先日加藤くんからのメールでわかったことですが、「太田屋」さんの初代の曽祖父「増五郎」さんは、もともと目黒の生まれで、「加藤家」は徳川家光の時代から幕府の「鷹場」の管理をしていた名家で、農家でありながら「苗字帯刀」が許されていたそうです。「増五郎」さんはその加藤家の分家の次男であったようです。
「目黒区史」によれば、目黒の加藤家の先祖はもともと甲斐の国「上野原城主」で「武田家」に10代仕えた旗本。武田家の歴史を記した「甲陽軍鑑」によれば、「加藤駿河守」は武田信玄に弓矢の手ほどきをした人物で、その孫の「加藤丹後守」は武田勝頼が織田信長軍により天目山に追い詰められた際、上野原から援軍に入ろうとしたが、天目山の手前の笹子峠で止められ、逆に追われる身となり結局命を落としたという。
その「加藤丹後守」の5歳の息子が、家臣に背負われ東へと落ち延びて、「目黒」に辿り着いた。その後加藤家は目黒の荒地を開墾し「名主」になり、徳川幕府の世になると幕府の鷹場があった目黒で、その管理を任されるようになった。
以上は加藤くんから教えていただいた「加藤家」の歴史であるが、「甲斐の国」と非常に縁のある方であり、その縁を大切にしながら、これからも仕事をお願いして行こうと思う。
下の画像、「はりて」という木でできたハンガーに生地の両端をかける。そしてその両方を引っ張ってピンと伸ばして止める。この「はりて」を使うものは「麻」や「紬類」など比較的シワになりやすいモノの時である。また、薄い生地や、シワになりにくいモノの時は、一般の洗濯物をロープにかけるのと同じように吊るして干す。この干し方を「だら干し」という。太田屋さんは4階建てのビルだが、その屋上は結構陽があたる。東京の下町の真ん中であっても、伝統的な仕事が昔ながらのやり方を忠実に守って続けられているのだ。
「はりて」で止められた生地を左右に伸ばし、しわが出ないようにしっかり引っ張る。この時に洗い張りで落ちなかったしみやヤケ、汚れを見つけることが出来る。このようなものを直すにはまた別の職人さんが手を入れなければならない。この仕事を請け負うのが「補正職人」であり、「地直し」「色ハケ」などの技術を駆使して、「洗い張り」で落とせなかった汚れをきれいに「補正」していく。
「伸子(しんし)」という竹ひごの先に針のついたものを使って張る方法。これを「伸子張り」という。少し生地目の込んだ上等なものに使う方法になる。このやり方の方が生地の左右を均等に引っ張るため、「ピン」となるそうだ。
生地を乾かすのは「天日干し」による「自然乾燥」が一番で、一時間ほどで、全体が均等に乾く。あまり「干し過ぎない」ことも大切で乾いたところで素早く取り込む。
乾いて戻ってきた生地は、「ふのり」という「のり」を刷毛でつけ、それを「湯のし」に出す。「湯のし屋」は「湯のし釜」を使い、洗って縮んだ生地を蒸気に当てて伸ばす職人である。
「湯のし」が終わったところで、一度「ハヌイ」をといて生地をバラバラにして、一枚ずつ丁寧にアイロンをかける。それをきちんと折りたたみ、持ち運びの時に崩れないように糸で止めておく。
品物には一つ一つ「しぶ札」と呼ばれる札がつけられ(一番上の画像、茶色の札)、それに店の名前と注文客の名前を書いておく。これは表地、胴裏、八掛が誰のものなのか、わかるようにしておくためである。表地1、裏地2(袷の場合)の3点を重ね、小さなたとう紙(小四ッ手と呼ぶ)に入れて完成。
加藤くんと先代ご主人の奥さん(加藤くんの母上)
ご協力本当にありがとうございました。
先ごろ「アド街天国」という番組が「甘酒横丁」の特集を組むということで、太田屋さんのところへ取材に来たそうです。しかし、そこにきた人がまったくキモノに対する知識がなかったために、ほとんど「洗い張り」の仕事が理解されず「ボツ」になった。
加藤くんの言うところ、「技術を売る仕事」というのは、モノを作ったり売ったりする「飲食店」などと比べ、「自慢のひと品」などというものもなく、「テレビ」的にわかりにくく、取り上げにくい仕事だから難しいかったのでは、とのことです。
伝統的な仕事を伝えようとするには、せめてある程度知識のある人を取材に派遣しないと無理があるような気がします。しかし、一般に「わかりにくい仕事」だからこそ「知る楽しさ」もあるのではないでしょうか?
三回に亙って「洗い張り職人・加藤くん」のお話をさせていただきましたが、果たしてどれほど仕事の内容を伝えられたかわかりません。ただ、我々呉服屋はこうした地道な手仕事により支えられていることをいつも感謝して行きたいと思います。次回からは今日少しお話させていただいた「補正職人」の方の仕事を書く予定です。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。