけでも、様々な問題が考えられるのだが、この品物のように「柄」があり、その柄を「そのまま生かす」ということになれば、さらに難しい問題が出てくる。
この「柄をそのまま生かす」というのは、色を掛け直す際、柄部分を「糊伏せ」しなければならないということだ。「糊伏せ」がしてあれば、その部分に染料は入らない。ただし染め方は、全体を「一気」に染めるようなことは出来ず、刷毛で丁寧に引き染めをしなければならない。
この「糊伏せ」という作業が大変なのである。「型染め」のものなら、まだしも(それでも柄の嵩があるものであれば、大変手間をとるが)、この品は全て一人の人間の手で成された「糸目糊置き」であり、微妙で繊細な糸目で表されている。本当は、作った人が「糊伏せ」をすれば、ほぼ「糸目」どおりに柄を隠すことが出来る(それでもかなり難しいが)と思えるが、すでに「物故」されており、そもそもそんなこと(糊伏せ作業)を加賀友禅の作家に頼むことなどできる訳がない。
このキモノの元の地色は「薄い珊瑚色」だった。珊瑚色というのは、柔らかいサーモンピンクのような色を思い浮かべていただけばよいだろう。それが、絹の「生成の色」にほど近いような薄さで付けられていた。お客様の希望は「紫系の濃い色」への染め替えである。前述したように、薄い色から濃い色へ変える場合は、「色抜き」せずに「そのまま上から色をかける」方法が使える。
この方法は、「色抜きした白生地」状態にして色をかけるものと違い、若干元の色に影響されるのだが、「濃い地色」への変更ならば、その影響は少なくてすむ。そして、コストの節約にもなる。このキモノの染め替えは、色抜きせずにそのまま濃い色をかける方法を取らせて頂いた。
問題は「糊伏せ」である。この作業は、新しいキモノを一枚作るのと同様のことと言っていいほど、手の掛かる作業になる。しかも、このキモノの柄行きでわかるように、裾から上に向かい大胆に枝が伸びていて、しかもその枝を見れば、しなやかさを感じるものであり、「人の手」による仕事ぶりがよくわかる。
この「作家」によってなされた、「糸目糊置き」にそって、どこまで忠実に「糊」が伏せられるか、ということが、この仕事がうまくいくかどうかの最大の分岐点である。もちろん「柄の中」に染料が入り込んでしまうことなど許されることではない。これだけ嵩のある柄で、しかも小さく細かく糸目糊を置いてある品だ。一ヶ所たりとも「糊伏せ」を見落とすことがあってはならない。
では、どこまで、「忠実」に糊伏せができたか見てみよう。
拡大した画像をよくみると、「糊伏せ」が完全にうまくいっている箇所と、そうでない箇所がある。例えば、上部の「青い色の葉」をよく見て頂きたい。「葉の輪郭」の「白い」部分が元々の「糸目糊」のあとだが、その「白い」ところがわずかに消えて擦れたようになっており、地色の染料が入り込んだと思える部分がある。このことは、元の糸目部分の「糊伏せ」がほんのわずかにずれたものと考えられる。
「花」部分の糸目は、ほぼ忠実に「伏せられている」が、「枝」の一部に「糸目」の消えているところが見受けられる。糸目より内側の色挿しの部分に地色の染料が入り込むような所は一つもないが、若干の「糸目」への影響は否めない。だが、この「糊伏せ」は「人の手で」成されるものであり、「寸分違わず」というのは神業を持ってしても不可能なことである。これを仕事の良し悪しの許容範囲で考えれば、「誤差」の範囲で収まるものではないだろうか。
このキモノは今から30年前以上前に作られたものである。改めて「加賀の訪問着」として、「晴れやかな席」で使うものに再生された。20歳代で使った品物が、50歳代でも使えるようになったこと、これは「キモノ」だからこそ出来ることだ。すでに「物故」した作家のものだけに、「手を入れること」に躊躇する。しかし、やはりキモノというものは「着て頂いてこその価値」である。「素晴らしい作家」の品とはいえ、「箪笥の中で眠っていたら」その方が勿体無いように思う。
染め替え終えた全体像と「成竹登茂男」の落款。落款部分にも「糊伏せ」をし、消さないようにする。
幸いなことに、依頼されたお客様にとって、満足できる仕上がりになったようだ。仕事の細部をみれば、「完璧」な出来ではなかったかもしれないが、仕事前に伺った「お客様の思い描くキモノ像」に少しでも近づくことが出来たのかもしれない。私もこの仕事に携わった職人さんたちも、お客様の気持ちに寄り添い、再び手を通せる品にするという一点で、協力し合えたのだと思う。
加賀友禅のように、「染」の施しだけで柄が付けられているものは、この品物のような方法で柄部分の糊伏せをしますが、京友禅や江戸友禅のように、「箔や刺繍」が使われているものは、もっと大変な作業になります。
箔の場合は、一度剥がさなければなりませんし、刺繍もそのままにしておくと糸が染まってしまいます。また「胡粉」が使われているところは、色が入っていきません。元のキモノにどんな仕事がされてあるか、で染め替えの手間のかかり方が違い、場合によっては染め替えることの出来ないような品物もあると思われます。
今日、お話させて頂いたように、柄のあるものを「糊を伏せて地色変えする」ことは、依頼される方と綿密なお話をさせていただいた上で、職人さんと相談し、「見積もり」を出してからではないと、お受けすることは出来ません。
リスクとコストのかかる仕事だけに、お客様の「直したい」という気持ちがどこまで強いか見極めることが、一番大切に思われます。
ともあれ、このような難しい再生でも、今であればまだ何とか引き受けてもらえる職人さんが存在します。小売屋は、お客様と職人の間に立ち、双方の話を聞きながら、仕事を円滑に進めていくような役割であることを自覚しないと、「納得できる直し」を続けていくことは出来ません。様々な難しい依頼を考えることは、「自分の経験を積むこと」になり、次の「新たな仕事」を受けることに発展するのだと思います。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。