バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

コプト文様とスキタイ文様 異文化が伝えるもの(1)

2013.10 18

「大学で日本史を専攻していた」というと、お客様から「やっぱり呉服屋さんらしいのね」などと言われることがある。

普通の跡継ぎであれば、「染織史」などを学んで、後々の仕事に役立てようとするだろう。しかし「呉服屋」になることを「毛頭」考えていなかったために、主に私が研究していたのは、「蝦夷探検史(松浦武四郎について)」や「戦前の新興宗教弾圧について」という、一般の方にはほとんど「訳のわからない」代物で、今の仕事には何の役にも立っていない。

「キモノや帯」の文様には「歴史やその裏付けとなる事象」があるが、「染織史」に関しては「素人同然」のため、一から勉強する必要がある。だから「日本史専攻」といえども、「全く呉服屋さんらしくない=全然駄目」ということになる。

今日は、日本の伝統衣装である「キモノや帯」の中に見られる「文様」が、どのような「異文化」を伝えているか、例をあげながら見てみよう。私も本来ならば「こういう勉強」を若い時にしておくべきだったと、今になって思う。

 

(黄土色コプト文様紬八寸帯 帯屋捨松)

まず、「コプト」とは何ぞや、というところから話を始めてみよう。「コプト」というのは、簡単に言えば、「エジプトにおけるキリスト教徒」という意味なのだが、よく調べてみれば、それは、単純に「キリスト教徒」とひと括りには出来なさそうである。

キリスト教がエジプトに入ってきたのは、プトレマイオス朝がローマ帝国により滅ぼされた後の、AD(紀元後)30年頃のことである。プトレマイオス朝はアレキサンダー大王の死後マケドニア人によって作られた王朝で、代々「ファラオ」と呼ばれる王により支配されていた。

もともとエジプトという国は、「宗教には寛容」な国であった。長きにわたって、「古代エジプト宗教」が信仰されていたが、キリスト教が「ローマ国教」になる以前に、迫害されて逃れてきた伝道師や信者を、当時の首都アレキサンドリアに匿っていた。このことが、プトレマイオス朝後、急速にキリスト教化する遠因になる。

ただし、「キリスト教」をそのまま受け入れるのではなく、従来の「古代エジプト宗教」と融合した形にして、信仰を始めたのである。古代エジプト宗教は単一のものではなく、様々な神がいて、地域や職業によって「崇める神」の種類が違っていた。いわゆる「多神教」である。「多神教徒」であるからこそ、「キリスト教の神」も自分達の信ずる神と「同列」に扱った。

つまり「コプト」というのは、「古代エジプト教とキリスト教」が「融合されて」出来た宗教であり、「純キリスト教」ではない。どう考えても「多神教徒」が「一神教徒」となることには、当然「無理」があり、コプト教徒が「古代エジプトの神殿」を「教会」として使っていたことや、「エジプト語」で祭礼が行われていたことからも、「コプト教」という「独自」の宗教だったことがわかる。

「コプト教」はキリスト教の「教え」を受け入れながらも、「古代エジプト」を捨てなかった。このことは、「コプト文様」の模様を見ても察することが出来る。

例に挙げた上の「帯」の画像を見て頂こう。「古代人」や「鳥」、そして「太陽或いは星」と思われる文様で構成されている。このような模様は「キリスト教」の影響というより、「古代エジプト」や「ギリシャ神話」を彷彿とさせるものがある。「キリスト教」を意識させるならば、「十字架」や「鳩」などが代表的な「模様」であろう。

それぞれの模様を拡大したところ。これぞ古代エジプトの「コプト文様」といえる柄行きである。

「コプト」の衰退は、ローマ帝国により4世紀末に「古代エジプト宗教」が禁止されたことと「時を一」にする。これは、宗教だけでなく、自らの国の「過去」を否定することであり、「文化」、ひいては独自の「文様」が消えていくことに繋がったのだ。5世紀からの「コプト文様」は変容し、「十字架を思い起こさせる金章紋」などが多く見受けられることからも、そのことがわかるのである。

 

この帯を作ったのは、西陣で洒落た帯と言えば「ここ」と言われる「帯屋捨松」。この「コプト図案」を使うのには、少しだけ「勇気」が必要だったかもしれない。それは、あまりに「あからさま」というか「大胆」な模様の配置のことだが、こうして改めてみると、「ユニーク」であり、「微笑ましくもある」模様になっている。そして、地色の「黄土」色に合わせた柄の色の使い方が「絶妙」である。特に、「褐色」で表された「古代エジプト人」は、まさにイメージに「ピタリと合う」色使いではないか。この帯を「泥系の大島」などに合わせて使えば、実に面白い組み合わせになるだろう。(下の画像のような感じである)。

 

さて、ついでにもう一つ「コプト文様」をご覧頂こう。

(コプト甲冑異文 二つ折り財布 龍村美術織物)

「龍村」は様々な文様を、「帯」と言う形の上で「図案」として使っている。よく知られているのは「正倉院」に伝来した「裂地」(名物裂)の中の文様の復元である。この伝来の古裂は、遣隋使、遣唐使や渡来人たちによって、大陸よりもたらされたものだ。「大陸」ということは、それがシルクロードの遥か先、「オスマン=トルコ」や「ペルシャ」や「エジプト」からの伝来したものが多く含まれているということになる。

上の「コプト文」は「プトレマイオス朝」でよく使われた「円と四点」の連続した古代模様である。つまり、これも「古代エジプト」を表した文様ということが出来、「コプト教」を信仰した人々が、従来の「エジプト」の文化を捨てていなかった「証拠」ともいえるのだ。

 

この「名物裂」をモチーフにしたものは、「光波帯」と呼ばれる仕立て上がりの名古屋帯や、テーブルセンター、バック類など小物にも多く見られる。上の例も「財布」にあしらわれた文様だ。龍村は「名物裂」以外にも、「フランス貴族が愛用した文様」や「古代アッシリア」などに伝わる文様も復元している。それが、それぞれ「デザイン」としてあか抜けた美しい模様になっていて、「名物裂」とはまた一味違った「しゃれ感」のあるものになっている。

 

「スキタイ文様」は、「龍村」が取り入れた「名物裂」以外の「裂」であり、「光波帯」を使ってそれを見ることができるのですが、「コプト文様」で話が長くなったので、また次回、この続きとして書こうと思います。

「異文化」を伝える文様は、やはりそれぞれがその国が持っている歴史、風土、宗教そして侵略された経緯などが何層にも絡み合い、今に伝えられるものでありましょう。「柄行き」を通して「異国」を知る、また学ぶということは楽しくもあり、それが、日本の「伝統衣装」の上に再現されている「不思議さ」を知ることにもなるのです。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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