例年より二週間ほど早い梅雨明けである。
甲府の気温は昨日も今日も38度を越え、灼熱地獄の始まりだ。長年、バイクに乗っているとわかるのだが、35度を越える日は「靴が溶ける」ような感覚がする。
お客様から預かった品や納品するモノは、必ず「少し厚手の木綿風呂敷」に包んで、荷台に括る。強烈な日差しで運搬中に「ヤケ」を起こしたら、それこそ元も子もない。
外気は「熱さ」でたまらないほどだが、今日の話はなんとも「お寒い」呉服屋の現状についてである。
年頃の娘さんを持つ方からよく受けるご質問がある。それは、「喪服」を作る必要があるかどうかということだ。特に「結婚」が決まった娘さんの「花嫁道具」として、相手先へ持たせるべきか、否かの相談は、「呉服屋」として悩ましいものだ。
普通「呉服屋」としては、「何はともあれ、買っていただく」ことを前提にお話するのが基本であろうが、果たして現状を考える時それでいいのだろうか。「使いもしないものを売る」ことに私は抵抗がある。
お読み頂いている方に思い浮かべて欲しい。最近参列された葬儀で、「喪服」を着ていらした方がどのくらいおられたかということを。おそらく「喪主」(女性の場合)または喪主の奥さんか、故人の娘さんあたりが着ているくらいが一般的であろう。
私も仕事柄、葬儀に参列することは多い方だと思うが、最近では「喪主あるいは喪主の近親者」が「キモノ」を着ているケースは半分ほどと思われる。場合によっては一人もお召しになっていない葬儀もめずらしいことではない。特に50歳以下の方はキモノを着ていないことが多い。また「夏の葬儀」になると「キモノ着装率」は「冬」の半分以下に下がると思われる。
(一越ちりめん冬喪用石持・菱一 八ツ手模様黒どんす八寸帯・紫紘)
(駒絽夏喪用石持・菱一 連山模様立絽八寸帯・紫紘)
50歳から上の年齢の方は、「お嫁入り道具」として「キモノ」を持ってきた世代である。なぜそう言えるのかということがわかる資料をお示ししよう。
まず「京友禅生産調査報告書」という資料を見てみよう。これは「京友禅協同組合連合会」が京友禅の年間の生産反数を各年度ごとにまとめたものである。1970(昭和45)年から2010(平成22)年までの40年間の統計によると、生産のピークは1971(昭和46)年で、その年の生産反数は何と「1650万反」である。その後1977(昭和52)年に「1000万反」を割り、1984(昭和59)年に「500万反」を割る。
さらに1997(平成9)年に「200万反」割れ、2001(平成13)年に「100万反」割れ、この資料の直近の2010(平成22)年にはついに「51万反余り」に落ち込んだのである。ピークの1971年を100とすると2010年の生産高はわずか4,4%である。
もう一つ資料をご紹介する。「総務省統計局」が調査した「1世帯あたり年間の婦人用着物購入数量」と「1世帯あたり年間の婦人用着物支出金額」。1963(昭和38)年から2009(平成21)年までの全国調査である。
「購入数量」は1965~75年(昭和40年代)がもっとも多く、1世帯あたり約0、4枚である。それが2009(平成21)年には0,03枚と10分の1に落ちている。
「支出金額」をみるとその落ち込みはさらに顕著で、1982年(昭和57)年の13,628円をピークに1976~1996年の20年間は10,000円を越えている。しかし、1997(平成7)年以降の落ち込みは、まさに「底なしの下落」という感じで、直近調査の2009(平成21)年にはわずか1、996円と2000円を割る状況になってしまった。この調査を始めた今から50年前である記録、すなわち1963(昭和38)年の2、269円さえ下回る異常な事態である。
今の50歳代から上は、おそらく1985(昭和60)年頃より前に結婚された方がほとんどだと類推できることから、資料を見ても「箪笥に着物を詰めて」嫁いできたと考えられる。
しかし、現状はどうであろう。これから先「キモノを持たない世代」が増え続けることは疑いないことである。「喪服」は「嫁入り道具」として持参するケースがほとんどといってよい。「おかあさんが結婚した頃」と「娘さんが結婚する今」とでは、「キモノとしての喪服」は「使わないものになりつつある」もの、そして「キモノ」は「嫁入り道具ではないこと」が、一般の通念になっていると資料から読み取ることが出来る。
では、なぜ「喪服」を着なくなったのだろうか。上記した、「キモノ自体持っていない」方が増えたことが最大の要因だが、実は「持っているのに着ない」方も多く見受けられるのだ。それは、「葬儀」のように何かと気ぜわしく忙しいときに着る「余裕」がない(自分で着ることができないことが大きな原因)とか、着ても後の手入れが面倒であることとか、そもそも箪笥のどこにしまったのか探すだけでも億劫だなどの声をよく耳にする。
また「葬儀」の形式の変化も要因の一つであろう。昔(と言っても20年ほど前だが)は、それぞれ「故人の自宅」で葬儀が行われていた。近所の方たちが3日ほど手伝い、煮炊きをし、その準備を請け負ったのである。ある種の互助の精神である。地方であればあるほどその結びつきは強く、故人の内輪の者達は、「見繕いをきちんとする」という意識がはっきりしていたためである。だから現状のように「喪主」または「喪主の奥さん」だけが「喪服」を着るのではなく、「その親戚縁者たちは皆」、「喪服」を着たのである。
しかし、現代のように外部の「葬儀専門の会館や葬儀所」に持ち出して「葬儀」が行われていることは、とりわけ「簡略化」や「形骸化」の道をとり始めている表れであり、これから先に昔のような「葬儀」に戻ることはない。「家族葬」が増えている現状からすれば、今よりもっと簡素化されたり、しきたりに捉われないやり方の「葬儀」が増えていくのだろう。
ここまで読んだ方は、おまえは「呉服屋」なのにどんな時に「喪服」を売るのか?と問われるだろう。現状をこうして書いていれば、「喪服」を奨める機会はほとんどないようにも見える。しかし、私がお客様に「喪服」の御用を承る時は、一つのことが「意識」されている時である。
それはその「家」では、必ず「葬儀」の際に「喪服を着る」と心に決めているかどうか、ということだ。もし娘さんが嫁ぐ時に持たせるなら、「何かの時は、これを着てね」と、一言意識させて持たせてあげることである。「母の言葉」というものは、何年たっても、その記憶には残るものだと思うからだ。
つまりは、「喪服」というものは、すべてがその「お客様」それぞれがいかに考えるかということにかかっている。売り手の方から、「必ず必要です」などとは言えないのが常識というものであろう。そして、残念なことであるが、「喪服の必要性」を意識される方は、確実に少なくなっている。
「葬祭場」などで「喪服を貸すサービス」を行っているところがありますが、付いている「紋」は「借りる方」の家の「紋」ではなく、紋の中で多い「丸に鷹の羽違い」や「五三の桐」などが「形式的に」付けられているのをよく見ます。
「紋」はその家の「象徴」であり、何でも付いていればよいというものではありません。たとえ「キモノ」を着たとしても「キモノという形式」になっただけであり、本来の意味から遠く離れていると言わざるを得ません。
今日の「喪服」の話を書いているうちに、「儀礼」というものの現状や、「呉服業」の衰退を如実に表す資料から、改めて「昭和は遠くなった」という感慨を持ちました。我々の仕事は、その現状を直視しつつ、これからどうあるべきかと進む方向を考えていかねばならないと思います。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。