ファッションに「ルール」というものがあるのだろうか。たぶんない。何をどんな着方で、どんなコーディネートをしようと個人の自由である。
それは洋服であれ、キモノであれ「身につける衣装」という意味では何ら変わりはない。キモノが「民族衣装」であり「伝統に則ったもの」であっても例外ではない。
これは、キモノ=ファッションとする、大きなひと括りの中での考え方であろう。私はこの考え方に全く「同意」しない。だが、「否定」をすることもない。「やりたい方はどうぞ」と思う。同意する業界人や、小売屋、また消費者も沢山いることだろう。そして、昔の呉服屋とは別な視点に立って商いをするものが今はほとんどである。
私の呉服屋としての考え方は、かなり「保守的」だ。「伝統的」な「もの創り」を守り、「長く一つの品物に向き合うこと」で、「職人」の仕事を維持し続けることを第一義とするという、相当「堅苦しい」考え方である。当然扱う品物に関して、また売り方やお客様との関り方についても、「曲げられないこと」がある。
呉服屋の仕事の向き合い方として、「ならぬものはならぬ」という考え方であり、「利益」を出すのが経営者の本分だとすれば、ある意味それに「逆行」する生き方かも知れない。
今日は「振袖」というものを通して、私のような教条的「保守派」と、現代に沿った商いをしている「現実派」の違いを書こうと思う。これは、どちらが「正しい」生き方かという主張をするものではない。「呉服屋の商い」の考え方の違いを、このブログを読んでくださる方に感じていただければそれでよいのだ。どちらの考え方を選ぶかは「お客様の自由」である。
「流行」というものに対して、どのように考えればよいのか。現実に「成人式」で着用されている「振袖姿」を見ると、私の目からみれば、ほぼすべて「同じように」見える。それはどこから来ているものなのだろう?
「振袖」が単一的な作り方の「インクジェット」による「染め方」で出来ているからか。同じような「造花」の飾りを髪や帯に付け、変則的な帯〆や帯揚げの結び方によるものか。はたまた、キモノと帯、小物類の「色のコーデイネート」が、従来の考え方と「かけ離れている不思議な取り合わせ」のせいなのか。
色は違えど柄は違えど、「印象」が変わらないのだ。もっとも「同じように見える」ことが「悪い」ことではないのだろう。若い方にとって、「皆と同じ」が一番安心できるからだ。
このような「摩訶不思議な振袖ファッション」が、世の中を席巻していることが、単なる「流行」と言えるかどうかわからない。ただ、これは、私のような「保守派」にとって見れば、いい悪いは別として、「ただ驚く以外にない」ということになる。
面白い事例を挙げてみよう。これは、某老舗百貨店の売り場でのことだ。この百貨店、「呉服屋」を前身とした店で、「呉服売り場」には、「たたき上げの呉服部長や社員」がいて、それは、それなりの知識や接客を身につけた人たちである。
夏になれば、どの百貨店でも「浴衣」を売っていこうとする。今では「呉服売り場」は大概上の階にある。特に「老舗百貨店」ならば、「普通の売り場」の他に「特選売り場」を設けてある。ただ、「浴衣シーズン」になると、「若い女性」をターゲットにする「浴衣売り場」を1Fに特設するのだ。
この「浴衣売り場」で売るものは、従来の「伝統的浴衣」(竺仙に代表されるような)ではなく、色もデザインも作り方も旧来の常識を「無視」したものである。つまりは「洋服感覚」で色を染められ(赤、黒、モスグリーンなど涼やかな色でないもの)、柄は何でもあり(伝統柄や、日本の花・和花に拘らない)。そして、仕立て上がりの「プレタ」。
これが、「呉服売り場」の「知識ある社員」では、まるで「売れなかった」のである。誰が売ったのか?といえば「呉服のことを全く知らない」若い女性の新入社員である。
つまりどういうことを言いたいかといえば、伝統的なものという意識を排除した品物を扱うには、キモノの色や柄の知識等、「呉服屋として持っていなければならないこと」など何も役にたたないということである。
このことが、「振袖ファッション」にもそっくり当てはまる。どのようにして作られているかということに関心がない。というより問題にしていない。それは品物を選ぶ時、若い娘さんたちがそれぞれもっている「色の感覚」と「柄の感覚」が何より重要で、旧来の呉服屋の小難しい「能書き」などは、まったく意味を為さないのである。
