「画像や映像」による情報を持たない、ということが、未知の土地を訪ねる時大切である。人の「想像力」を掻き立てることが、「旅のモチベーションを上げる」ことに繋がるからだ。
何の先入観も持たず、ただ「思い描く」こと。「知らないこと」は素晴らしいことだと思う。
「情報」が必要以上に発達してしまった今、それを望むべくもない。「情報」は「人の感性」を鈍らせることに繋がる。「利便性」と「感性」は相容れない気がする。
(ハルビンー満州里 浜州線・夜行直快列車)
今日は、「満州里」までの道の「本編」。「辺境パスポート」を手にした私は、「どこへ、いつ行くか」という選択をしなければならなかった。「内モンゴル」は、やはり、少し大陸に慣れてからいった方がよいだろう。そう考えた。
個人旅行が認められたことは、「ありのままの国」を知ることが出来るということに繋がる。それは、乗る列車やどんな座席に座るかということでも、如実に表れてくるのだ。普通「ツアー」等で、「中国の列車」に乗るような場合、その席は必ず「一等車」を用意される。それも「特快=日本では特急」に限られる。そんな席に座る中国人やモンゴル人は「上層階級の限られた人物」でしかない。つまり「本当の人民」の姿にふれることが出来ないのだ。
ここで中国の列車の種類と等級を書いておこう。種類は上から、特快・直快・快客・客(日本で言えば、特急・急行・快速・普通)の順だ。等級は軟臥・軟車・硬臥・硬車(一等寝台・グリーン座席車・二等寝台・普通座席車)の順である。普通「外国からのお客様」は、「軟=やわらかいところ」つまり居心地のよいところしか乗せられない。切符を個人で買うようなことはなく、旅行社がすべて「手配」してくれるのだ。
外国人が「個人で切符を買う」ということが、どれほど「大変」か。大陸に渡り、まず最初に直面した問題がそれだった。大きな駅には、「外国人用」切符売り場がある。だが、そこでは、「軟臥や軟車」の切符しか売ってくれない。普通の人達に触れ合おうとすれば席は「硬臥・硬車」でならなければならない。とすると、「普通の中国人やモンゴル人」と同じように、「切符」を買わねばならないのだ。
この「普通」に買うということが、「至難」の業であった。特に遠距離切符(特に硬臥)の席をとること、これが大変なのだ。まず、出発一週間前から売り出すため、あらかじめ日程を決めておいて、「駅の売り場」へ行く。もちろん「大勢の人達」と同じように「並ばなくては」いけない。その「並んでいる人数」たるやものすごいものだ。どこからどこまで「並んでいる」のかもわからない。列の最後尾が確認できない。途中でどんどん「割り込む輩」が大勢いる。
ハルビンー満州里間の「硬臥車の切符」を取るのに、実に一週間もかかってしまった。毎朝6時にハルビン駅に行く。もう売り場は「喧騒状態」だ。3,4時間並んで、やっと窓口にたどり着き、希望の行き先、列車番号と等級を書いた紙を渡す。駅員はたった一言「メイヨー(ありません)」。それで終わりである。これを2.3日繰り返せば「かなりメゲてくる」。かの大陸の国で、普通の人と同じようにすることがどれだけ大変か、嫌というほど思い知らされた。
(ハルビン キタイスカヤ 石畳の大通り)
ハルビンは黒龍江省の中心都市である。上の画像(30年前のものなので、かなりお見苦しい代物である)をみればわかるように、「中国やモンゴルらしからぬ」街である。「石畳」が敷き詰められた通りは、「モダン」な感じがする。その理由はハルビンがある時期「ロシア」によって行政が司どられた時期があるからだ。
それは満州里まで乗ろうとしている「鉄道」と深く関る。この鉄道は「東清鉄道」とよばれ、1900年代初頭、ロシアと旧満州を結ぶ路線として敷設されたものである。当時、清国が日清戦争に敗れ、「下関条約」で遼東半島の領有権を与えた。それを「三国干渉」により阻止したのが「ロシア」をはじめとする列強である。その「阻止」した見返りとしてロシアが要求した権利、それがロシアから満州北部に繋がる「鉄道敷設権」だった。
