仕事においては、どんな人にも「新人=駆け出し」の時代がある。大概は、すべてが「初めて」のことばかりで、戸惑ってばかりである。
今は以前より、仕事の上で「困る」ことは少なくなってきたが、それでも迷うことや不安になることは多くある。「経験を積む」ことで、仕事の幅を広げることが必要なことは言うまでもない。今はただ、その「基礎力」がある程度付いたというだけのことかも知れない。
今日のテーマは、私の駆け出しのころの失敗について話そうと思う。「呉服屋」として、ある程度「マトモ」にお客様と向き合えるようになるまで、数々の失敗をし、「恥ずかしい」思いもした。「恥をかく」ことが成長の第一歩であろう。これから、「恥をしのんで」話を進めたいと思う。
今の会社は「即戦力」としての人材の確保に「躍起」になっているようだが、どんな仕事であろうとも、「即戦力」の人材など「求める方」がどうかしている。「駆け出し」の者を「どう育てるか」が企業の力ではないだろうか。その「育て方」で、会社は良くも悪くもなる。人を「即席」として見れば「応用」はきかない。臨機応変なものの考え方をする人材には育たないだろう。
今の社会は「効率」が最優先する社会で、「長い目で」人やモノをみるという視点に欠けている。「欠ける」というより、「罪悪視」しているようにも感じる。だが、「スピードと効率」では求められないものが沢山あるはずだ。人が信用を得るまでには、時間がかかるのは必然だと思う。
昔、「商売をする家」というのは、どんな業種であれ、後を継ぐ者に「手取り足取り」仕事は教えなかった。特に、「呉服屋」などという、「古い形態(徒弟制度の名残があるような)」では、それが顕著だ。
以前にもお話したが、私も「先代」の父親から直接商いを教わったことはない。呉服屋の駆け出しは、まず荷造りを覚え(変則的な「四手紐」という紐の結び方がある)、独特な「呉服札」の付け方や「反物の巻き方」を覚えることから始まる。
鋏の使い方や、裏地の切り方、寸法のこと、紋のこと、それらは、各々の「職人」から学ぶのが最善である。「駆け出し」ならば、「聞く」ことは恥ではない。「知らない方が」恥なのだ。だから、寸法の取り方など、和裁職人の「親方」に聞いたものである。
「伊藤さん」という当時70を過ぎた「和裁士」の方には、色々なことを教わった。この方は、自分でも「内弟子」を取って「人を育てている」方である。仕事を持っていく度に、柄合わせのこと、寸法直しでどこを見ればよいか、などはもちろん、体型によって変わる「キモノの着やすさ」があることも教えてくれた。「マニュアル」というものがなく、その都度自分で考えなければならないことばかりだった。
最初の頃は、かなり「覚え」が悪かったので、そんなことでは、「呉服屋」になれないとよく叱られたものだ。それでも、「教えを請う」ばかりでは進歩しない。それが、実際にお客様と向き合った時に、「生かされるかどうか」である。
お客様にとっては、相手をする呉服屋が「駆け出し」であるかどうかは関係ない。正しく美しく、満足のいく品物になって出来てくればよいのである。つまり、「駆け出し」でも「責任」を負わねばならないのだ。仕事の現場では、「否応なく」失敗は許されない。そして、お客様を前にして、「わかりません」では済まない。
もう25年以上前のことだが、あるお客様に「七歳の祝い着」をお売りした時のことである。「子どものキモノ」でも、当店の扱っているものは、すべて「仕立て」をしなければならない。当然「寸法を測る」必要がある。この時は、まだ不慣れではあったが、「寸法の測り方」はわかっていたはずだった。
子どもの身長は数ヶ月で変わることがあるので、祝い着ならば、9月頃に寸法を測り仕立てをする。「子ども」の寸法を測るというのは、大人の寸法を採る場合と少し違う。大人女性の身丈採寸は主に「長襦袢の丈」を測るときに必要であり、キモノの丈は「おはしょり」があるため、また別だ。子どものキモノ丈は、「肩揚げと腰揚げ」を考えて仕立てるので、測った寸法がそのまま「身丈」となる。だから、それを測り間違えると長すぎれば引きずるし、短すぎれば「つんつるてん」になる。
依頼されたお客様に、出来上がった品を持っていき、納品した。その時はなにも気が付かなかった。11月のお祝いが終わり、手入れを依頼され、キモノを預かりに伺った時のことである。七歳の女の子を囲んで撮られた写真を見せて頂いた。
この時、寸法を「間違えた」ことに気づいたのだ。女の子の足袋の先端より上に「キモノの裾」がきている。もう「足」が見えそうになっているくらい。「寸法」の採り違いは明らかである。見た目でも2寸(6cm)以上の短さだ。
