茫漠とひろがる大草原に行く、と決めたのはいつだったのか。もう、覚えていない。
子どものころから「地図帳」を見るのが大好きだった。日本ばかりか、外国の地名を見て、その地形などから、どんなところだろうといつも「想像」していた。インターネットが普及した現在と違い、「情報」というものがない時代である。
「バックパッカー」になった理由は、そんな子ども時代の「習癖」からだと思う。「旅立つ」理由は、「想像」の延長にある場所を見たいという素直で、単純な好奇心である。
「満州里(マンチュウリ)」を知ったのは中学生の時だ。日本が戦前、傀儡政府として作った国、「満州国」。中国東北部の広大な土地を我が物とし、「満蒙開拓団」を始めとする「移民政策」により、新たな「日本」として組み入れられた場所である。その西のはずれ、「ソ連」との国境の町が「満州里」である。「地図帳」で見れば、中国大陸の奥地、モンゴルの草原が広がり、途中には「大興安嶺、小興安嶺」の山々を越えていかなければたどり着かない。その先は、「シベリヤ」の曠野が果てしなく待っている。いつか、必ず行こう、と決めたのはそんな「想像」の果てのことであったと思う。
(ホロンバイル草原の遊牧民 内モンゴル自治区・新バルグ右翼旗)
しかし、現実には、そこにたどり着くまでの「困難」がどのくらいあるか、ということを知らずにいた。今回の「むかしたび」は、「満州の果て」に行き着くまでのお話をすることにしよう。長くなるため、今日の序編(旅立つまでの話)と明日の本編(実際の紀行)の二回に分けて書くことになるが、お付き合い頂きたい。途中で飽きてしまうかもしれないが、ご勘弁願いたい。
(満州里郊外の鉄路 中ソ国境へと向かう)
私が満州・内モンゴル行きを決めたのは、1985(昭和60)年春のことだ。決めたのはいいが、出発までに、様々な情報をできる限り入手しようとしたのだが、ほとんど「わからずじまい」であった。そして、調べれば調べるほど、「行くことはほぼ不可能では」と思わせるような問題が数多く出てきた。
当時の中国は、文化大革命時に失脚していた「鄧小平」が復活し、「改革開放政策」の途についたばかりであった。外国との自由貿易も、まだほんのごく一部の都市(上海周辺)で行われて始められたばかり。また、「海外からの観光客」の受け入れも、有名な一部の観光地を巡る「ツアー」がほとんどであり、「個人が自由にどこへでも行ける国」にはなっていなかったのである。
当時、中国政府からの「招聘状」がないと、「個人旅行」は無理だったのだ。これが、解決できなければ、何も始まらない。また、クリアできたとしても、「個人に解放している町」があるかどうかわからない。もしかしたら、「日本人」であるがゆえの、「行くことの出来ない場所」は数多くあると思うのが普通である。
しかも、私が行こうとしている場所は中国東北部(旧満州)と内モンゴル、しかも中ソ国境や辺境である。ここは、中国政府にとっても、ある意味で「忌まわしい場所」であり、「日本の侵略戦争」を想起させる、「触れさせたくない」地域に違いない。そんな「微妙な地域」を「個人が勝手に歩けるのか」と。
1981(昭和56)年冬、中国政府はようやく、戦後の日本政府との「長年の懸案」だった、「中国残留日本人孤児」の問題を解決すべく、初めての「訪日調査」を行った。「この孤児」たちの存在は、ほとんどが、「満蒙開拓団」や「満州国に新天地を求めた者」たちが、終戦の混乱(昭和20年8月11日のソ連参戦などによる)の際、その「子どもたち」を「やむにやまれぬ事情の中で」、中国本土や旧満州地域に置き去りにしてきた結果、生まれたものであった。
山崎豊子による「大地の子」を読むと、「残された孤児」と「育ての親である中国人」の「葛藤」が克明に描かれているが、日中両政府にとって、この問題を解決しなければ、「戦後が終わらない」また「正常な国家間の関係に戻れない」というものだったと思う。
当時日本から「満州」へ行くことの出来る人は、中国政府から「公式」に認められた「墓参団」や「残留孤児調査団」がほとんどである。「個人」が自由に歩いたような、「旅行記」や「経験談」など、探してはみたものの、皆無に等しく、あったとしても「限られた都市」を訪ねた「都市の様子」でしかない。