1904年にこの鉄道は完成するが、この建設の際、多くのロシア人がハルビンに居住し、次第にその中で行政の権利を主張するようになる。当然「清政府」と軋轢が生じたが、弱体化した政府に「ロシア」を押さえる力が乏しく、次第にロシア人による街作りが行われるようになったのである。
だから、ハルビンの街並みは、この当時の「ロシアの街並み」に酷似していたように思う。大陸やモンゴルの他都市とは明らかに違う「モダンさ」があったのだ。ハルビンは日本人にとっても聞き覚えのある街であろう。それは、1909(明治45)年、当時の朝鮮総監だった「伊藤博文」が朝鮮人「安重根」によって暗殺された場所が「ハルビン駅」であったからだ。
(ハルビンは松花江という河の畔にあった。この河は北へ延びアムール川となる)
直快131次満州里行は夜の9時11分、ハルビン駅を出発した。これから935キロを約19時間かかって、ソ連との国境の町満州里に向かう。途中、「大興安嶺」を越え、内モンゴルの草原の中を走り抜ける、起伏に富んだ道のりが用意されている。ようやく、ここにたどり着いた。後は、列車からの車窓を楽しもうと思った。
17,8両の客車が繋がれている。先頭はディーゼル機関車だが、途中から「蒸気機関車(SL)」の牽引が見られるかもしれない。車内は予想通り「大変な状態」だ。これまでひと月の間乗ってきた「硬臥車・硬席車」がそうだったように、大量の荷物を抱えた人達が「デッキ」に溢れている。「硬臥車」は「三段ベット」で「指定」されているが、「寝台券」を持たない者達が、通路で寝転んでいるのだ。ちょっとの目を離した隙に、「ベットに寝てたりする」。荷物の中に「アヒル」を持ち込む者までいて、どうにも収拾がつかない。車掌である「服務員」が乗車時に「切符確認」をするのだが、通路はとても通れるような状態ではない。だから、無茶苦茶な乗客たちは、ほぼ「放置状態」なのだ。
乗車とともに、早く「ベット」に横になりたいのだが、周りの人がそうさせてくれない。「硬臥・硬座車」に「外国人」がいることが「ありえない」のである。それも「日本人」なのだ。すでに、発車前から、周囲の視線を感じる。もうそれには大分慣れた。列車に乗るたび、「いつも」そうなのだ。そして、「筆談」での「会話」が始まる。
長距離列車の車両には「給湯器」が付いている。そして、「ポット」があちこちに用意されており自由に使うことが出来る。私が日本から用意したもの、それは、「煙草」と「松茸の味お吸い物」と「粉末コーヒー」である。大陸の人達は、自分が「煙草」を吸うとき、周囲の人にも「勧める」。私は「愛煙家」なので、その勧めに応じることで、「会話」が始まる。
日本の「煙草」を勧めてみる。「コーヒー」や「松茸の味お吸い物」も試してもらう。煙草とコーヒーは概ね好評だが、「松茸の味・・・」はすこぶる「不評」だ。あの微妙な「ダシ」の味が理解できないのかもしれない。
そんな何でもないことから、話が始まる。話題は「日本」という「国」がどんな国なのかということが中心だ。戦後荒廃した国土からわずかの間に「先進国」の仲間入りをした「日本」。私は「ウォークマン」を用意し彼等に聞かせてみる。「日本のはやりうた」だ。彼等が「松任谷由美」や「中島みゆき」を理解するとは思えないが、何を話すより、「日本の進んだ電化製品」と「日本の音楽文化」を「体験」してもらうのが、一番わかりやすい。30年後の今日、中国がこれほど変貌するとは、当時夢にも思えなかった。彼等の一様ならざる驚きが今でも目に浮かぶ。「ウォークマン」は一晩中車両の中を駆け巡っていた。
