呉服屋になるとは思っていなかった。昔の私を知る人はそう言う。
人の生き方や価値観は、若い頃の経験に影響されることが大きいと思う。
「何が大切なのか」ということを考える時間は、人が生きていく上で無くてはならないことであり、それが基礎となって生き方になる。どのような仕事をしようとも同じで、何に価値を見つけるかでその取り組み方は違ってくる。
「むかしたび」のカテゴリーは、今ある私の原点である場所について、そのいくつかを話してみたい。
20歳前後の6,7年、東京と北海道を往復していた。大学には入ったもののただ入っただけで、一年のうち半分以上は北海道で働いていた。主な仕事場は、最果て知床半島のウトロという小さな村である。夏、冬の間は民芸品の加工販売や民宿業の手伝いをし、あとはバックパッカーとして旅から旅の日々。
「バックパッカー」とは「大きな荷物を背負った旅行者」という意味だが、それだけではない。私が考えるバックパッカーとは次のような旅行者である。「蕗の葉で尻を拭く事ができたり、沢の水を使い行水ができたり、パンの耳を常食にすることができる」。つまりどんな条件のなかでも歩き続けることができること。「観光」ではないのだ。その土地の本当を知るには「歩く」以外にない。
十勝三股は、私が若い頃「ここで暮らしたい」と唯一思わせた土地である。いや今でも「ここに住みたい」と思っている。叶えられない永遠の「夢」かと思う。
1981(昭和56)年10月、ウトロでの仕事を終えたあと初めてここを訪ねた。きっかけは一枚の写真である。新聞だったのか雑誌だったのか覚えていないが閉校になった「三股小学校」の写真が載せられていて、その記事に目が留まったからだ。
(士幌線 時刻表 当時、北海道内だけで売られていた「道内時刻表」)
上の時刻表記載の脇に小さく、糠平ー十勝三股バス代行運転の注意書きが見える
帯広からまっすぐ北へ伸びていた「士幌線」というローカル線があった。その終着駅が十勝三股である。戦前の1939(昭和14)年にはすでに全線が開通していたという鉄路で、その目的は森林開発とダム建設にあった。当初は三国峠を越えて、石北本線の上川までつなげようという壮大な計画であったが、その後の状況の変化がそれを許さなかった。
十勝三股は昭和30年代まで1000人ほどの住民がいた町である。途中の糠平ダムの建設が終わり、昭和29年の洞爺丸台風が残した大量の風倒木の処理が終わると住民は一気に減り始めた。林業の村であった三股が、国内材の需要減なども重なり衰退していくことは仕方ないことであったが、その度合いはあまりに極端なものであった。私が訪ねた昭和56年当時、わずかに住民は2世帯6人にまで落ち込んでいたのだ。それは三股があまりに辺境の地にあり生活の糧を失った人たちにとって暮らし続けることが出来る土地ではなかった。
士幌線は十勝の広大な畑作地帯を行く路線である。音更の「よつば乳業」の工場を過ぎ、上士幌あたりまでは車窓の左右は大規模な畑と酪農地帯が交互に現れ、大きなポプラの木と防雪林が印象に残る、実に北海道の広さを実感できる路線だった。この線の主要駅上士幌を過ぎ、萩ヶ岡のあたりから勾配が上がり、黒石平からは細い音更川をさかのぼってゆく。いくつもの谷を橋梁とトンネルで越えるとダム湖である糠平湖が見え、その湖岸にそって列車がゆく。士幌線はだいたいが二両編成のディーゼルカーで勾配のきつい山道に入ると唸るような音をたて走る。
この当時糠平は列車の終点であった。時刻表には十勝三股までの記載がある。どういうことかといえば、三股にゆくには糠平で国鉄代行バスに乗り換えなくてはならない。国鉄は士幌線の糠平ー十勝三股間の営業を昭和53年12月に打ち切っていたのだった。なぜならば利用客の著しい減少(さきほど述べた三股の住民減)のため、少しでも赤字を解消しようとしたための措置であった。
ただでさえ山岳辺境路線であり、除雪等の鉄路の維持管理に経費がかかる。しかし国鉄は「廃線」とはせずに糠平ー十勝三股間(約18キロ)を委託事業として民間に委ねたのである。その代行バスは「上士幌タクシー」と名前が車体に書かれた15人乗りのマイクロバスである。運転手はシャツにジーンズという軽装だ。
糠平はこじんまりまとまった温泉街である。層雲峡や登別のようにホテルや旅館が林立するような感じはない。大雪山観光といってもバスツアーを始めほとんどの観光客は上川側(層雲峡)からのルートである。登山者も黒岳などを目指すには上川側からのアクセスである。人が多く訪れれば、道路も宿も整備されていくのは当然である。ホテル街を2,3分で抜け糠平スキー場を左に見ると、糠平小学校の前で停車する。二人の女の子が乗り込んできた。糠平駅で郵便のバックを抱えたおばあさんが乗ったので車内は4人である。
バスが走る道は「大雪国道」といわれ、三国峠を越え上川まで続いている国道だがこの当時まだ未舗装であった。糠平ー三股間には「幌加」という途中駅があったがその駅にも忠実に寄る。当時「幌加」周辺には住民はいなかったが、乗る人も降りる人もいない駅舎の横で止まるのだ。そしてもう列車が来なくなった踏切でも一旦停車する。踏切の横には「当分の間、列車は通りません」と書かれているのに。