だから、「振袖販売に力を入れる呉服屋=現実派」はいかに「視覚的」に若い女性に受け入れてもらうかを考える。手っ取り早いのは、「カタログ」や「振袖ブック」というものを送り付けて、選ぶ「参考」にしてもらうことだ。
そして、「コーディネート」することに「経験に基づく知識」はいらない。というよりむしろそんなものがあれば「邪魔」になるだけだ。「造花」を付けようが、「真珠まがいのクサリ」を付けようが、「何でもあり」なのだ。もちろん「帯の結び方」や「帯〆、帯揚げの結び方」などに「ルール」などありようはずもない。そういうことを、「いとも簡単に」飛び越えてしまえるのである。
もちろん、「面倒くさい」ことを一切排除し、「着付け」「前撮り写真」のサービスはもちろんのこと、全てのものをふくむ「一式セット販売」が定着し、「わかりやすさ」を前面に出す方式がとられている。だから、この方式には、旧来の「呉服屋」ばかりか、「写真屋」や「貸衣装屋」、はたまた、まったく関連のない「異業種」から参入するものもいる。はっきり言うと、「ノウハウ」さえ掴めば「誰でも出来る」商いといえよう。
現実に「振袖の商い」のほとんどがこのような形で行われているため、「売り上げを上げる経営」を最優先として考える呉服屋は、ほとんど同じやり方で、振袖対象者にアプローチしてゆくことになる。なぜなら、「一般消費者」に購入を呼びかけられる対象の商品が「振袖」以外に見つからないという現状があるからだ。
「成人式には振袖」という消費者の意識があるうちは、このやり方が変わることはないだろう。また、業界少数派の保守的呉服屋は、「一般消費者」に「振袖」を売ることをあきらめてしまっている。これはいけないことで(私もそうだが)、積極的に「自分の考え方」を説明して、お客様の「振袖購入」につなげることに労力を割こうとしないのである。
今まで述べてきて、「保守派」と「現実派」の違い、それはやはり、「呉服屋としての分別」にあると思う。私は、「変えてはいけない」ことがあると思う。「品物の作り方」や「挿し色」、「小物の使い方」「コーディネートのやり方」など挙げ始めたらきりがない。これは、全ての呉服屋がということではない、あくまで「私は」である。
少し考えて欲しい。「黒留袖」や「色留袖」「訪問着や付下げ」など「フォーマル」としての「キモノ姿」に、この「摩訶不思議な振袖」と同じような「着せ方」や「髪型」や「飾り物」が「通用」するだろうか?あるいは、若い方が将来、「紬」や「小紋」のようなカジュアルの着物に関心を持ち、「自分で着よう」とする人が出てくるだろうか?
キモノにはキモノにしかない柄や、色や作り方がある。それを少しでも理解していただくことが大切ではないか。それにより、洋服とは違う「上品さ、優美さ、華やかさ」などがあり、色合わせにも着方にも一定の「ルール」がある。それを「勝手に解釈」して「変えてしまうこと」はすなわち「キモノの分別をわきまえない」ことに成りはしないだろうか。それを知らずにいたら、本当の「民族衣装としてのキモノのよさ」を理解してもらうのは不可能であろう。
若い方のキモノの入り口である、「ゆかた」「振袖」を選ぶ際に、「面倒な伝統的なこと」を排除したまま、「売ること最優先」で商いをしてしまったら、いずれその「ツケ」が業界として廻ってくるだろう。この先、現状のように、利便性や効率重視の(手管最優先)の販売方法が蔓延し、モノの見方や扱いが、若い方の「感性」によるものだけに「迎合」してしまったら、それは「民族衣装としてのキモノ文化」の終焉になるだろう。
さてここまで読まれた方、どちらを容認しますか?キモノはファッションであり、「姿」として変わり行くものであるということを認める「現実派」か。それとも「ならぬものはならぬ」という「保守派」か。選ぶのは消費者、着る方であり、「正解」はありません。
最後に、一つ事例をあげましょう。今年の成人式で、うちの娘が着ていた30年前の振袖を見て、同級生の「男の子」たちから、「他の子と違うなァ~、どこかほっとするよなァ~」とほめ言葉?にあずかったそうです。娘は普段とても「地味」な子なのですが、「大勢の子と違う振袖」の「違和感」を見極めたのでしょう。「伝統的なもの」を見分ける力は、誰にもあるものなのだ、とつくづく感じてしまう出来事でした。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。