「旧満州」は、日本人にとっても、中国人にとっても、ある意味触れるのが「忌避」される場所だ。だが、列車に乗ると日本語ができる人が「少なからず」いる。特に当時の60代以上の人は、ほぼ「日本語」を理解できるのだ。そんな老人達も私に対して「直接」戦前の日本に対する「憤り」を語ることはなかった。ただ、「日本語」が話せるという意味は何かを考えれば、自ずとどのように接したらよいかわかる。
日本による「満州支配」それは「皇民化政策」という同化政策である。日本人と同じ言葉、同じ価値観、同じ宗教(神社崇拝)そして尊皇。「日本語を話せる」のはそんな戦前の「産物」だ。「満州国」は「五族協和」のスローガンの下に建国された国である。「五族」とは日本、中国(漢)、蒙古、朝鮮、台湾である。しかし、実際は日本がすべての実権を握った「傀儡」の国。
ごく一般の中国、満州人と話す時、このことは「自覚」しておかなければならない。私は戦後生まれであるので、「実際」を知らない。しかし「日本」という「国」がしたことを理解しなければ、こういう旅は無理だ。年配の人と話をするとき、この「自覚」があると、相手を「思いやる気持ち」が生まれる。もちろん私が「昔の日本」について、改めて「謝罪」するようなことはない。だが、「平和を求めること」や「二度と戦争をしない」意識は、言葉のはしばしに出て来るものなのだ。
「侵略した方も、された方も」お互いに相手の気持ちに添うことが重要だろう。「思いやる気持ち」は言葉があまり通じなくても、必ず伝わるのだ。これは、1985年当時、この旅を通して「確信」したことだった。今のこじれた「日中関係」を見るに付け、改めて思う。「経済的な(お金のやり取り)」だけで両国を発展させていこうとするのは「限界がある」。「発展的互恵関係」、いわゆる「ウインウインの関係」なるものに相手の心に寄り添う気持ちなどなくてよい。両方とも「儲かれば」いいのだ。これでは、いつまでたっても「本当の良き隣人」にはなれない。
だから「歴史」を見つめることが、とても大事だ。そして、「ネット」などの仮想空間(相手の見えない所)での「罵り合い」は不毛のことであろう。30年前ひとりで「満州」をさまよった私には、両国の民の心は「寄り添う」どころか、決定的に離れてしまったように見える。悲しくて仕方ない。
横になる間もなく、喧騒に包まれた夜汽車の夜があける。6月のことで、朝が早い。4時前にはすっかり明るくなった。列車は大興安嶺の入り口に差し掛かっている。
(朝の刺麻山駅 小さな村の駅舎。興安嶺に近づく)
(これがホーム。どこからどこまでが駅なのかわからない)
田舎のホームに止まると、どこからともなく現われるのが「物売り」。近隣の農家から、色々なものを持ち込む。また「手製弁当」も売る。列車に食堂車はあるが、遠くていけない。またひどい「混雑」で行く気にならない。だから、みんな物売りから「弁当」を買うのだ、飯の上に野菜と肉を炒めたものを「のっけた」だけのもの。それが「5角」、約30円。私も買う。とにかく「バックパッカー」は体が資本だ。「生水」には注意するが、あと、何を食べても大丈夫である。これは、基本である。自信がない者は「旅に出れない」。弁当の他に「まくわうり=スイカの一種」や「ひまわりの種」を近くの人から「おすそ分け」してもらう。一夜ですっかり「仲良く」なれるのだ。
本編を一日で、というのも無理でした。「紀行」を書いているのに、時代背景や歴史に話が飛ぶため、進みません。ただ、「満州」という土地がどんなものかということを知っていただかなくては、「内容」を理解して頂けない気がします。
明日は大興安嶺からモンゴルの草原へ、そして「終着駅、満州里」まで書きます。何だか、「世界の車窓から」のようになってきてしまいました。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。