この時代、世界に旅立つ「バックパッカー」達が参考にしていたガイドブックは、「地球の歩き方」である。当時の「中国編・地球の歩き方」で掲載されていた旧満州の都市は、「大連」、「瀋陽」、「長春」、「ハルビン」の四都市であり、記載内容も「町の中心部の観光案内」の域を出ないものだった。
「誰にでも行ける都市」にしか行けないのなら、「行かないほうがまし」である。私の「満州行き」は困難を極め、半ば諦めかけた頃、この計画を相談していた人から連絡が入った。彼女は北海道時代の友人であり、東京の小さな旅行社に就職していたのだ。
彼女に頼んでいたことは、「中国政府からの招聘状」を入手できるかどうか、確認してもらうことであった。小さいながら「旅行社」に勤務しているため、その業界間の「ツテ」を辿って、「中国の情報を持っている旅行社」を紹介してもらい、なんとか、「招聘状」を手に入れようと考えたからである。
「招聘状」は何とかなりそうだ、という連絡だった。そして、「個人旅行」であるからこそ、「訪ねられる場所」があるという、貴重な情報もくれたのだ。当時中国政府は、「外国人に見せてよい場所」と「見せられない場所」をはっきり区分けしていた。「見せてよい場所」は「大都市と有名観光地」である。「見せられない場所」とは、「政治的問題があるところ、また軍事関係施設があるところ、また対外関係で刺激したくないところ・例えば国境地帯等」だ。
中国国内のほとんどが「見せられない場所」と考えてもよい。例えば「政治的問題がある所」には、「一般農村」なども含まれる。まだまだ、中国が「発展途上国」であり、国民が「貧しい」時代である。そんな時に豊かな「資本主義国」の旅行者に、そんな姿は、「見せたくない」のだ。だから、国として「化粧」をした場所以外は、「不可」なのである。
今も昔も「ツアー」の旅行者は観光目的である。たとえば、北京であれば、万里の長城や紫禁城を訪ね、中国料理を堪能するといった具合だ。だから、大手旅行社の「観光パンフレット」に掲載されている所以外に興味を持つこともあまりない。「バックパッカー」の目的はその国の「ありのままの姿」、言い換えれば「掛け値なしの国情」を感じ、理解することにある。それが出来なければ、旅立つ意味はないのだ。
「個人」だけが訪ねられる場所とは、何なのか。それは「未解放区」のことだった。「未解放区」とは、本来なら「行けない場所」だが、「個人の申請の仕方、あるいは理由」により、許可できる所だった。これは、現地に行って「申請」しなければ、何ともいえないが、「可能性」はあるのだ。ただ、私が希望する「中ソ国境地帯」や「満蒙開拓団の入植地」が認められる確率は、相当低いだろうとのことだった。
この情報は、私にとって一縷の望みとなった。私はもともと「ノー天気」な性格である。あまり後先を考えない、無鉄砲なものである。そして、「旅立ち」を決意した。彼女には、「招聘状」の準備と「片道の航空券の手配」を依頼した。後は、中国政府とどう「交渉」するかだ。「未解放区」がどの地域、どの場所にあるのか、それさえもわからないままだが、とにかく挑戦してみようと、ただそれだけだった。飛行機のチケットを渡してもらう時、「ほんとに行くの?、帰って来れなかったら私のせいだよね。」と彼女は言った。そんな事はない、自分が行きたいから行くだけなのだ。
1985(昭和60)年5月22日、土砂降りの雨が東京には降っていた。成田14:30発、中国民航、上海経由北京行きに搭乗し、満州・内モンゴルの旅が始まった。帰る日を決めぬ、一方通行で、「退路を断って」の旅立ちであった。
北京に着いた翌日から、北京の外務省外務部外事課へ通い始めた。「どこで申請を受け付けるか」ということは、東京でわかっていた。だが、「役所」の場所がどこにあるのか、ということがわからない。情報をどこで得るかということから始めなければならないのだ。私は大学の第二外国語の選択が「中国語」であったという程度で、「中国語」に堪能であった訳ではない。話すことは無理で、書いてあることが何とか理解できるというくらいのものだ。だから、簡単に中国人に聞いて場所を探すという訳にはいかなかった。