お客様はこのことに気づいていない。そして、「写真」にまでなってしまったので、「取り返しのつかない」失敗である。「子ども」の採寸は、大人と違い、「かかとの下端」つまり、地面に付くところで採らなければならない。それは、子どもキモノには着せやすくするための「紐」が付いていて、それを縛った時に少しキモノが上に持ち上がることと、「草履」を履くことにより、その草履丈分だけ、丈が長くなるからだ。
おそらく、無意識のうちに、「大人」の長襦袢の採寸とおなじように、「くるぶしの少し上」までの寸法を「身丈」にしてしまったに違いない。写真をみれば短いのは、丈だけでなく、「裄」も短い。これは、その時に、「子どもの裄は着丈の半分」と覚えていたことが原因である。だから、「着丈」を間違えれば連動して「裄」も違ってしまうのだ。
私の寸法の失敗を、「気が付かない」お客様に正直に話すべきかどうか、迷った。だが、「キモノのわかる人」なら、写真を見れば、その丈の短さには気が付くだろう。「他の人から指摘」され、お客様が気づけば、「失敗」の上に「それを言わずに隠した無責任」が加わる。「失敗」してしまったことは戻らないが、それを「そのまま放置」することは、それ以上に信用を失うことになる。
そう考えた末、正直に「寸法違い」をお話した。ありがたいことに、「気が付かなかった」お客様は「寛容」な方だったので、お許ししていただけた。折角、お祝いのキモノを新調して頂いたのに、不慣れな「駆け出し」の者による「単純な」失敗により、不恰好な物を着せられてしまったのだ。あとの祭りだが、寸法直しをして、納め直したのは言うまでもない。
このような寸法間違いばかりではない。もっと単純な(基本的な)失敗もある。例えば、「キモノを洗って」と依頼されたものを「洗い張り」してしまったこと。お客様は「洗う=しみを見て欲しい」と伝えたつもりのものを、わざわざ全部トキをして洗い張りしてしまったのだ。
「洗い張り」というのは、よほど「汚れがひどい」場合か、あるいは他の人が寸法を直して使う場合に考えられる仕事。品物を見れば「洗い張り」が必要かどうか判断できるし、元々誰かに譲るなどとお客様から言われていないことを考えれば、間違えることがどうかしている。「しみぬき」と「洗い張り」を混同することなど、今では考えられない。呉服屋として「基本がなっていない」誤りである。
「裄直し」を依頼され、寸法を出すところを逆に縮めてしまったり、キモノの袖丈に合わない長襦袢を作ってしまったり、とても「恥ずかしい」失敗ばかりだった。
最初の3年ほどは、いくつもの「恥」を味わう。ただそれに負けてしまったら、いつまで経ってもマトモな仕事は出来ない。跡継ぎは「嫌だから他の仕事に変わる」という訳にはいかない。継いだからには「のれんを守る」責任があるのだ。逃げ出すくらいなら、最初から継ぐべきではない。
こうやって、曲りなりにもこの仕事が続けられてきたのは、「寛容」なお客様のおかげである。昔からの「おなじみさん」は、「仕事の出来ない駆け出しの者」を何とか育てて、一人前にしてやろうという気持ちで付き合ってくれていた。
キモノの知識において、「売り手」よりも「買う側」の方が上なのだ。本当はこれでは、「商い」にはならない。対等でもだめで、「売り手」のほうが「上手」を行かなければ、お客様に納得していただくような、品物をお勧めすることも、工夫された「直し」の提案をすることもできない。
経験により智恵や知識が付けば、お客様の方でも接し方が変わる。「売り手」の言うことを聞いてくれるのだ。このようになって初めて、「マトモ」なお付き合いといえる。
呉服屋の仕事ばかりではなく、何の仕事にも共通する「失敗」のお話をしました。人間は「失敗」するものです。ただ、失敗を認めることが大切で、「言い訳」や「隠す」事のほうが「信用」を失くすことに繋がります。「正直」なことが何より大切と思います。
長く続ければ、単純な仕事は「慣れ」を感じます。この「慣れ」が一番間違いを起こしやすいのです。「難しい仕事」は慎重になりますが、「機械的」に進める「慣れた仕事」こそ「落とし穴」が出来やすいように思います。
「駆け出し」のことをたまに思い出すのも、「事を慎重に進める」にはよいことです。私は今も、「子どもの寸法」を測るときはかなり「神経質」になり、3回は測ります。昔の失敗が「トラウマ」になっているということでしょうが、これくらい「慎重」になれば、間違えを起さず、これでよいと思っています。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。