昨日の夕方18時頃より、本日の18時まで、サーバーの不具合により、このブログページの閲覧が出来なくなっていました。ここにアクセスされた方々には大変ご迷惑をおかけしました。ようやく復旧しましたので、記事の更新を致します。
読んでくださる方の中には、バイク呉服屋があまりにも「あからさま」に業界の「悪事」を書くので、「ブログが抹殺されたか」と思われたのではないでしょうか。昨日記事を書いている最中に「サーバーダウン」したので、私も「チラリ」とその事が脳裏をかすめました。まあそんな訳もなく、今まで書いてきた稿も無事だったので、一安心しております。改めて、今日から「仕切り直し」のつもりで、これからも様々なお話をさせて頂くので、どうぞよろしくお願いいたします。
「野分のまたの日こそ、いみじうをかしけれ」。とは有名な清少納言「枕草子」200段の冒頭の一節。
先日の被害を目の当たりにすれば、「いみじうをかしけれ」などとは、まことに不謹慎である。被災された方々には、心よりお見舞い申し上げたい。
「二十四節気、雑節」の中の「二百十日」と「二百二十日」は農家にとって「厄日」とされてきた。これは、「立春」を起点として、210日目(今年は9月1日)と220日目(9月11日)の頃が「天候が悪くなる」と、古来より言い伝えられてきたものだ。この「厄日」から農産物を守るため、「風祭り」という祈願を今の時期に行うところも多く見られる。
「野分のまたの日」の段の少し下に次の記述がある。「大きなる木どもも倒れ、枝など吹き折られたるが、萩、女郎花などの上によろこばひ伏せる、いと思はずなり」。
大きい木や枝が秋草の萩、女郎花の上に倒れているのが「思いがけないこと=めずらしいこと」と言っている。おそらくこの様を「風情があること」と捉えているに違いないが、「平安人」が現代の様を見たとき、果たしてこんな情感を持てるかどうか甚だ疑問である。
今日は、「野分」の通り道でもある「八丈島」の織物の話をしよう。
時代劇に出てくる町娘の衣装を思い浮かべて頂きたい。大概黄色と黒の「格子縞」模様のキモノを着ていることが多いと思う。この色と柄は、「黄八丈」独特のものである。
この衣装が使われているということは、「江戸時代」に町の娘たちに流行したものということに裏付けられていることに他ならない。
黄八丈の歴史を辿ると、室町時代の「八丈絹」に行き着く。国学者である「本居宣長」の「玉勝間」にその記述があり、「貢納品」として、為政者に納められていた。当時は「白無地」か「黄無地」に限られており、「樺色」と「黒色」の糸を使ったものや、「縞」や「格子柄」といった今に伝えられるものは、江戸期になってからである。1713(正徳3)年、幕府「お納戸役」から柄見本を渡されたことが契機になり、様々な「縞や格子」柄が織られるようになったのだ。「正徳」というのは、「新井白石」による「正徳の治」の頃である。
幕府が持ってきた「柄の見本」は「永鑑帳」という年貢見本帳の記載に残っている。この帳面に記載されているものの中には、今の時代でも参考にされ、織り続けられている品がある。
江戸時代に「黄八丈」が町娘の間で流行したのには理由がある。それは、江戸後期の1775(安永4)年、材木商の白子屋庄三郎の養子、又四郎の妻(お熊)の不義密通殺人未遂事件(お熊忠七事件)を「浄瑠璃」の題材にして、「大ヒット」したからである。
妻の「お熊」が手代の「忠七」と密通し、夫の「又四郎」を殺そうと企てたのだが、失敗して捕らえられた。そして「お熊」が「大岡越前」の裁きにより、「市中引き回しの上打ち首獄門」の刑に処される。その時「お熊」が着ていたキモノが「黄八丈」であった。何だか、テレビドラマの「大岡越前」の脚本になりそうな「すじ立て」である。このことが、「江戸市中」で「黄八丈」がもてはやされるきっかけになったのだ。「時代劇の町娘の衣装=黄八丈」というのは、このような「背景」があって採用されているのであり、調べてみればおもしろい。
「黄八丈」の基本色は三色。「黄」「樺」「黒」である。糸はそれぞれ異なる植物から採られた「草木染」。柄行きは「絣」のものはなく「縞」と「格子」が基本である。織り方は「平織」と「綾織」、いずれも「手織り」で織られている。
紹介するの品は「綾織」の「丸まなこ」と呼ばれる織り方で作られている。色を見て頂くとわかるが、「黒」というより「墨色に近いグレー」と「黄色」が使われている。今日はこの二色に染められた糸、「草木染」の話をこれからしていく。
そもそも「草木染」とはどのようにして、「糸に発色」させるか、ということをまず考えてみよう。「糸染め」は植物の葉や枝や幹の皮などを煮出して、糸に付ければ「発色」するという「単純」ものではない。ただ「色が出る」ということだけであれば、確かにそうなのだが、これでは、「色」があまり出なかったり、均等にならなかったり、すぐ色落ちしてしまったりと、これだけではとても「織り糸」として使えるものではない。
そこで、「植物の色」を発色させ、落ちにくくするために使われるものがある。これが「媒染液」である。「媒染」とは植物の色素と金属イオンを結びつかせることにより、色を発色させたり、色落ちしにくくさせることを言う。
