私たちの世代では、「一万円札」といえば「聖徳太子」を思い浮かべる。現行紙幣では「学問のススメ」の慶応大学創設者「福沢諭吉」であるが、日本史上におけるその人物の大きさを考えれば、その差は歴然であろう。
それは、「一万円」の価値が今と昔では雲泥の差があることを物語る「象徴」なのかもしれない。やはり「聖徳太子の一万円」は本当に有難味があったような気がする。
調べてみれば、紙幣に聖徳太子が登場したのは古く、1930(昭和5)年、当時の「百円札」として法隆寺の夢殿と共に描かれているのが最初である。その後戦後の1946(昭和21)年には「千円札」、1957(昭和32)年には「五千円札」、そして1958(昭和33)年に初めて「一万円札」がお目見えした際も「その尊姿」が用いられている。
とにかく昭和の時代は、「聖徳太子=高額紙幣の象徴」であった。なお、この頃の千円札は「伊藤博文」、五百円札は「岩倉具視」、百円札は「板垣退助」である。その方々と比較しても「紙幣の格の違い」を見せ付けるような、「重厚な」存在感である。
今日はそんな「聖徳太子」にまつわる飛鳥時代の文様の話をしよう。
「日本で最も古い裂(きれ)」は、飛鳥時代にまで遡り、聖徳太子の使っていたとされる「絣」に行き着く。この存在は、法隆寺の献納宝物の中に見ることが出来る。この「太子の文様」を現代に復元したのは、やはり「龍村美術織物」である。
(太子間道 龍村美術織物 光波帯)
「間道」という名前が付いているが、この柄のモチーフになった「聖徳太子」由来のキレは「間道=縞の織物」ではない。もともとは「絣」である。間道の定義は「縞の織物(縦縞・横縞・格子縞など)」のはずだ。
「間道(かんどう)」の由来は「広東(かんとん)」である。中国広東地方で生まれた絹織物であり、数色に染め分けた経糸と赤系統の緯糸を使い、平織りされた経絣の裂文様のことである。これが日本に伝来し、「間道」と名を変えて広がった。
もともと、この「広東錦」と呼ばれるものの原型は、インドネシアのイカット織などの製法とほぼ同じであり、それは「経糸の絣」を基調にしている。現代でもスマトラやバリ島などでも作られ続けていて、かなり精緻な技術を要するものである。
この「聖徳太子の絣」も「間道」ではないため、インドやビルマなどから中国(隋)や百済を通して伝来したものと考えられる。このような織は、「幡(ばん)」と呼ばれる仏や菩薩を供養したり法要の場所を荘厳にし、供養するために掲げられる旗に見ることができる。
太子由来の絣が何に使われていた(着ていたものなのか、法隆寺に関係するものなのか)は不明である。ただ、この裂の伝来がインド方面からだとすれば「仏教の伝来」とともに中国、朝鮮半島を経由して入ってきたものと推察することが出来る。
太子が生まれたのは574(敏達天皇3)年であるが、仏教の伝来は538(宣化天皇3)年あるいは552(欽明天皇13)年である。この伝来の年には二説あり、前は「上宮聖徳法王定説=聖徳太子の伝記」、後は「日本書紀」の記載から推測されたもの。ともあれ、太子の誕生前に日本に仏教が百済の聖明王より伝わっていたことに変わりなく、「裂」がそれと共に入ってきたとすれば、太子が身にまとったことも考えられる。
「法隆寺」の建立は601(推古天皇9)年とする説と607(推古天皇15)年とする説がある。601年説は、斑鳩に宮を起こし、その傍に寺を建立した記載を基にしたものであるが、法隆寺の「薬師如来像」に、この寺が用明天皇の病気を癒すことが目的だったとする旨が記されており、このことを考慮すれば、用明天皇没後の607年説が有効かもしれない。
この後、推古天皇の下、聖徳太子と蘇我馬子による、画期的な「国づくりの基盤」が整えられていく。603(推古天皇11)年の冠位十二階の制定、604(推古天皇12)年の十七条憲法の制定、607(推古天皇14)年の小野妹子の遣隋使派遣(のち裴世清を伴い帰国)などである。「遣隋使」は600(推古天皇8)年より始まっていて、この頃より、「裂」が中国から持ち帰られたとも考えられる。
「仏教伝来」からの産物にせよ、「遣隋使」からもたらされたものにせよ、このような経路で「法隆寺」までこのインド伝来の「裂」が届いたのである。