無人の幌加駅を過ぎるとバスはさらに高度を上げた山道を走る。20分ほど過ぎるといきなり視界が開け、小盆地が現れる。道の両側にはポプラと白樺の木が整然と並び、一気に視野が開け、集落が見えてくる。そこが十勝三股だった。
バスを降りると小学校の前から乗った女の子2人は、停留所のすぐ先にある雑貨店に入ってゆく。おばあさんは右手の家に入ってゆく。その軒先には〒のマークが吊るされている。十勝三股の駅舎はそのおばあさんの家の脇を入ったところにある。駅舎や駅名板ばかりか腕木式信号機や、蒸気機関車が使ったであろう給水機など駅の遺構はほぼそのまま残っている。今にも列車が到着しそうな気配である。
午後4時を過ぎ、秋の夕暮れは駆け足である。雑貨店で「三股小学校」の場所を教えてもらうが、「校舎は壊した」のでないという。駅の裏手の小道を山のほうに少し上がる。大きな蕗の葉が密生して、行く手を遮る。上り切ると広い空き地が広がる。ここが小学校の跡地か。子供たちが「馬とび」に使ったであろう色とりどりの古タイヤが埋め込まれている。
学校からの帰り、坂を下りる途中、私は正面の山々に気づいた。そして周囲の山を見渡す。すでにすこしだけ雪を被った頂も見える。すばらしい風景なのだ。いわゆる「東大雪」「裏大雪」と呼ばれる山々。正面の山は「西クマネシリ岳」と「ピリベツ岳」二つのピークが乳房のように等間隔にならび、通称「オッパイ山」と呼ばれている。そしてその脇には二ペソツ山と石狩岳が続く。バスが走ってきた国道の先は、すぐ三国峠である。
しばらくその場に立ち尽くす。何の音も聞こえない。風がわずかに吹いている。いつもでは感じないほどの微風。だが風の音がする。あまりにも静寂。何もかも止まっているような時間。このとき感じた思いは、この後何度も三股を訪ねているが変わらない。三股だけが持つ時の流れのせいか。必ず「時が止まった」ような気がする。
坂の下に見えるのは使われなくなった「製材所」の大きな建物。ガソリンスタンドの遺構。でこぼこ道を登った少し先に腐りかけた木の階段があり、上ると神社があったであろう鳥居のようなものがある。確かにここに人がいて生活があったのだ。
「自然に帰る」ことを感じる場所なのだと思う。私はそれまで炭鉱町や農漁村の開拓者が離農、離村した場所も多く訪ねていたが、三股とは違う。三股の風景は凛とした空気が感じられる。「零」に戻ったというか原点に帰ったという感じだ。
三股からの終バスは7時すぎだ。雑貨店に戻り奥さんにお礼を言うと、バスで一緒だった女の子が顔を出す。やがてご主人も現れるが、どこかで見たと思ったら乗ってきた「上士幌タクシー代行バス」の運転手である。この雑貨店のご主人で、小学校前から乗ってきた女の子は娘さんだったのだ。
この時から30年以上のお付き合いになる。名前を「田中康夫」さんという。どこかで聞いた名前だが、元長野県知事「なんとなくクリスタル」の作家さんと同姓同名である。こちらの田中さんは、雪と氷に囲まれた三股の自然の中で「本当にクリスタル」なのである。奥さんの民枝さんと娘さん二人サエちゃんとユキエちゃんの4人家族だ。奥さんは三股の人でご主人の康夫さんは大阪出身、大雪山と三股の自然に魅せられてこの地で生きていくことを決めたのだ。
「美しい風景」を持つ土地は「生きていくことが厳しい土地」である。そこで「生きていく」には多くの人が求める物と違う「価値観」がないと「生きていく覚悟」ができない。田中さん一家にはその覚悟をいつも教えられる。
三股が美しいのは「作り物」が何もないことである。観光とは人をいかに集めるかが大命題だ。集めるために「作り物」を「作る」。「ありのまま」ほど心に響くものはないということがこの国の人達にわかっているのかどうか疑問である。でもわからなくていいのだとも思う。わからないからこそ今でも「三股」が「三股」のままでいられるからだ。
田中さんのところから毎年11月になると「ジャガイモとかぼちゃ」が送られて来ます。私からは桃を送り続けています。一年に一度お話するくらいですが、それがもう30年以上続いています。雑貨屋さん兼ドライブインだった家はログハウスのきれいな喫茶店「三股山荘」に生まれ変わり、昨年からあの小さかった「ユキエちゃん」が店を切り盛りしているそうです。三股の住人は相変わらず2世帯、私も7年前に訪ねて以来です。そろそろ行きたくなりました。
(十勝三股の行き方)
帯広より糠平行きバスで一時間 糠平温泉下車 徒歩夏・5時間 冬6時間 18k
旭川より帯広行きバス(ノースライナーみくに号 一日一往復 十勝三股下車)
私は糠平から歩くことをお奨めしますが・・・(ぜひ、冬にいらしてください、ただし軽装備は不可です)
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。