最初の植物の葉や皮などを煮沸し、煎じた溶液に糸をつける工程のことを「フシヅケ」といい、その後の「媒染液」を使って「発色」させる工程のことを「アクヅケ」という。この二つの工程を経て「糸染め」が完成するのである。もちろん「色」により「使う植物」も違うし、「媒染液」も違う。
黄八丈には、「染色者」と「製織者」名が記載されている。糸を染めたのは「西條吉弘」さんで、織ったのは「山本ユキカ」さん。
今、黄八丈の「糸染め」をするのは、この「西條吉弘」さんただ一人になってしまった。「織り手」はまだ50人ほどいるそうだが(平均年齢は70歳近い)、肝心の「草木染」をする人がいない。だから「黄八丈」が年間に生産できる量は限られたものになってしまっている。
先ほど述べたが、糸を染めるのには大まかに分けても「フシヅケ」と「アクヅケ」という工程を踏まなければならない。だが、その前に植物を採取するという作業もある。そしてその前には、植物自体を「育てる」という仕事もある。それは気の遠くなるような手間なのだ。
まず黄八丈の代名詞「黄色」の発色から見てみよう。「フシヅケ」に使われる植物は「刈安(イネ科のコブナクサ)」だ。これは割りとどこにも見られる野草である。この草を秋の始めに刈り取り乾燥させる。そして束にして「煎じる」。この「煎じた汁」に糸を漬け込むことを「フシ(黄フシ)」という。この「黄フシ」を20回ほど繰り返す。この後がもう一つの工程の「アクヅケ」である。
この「黄フシ」された糸の「媒染液」は、木を燃やして出来る灰を水に溶き、そこで出来る「上ずみ=アク」を使うのだ。燃やす木は何でもよいということはなく、「椿」や「榊」の葉を使う。このアク=灰汁をフシヅケされた糸にしみこませることで、あざやかな「刈安色=黄色」に発色することが出来る。
では、「黒」はどうやって発色させるのだろう。「フシヅケ」に使われる植物は「スタジィ(ブナ科)」と呼ばれる木で、これも八丈島では、広範に見ることができる。この木の樹皮を乾燥させて使うのだ。この乾かしたものを水を入れ7時間ほど沸騰させ、煎じる。煎じた時に出るカスは捨てずに乾燥させ、焼くときに使った灰と一緒にこの煎じた液の中にいれかき回す。その中に糸を漬け込むのだ。
この漬け込まれた糸は、乾燥と漬け込みの作業を10回ほどくりかえす。(一晩漬けて一日乾燥)。つまり、フシヅケのこの部分の工程だけで10日かかるということだ。
10日間で仕上がった「フシヅケ」のあとは「アクヅケ」の工程である。「黒」の場合は「沼ヅケ」という作業である。これは、この名の通り「沼」から採ってきた「泥」による染付けなのだ。「沼」には、「鉄分を多く含んだ泥」がある。この鉄分を「媒染」の材料(金属イオンの溶媒)として使うのである。
糸を泥水の中で1時間弱浸し、しばらく寝かせておく。そして、いったん引き上げて川の水で洗った後、乾燥させる。このあと再び「フシヅケ」の工程に戻り、例の「煎じた液」の中に漬けて干す作業を5回くりかえす。つまり、泥による「アクヅケ」のあと、5日間の「フシヅケ」に戻るのである。そしてそれは再度「泥」の中にくぐらせられ、また「アクヅケ」される。
今日紹介した品の「墨色」に染める時は、この泥による「沼ヅケ」は1回であるが、「黒」の場合は3回繰り返される。この「アクヅケ」の回数は、糸の状態を見ながら調節されるのである。
ともあれ、ここまで書いているだけで、気の遠くなるような作業である。「西條さん」はこれを一人で完結させているのだ。「草木染」と一言でいうのは簡単だが、これを「受け継ぐ」人が果たしてこれから現われるかどうか、「黄八丈」が織物として存続できるかどうか、まさにそこにかかっていると言えよう。もう一つの色「樺色」があるが、この説明はまたの機会にしたいと思う。また、「織り方」も合わせてその時にお話したい。
「黄八丈」に似せた品に「秋田八丈」があります。これも「草木染」であり、「ハマナスの根」を原料にしているものです。この品は「滑川機業」というところがただ一軒生産を続けていましたが、平成15年に廃業して途絶えてしまいました。それが、この織元で働いていた奈良田登志子さんという方により、最近復活したようです。この工房は北秋田市(旧鷹巣町)の「秋田八丈ことむ工房」といいます。
秋田八丈は黄八丈同様に縞や格子柄で色使いも「黄」「黒」が中心になっています。その色使いは、本場のものより少し「落ち着いた色合い」になっています。もちろん使われている「植物の原料」が異なるためであり、当然「フシヅケ」「アクヅケ」のやり方も異なります。
「草木染」はこうしてそれぞれ「千差万別」な手法をとりながら、その手間を惜しまず作られ続けてきたのです。「自然と共生」しながら、また、その季節や気候を勘案しながら進められてきた仕事といえましょう。まさに、「木と土と風と共に生きる」生き方だと思います。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。