文様を拡大したところ。菱文様の中に入っている模様は、中国というよりは、やはり「南方系」のにおいのする「絣」である。現代のインドネシアなどの民族衣装の模様にも通ずる。この文様を「太子間道」と龍村では付けているが、本来は「太子絣」なのではないかと私は思う。
もう一つ、「法隆寺」に残されたものから「太子ゆかり」の文様をみて見よう。
(七曜太子 龍村美術織物 光波帯)
「太子間道」とよく似た文様の中に、「逆V地型」に付けられた七つで一組の白い絣が見える。この文様「七曜太子」は、幼少期の「太子の守り刀」である「七曜宝剣・丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」に刻まれたものに由来して作られたものである。「七曜」とは「北斗七星」のことで、この星は、古来より、「寿命を司るもの」として信仰されていたのだ。
この「七星文」を刻んだ「刻刀」は、法隆寺の金堂にある「持国天像」の手の中にあるもので、それが、「太子」の幼少期のものとされている。なお法隆寺には、このような「七星文」の刻まれた剣が他にも残されている。これは、「呉竹鞘御杖刀(くれたけさやのごじょうとう)」と呼ばれる銅剣で、やはり七星の他に、雲や月などの模様が一緒に刻まれており、この当時に「天文」に関する事象が、信仰の対象になっていた証拠ともいえる。
この「七星」とされる、「七つの絣」を見ると、以前ブログで紹介した「琉球絣」の中に付けられた絣文様と酷似する。「三段引き下げ(ミダンヒチサギー)」と名づけられている絣なのだが、考えてみれば「沖縄」の絣文様も元はといえば、「南方の文様(インドネシアやインドなど)」から強く影響を受けたものであり、文様の「繋がり」を感じる。そして、「沖縄の絣」の中にも、「月」や「星」を意識して形づくられたものがあることから、人が「文様」を作る上で、何を発想し、どのような意図で出来上がったのかその「共通点」を探る時、非常に興味深いものがある。
このような法隆寺に伝来する御物は「正倉院」に納められていた。「正倉院」と言ってもあの「東大寺・正倉院」ではなく、「法隆寺・正倉院」である。少し違和感があるかもしれないが、飛鳥から天平期にかけて、「南都七大寺」と呼ばれる大きな寺院は、それぞれ「正倉院」と呼ばれる「蔵=保管庫」を持っていた。
もともと「正倉」は「物品の保管庫」の意味があり、律令時代には、徴収された米や物品を集める「政府の倉」であった。それが、仏教の広まり(国家の保護)の下、権力を強めた寺が、その寄進された品や集めた文物、宝物を保管しておく場所を「正倉院」と呼ぶようになったのだ。
ただ、天平期に東大寺が建立され、「鎮護国家のシンボル」になった以後、東大寺以外の「南都七大寺(興福寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺」の「正倉院」は廃止され、宝物は「東大寺・正倉院」に集約されることになった。
先に少し述べた、「七星文・呉竹鞘御杖刀」の銅剣も、法隆寺から東大寺に移管されたのだが、764(天平宝字8)年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(聖武天皇の皇后・光明皇后から信任を受けた藤原仲麻呂が、孝謙天皇や道鏡と対立したことで反乱を起こした事件)の際に正倉院から持ち出され、現存するのはわずかに3本である。
次回はこの続きとして、法隆寺の隣にある「中宮寺」の宝物にまつわる「聖徳太子」の文様の話をしたい。
「日本書紀や続日本紀」は大学の授業でよく講読されていたのですが、内容が理解しにくい上、まったく興味を持てず、本当に嫌だった記憶があります。飛鳥から、白鳳、天平、弘仁・貞観と続くこの時代の資料としては、やはり第一級のものであり、もう少しマジメに理解しておくべきだったと今になって反省しています。
文様を知ることは、それが、どのように伝わり、何に使われてきたのかを知ることであり、それが、その時々の国の形や社会と深く関っているとも言えましょう。呉服に限らず、ありとあらゆるモノに使われている文様=模様、図案を調べてみると思わぬ発見があるように思えます。「身の回りの柄」に少し興味を持っていただくと楽しさも広がるのではないでしょうか。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。