このまま、「呉服屋」として人生を終えるのか。違う「生き方」を考えるのか、まだ迷う。50歳を過ぎて、何をと思われるかも知れないが、まだ結論が出ない。
せっかく、「人生」という時間を貰ったのだから、「自分の思うとおり」にしたい。自分勝手は承知の上でだが、「悔い」は残したくないと思う。
「家族」も「仕事」も大切だが、それだけに「埋まりたくない」というのは、自由を知ってしまった「バックパッカー」の反動だろう。
(草原の河の畔に遊牧民の姿が見えた 満州里行の車窓から)
大興安嶺は中国、モンゴル、ロシアに接する広大な山脈をかたち作る。その長さは1300キロにも及ぶものだ。この山脈の中には、多くの「少数民族」が住む。「オロチョン族」、「ダウール族」「エベンギ族」など、いわゆる「北方民族」といわれる人たちである。古くは、「匈奴(きょうど)」「女真(じょじん)」「契丹(きったん)」「鮮卑(せんぴ)」とそれぞれ名前が付いていた。「世界史」の教科書で、お耳にしたことがあるだろう。特に「女真族」は「金」という国を作り、「漢族」に大いに恐れられていた。そんな民族の「故郷」がこの「大興安嶺」である。
(馬車を引く農夫 大興安嶺の麓の村)
(峠に差し掛かる 山脈の沿って進む鉄路の連なりがわかる)
峠にさしかかると、家の姿はない。上の画像のように、荷馬車をひく光景が見え、どこかに「住んでいる」と思われるのだが。また「自動車」を全く見ない。列車はどんどん高度を上げ、あえぐように登る。気が付かない間に「機関車」が「蒸気」に変わっている。「煙」がどんどん窓に入ってくる(冷房の設備がないため、窓は開け放し)。日本では、昭和50年にSLが廃止されていたが、大陸では、まだまだ現役であり、その雄姿を見ることがこの時代出来たのだ。今考えれば、こんな「汽車」は「夢のような」列車である。
(伊列克得駅に近づく列車)
(上 大興安嶺を下りた駅 伊列克得 下 蒸気に引かれた満州里行列車)
「伊列克得」は大興安嶺の内モンゴル側の麓駅である。峠の真上(この駅の一つ前)に「興安」という小駅がある。そこで、一旦列車が停車する。この「浜州線」は「複線」であるが、この駅で、上り列車(満州里発ハルビン行)と行き違う。そして、麓へ下り始めるのだ。わかりにくいが、列車の画像で「蒸気」機関車が牽引していることが見えると思う。
大興安嶺の西を走り、幾つかの低い丘陵地帯を越えると、数時間の間見なかった町が現われる。いつしか、町は街に変わり、列車内で降りる準備をする人が大勢いる。「ハイラル」に近づいたのだ。ハイラルは、内モンゴルの入り口、主要都市である。ここから、各方面に鉄道、道路が出来ている。私も本来なら、ここで降りて、北部中ソ国境である「北安から黒河方面」に向かう計画だった。だが、「黒河」は「未解放区のリスト」外で、外国人立ち入り禁止であり、あきらめざるを得なかった。「黒河」は「ウスリー川」をへだてて、対岸のロシア「ブラブォべェスチェンスク」と接し、その昔、中国とロシアで国境線を定めた「アイグン条約」の策定地であった。
(草原へ向かう鉄路 ハイラルー満州里間)
(やがて、こんな草原の風景が現われる)
ハイラルの街を出ると、すぐに「草原」の風景が広がる。ようやく来たのだ。思い描いてきた「茫漠たる大地」が目の前に広がり始めた。遊牧民が羊を操り、馬に乗る姿や遊牧民の家「パオ」も草原に点々と散在している光景。空に溶け込むように、どこまでも草原が続いている。「本当に来てよかった」と思う。今ならきっとこんな風景は、「ネット」を検索すれば、動画や画像で堪能することができるだろう。だが、この時代「リアルに行かなければ、感じることができない」景色だった。その姿は、自分の想像を越えた「雄大でスケールの大きい」ものであった。
列車はいつしか、何本もの引き込み線のある構内へ入り、終着駅満州里に近づいた。この街は国境の町、ロシアからの貨車も目立つ。ゆっくり、スピードを落としながら、蒸気機関車が己を癒すように止まった。時刻は4時少し前である。
(満州里の町並み 外国人招待所・満州里賓館の階上から)
駅に着くと、例の「未解放区許可証」を提示しなければならない。そして、案内員の到着を待つ。泊まる場所は「招待所」と決まっている。この頃「未解放区」へ個人が行く場合、自由に泊まる所を探す訳にはいかなかった。そこまでの「自由」はまだ与えられていない。だが、街を歩くことや、希望の場所への案内人、通訳を雇うことは認められていた。
私は「国境」への案内を頼み、「ホロンバイル草原」とそれに続く湖「呼倫湖(フィルノール)」へ行くため、「モンゴル語」を理解する「通訳」を雇うことにした。内モンゴルでは、「漢語・中国語」より「モンゴル語やロシア語」が中心表示として使われており、どうしても通訳が必要であった。
(草原からソ連国境を見る 遠く見える山々はソ連領ザバイカル地方)
残念ながら、国境を写した画像はない。当時「国境」を撮ることは、「禁止」されていた。もし見つかればフィルム没収くらいでは済まなかったであろう。それというのも、その頃の「中ソ」は「社会主義の路線対立」により、「良好な関係」とは言えなかったからだ。だから、「両国の国境」は「緊張」したものだった。そんな所で、「日本人」がカメラを向ければ、「スパイ」を疑われることになり兼ねない。それこそ「帰国すること」が危ぶまれるのだ。
そんな訳で、国境付近の案内は満州里市の外事課の職員に頼んだ。その課員からもきつく「写真不可」を言い渡されたのだ。私は仕方なく、ソ連が遠望できるような、国境を意識出来る場所へ行くことを頼んだ。それが、上の画像である。草原の向こうにみえるソビエト。古い画像のため、わかりにくいが、実際には、かなり近くに見えた。ついにこんな所まで来てしまったことを改めて実感した。
(フィルノールへ続く、ホロンバイル草原の一本道)
この後、内モンゴルの大草原から広大な湖「フィルノール」へ向かうことになりますが、その話はまた次の機会にしたいと思います。これまで使った画像はいずれも28年前のもので画質は劣化しており、そのままの風景を感じていただけなかったかと思います。どうぞご了承ください。
3日にわたって書いてきた「満州里」への旅。もうすでに30年近くが過ぎようとしていますが、「茫漠たる草原」の印象は強烈でした。そして、あまりにも遠い所へ行ったため、時間の感覚を失ったような覚えがあります。
私の旅の計画を、東京で奔走してくれた「小さな旅行社」に勤めていた女性は、この数年後「真冬の満州(氷点下20℃以下)」へひとり旅立ちました。「バックパッカー」の好奇心(無茶ぶり)は、計り知れないものがあります。(幸い無事戻りましたが)。
何かに「挑戦」する見返りは、とても大きいものがあります。それは、行き着くまでの苦労があればあるほど感動は増幅するといえましょう。いつか、また命あるうちに、挑んでみたいと思います。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
なお、今週は夏休みのため、ブログの更新もお休みにします。次回は20日(火)の予定です。