この旅にたくさんの「お金」を持って出たのではない。だから、泊まるところも、「安宿」を探す必要があった。当時の通貨レートは1元=100円以下だったと思う。だから、10元以下(1000円以内)で泊まれる場所を見つけようとした。そして探したのが「ドミトリー」といわれる「宿」である。ここには、世界中の「バックパッカー達」がいた。私のような日本人や、欧米人が大勢泊まっていたのだ。そこで、ひとりの日本人と知り合った。彼は、私と反対で中国南部への旅を模索していたのだ。確か「昆明」から、国境を越えてベトナムに行くと言っていた。彼はもちろん「未解放区」のことを知っていて、その申請をしたところだったのだ。
「政治的背景」が申請者になければ、案外簡単に「認めてくれる」と教えてくれたことで、「希望の光」が見えた。ただ、「軍事施設」があるところは、「難しい」し、「鉄道がないような辺地」は申請する人がいないらしい。また「未解放区リスト」があり、その中から「選択」するようになっているが、そのリストが頻繁に変わるらしいとのことである。
「外事課」の事務所を訪ねると、「申請」する人はまばらだった。彼に申請方法は聞いていたため、手続きの仕方はスムーズにいけた。やはり、「未解放区リスト」が存在していて、そのリストにない場所は「誰であれ」行くことができない。「リスト」の横には、日付が入っていて、その意味を問うと「リスト」に入った時期だという。
リストに掲載されている場所は200くらいあったと思う。端から、ゆっくり見ていく。そして、第一の目的地である、「旧満州や内モンゴル方面」の地名を探す。とそこに、「満州里」の地名があった。日付は、85、4(つまり1985年4月)。まだ、リストに入って二ヶ月も経たない。幸運であった。
私が目指したところ。その第一は、国境の町だった。西は「満州里」、北は「黒河」と「綏芬河」、東は「虎頭」である。そして、満蒙開拓に関わりの深い場所の「牡丹江」や「佳木斯」「鶏寧」、また、内モンゴルの草原への入口「ハイラル」や「興安」などを目的にしていたのだ。
リストに入っていたのは「満州里」以外に、「牡丹江」と「佳木斯」「ハイラル」の4か所だった。私はこの4つを申請した。そして、3日後許可が下りた。許可証が発行され、それには、「パスポートの番号」と「申請者の生年月日、名前、許可場所」が書き込まれていた。これがないと、「目的地まで」の「交通機関の切符」を買うことができないほか、その「未解放区」の役所での手続きが出来ず、「泊まることもできない」というものだった。この「許可証」は私にとって、「辺境へのパスポート」だった。
今日はくしくも、8月11日。1945(昭和20)年のこの日、当時のソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し(ヤルタの密約による)、一斉に満州に攻め込んだ日。この対日参戦が、広島・長崎の原爆投下とともに「ポツダム宣言受諾・無条件降伏」を受け入れる最大の要因になりました。
政府の「国策」として、「満州」へ渡った「移民」。その結末は「悲惨」なものでしかなかったのです。28年前の「満蒙への旅」は、私が「日本人」であるという意味を改めて、歴史の淵を辿りながら、考えさせられることになった旅でした。
「平和」や「不戦」をどう認識するべきか、「侵略された側の満州人」が戦後どのように「日本人」を見ていたか、ということを「身を持って」体験することができたこと、それは、ありのままの姿や本音を聞くことが出来る、「バックパッカーの旅人」でなければ出来ない貴重なことでした。
「青年は曠野を目指す」という言葉の通り、「無謀」とも思える旅を終えた後、私に残ったものは、何にも変えがたい充実感でした。
今日も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。明日、本編を公開します。