バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

夏を、気軽な木綿で楽しむ(後編)  丹波布

2019.07 09

先週、ドイツ在住のお客様が半年ぶりに来店した。元々、この方の実家は東京だが、ドイツ人のご主人と結婚され、今はベルリンで暮らしている。バイク呉服屋とは、このブログを通して縁が繋がり、一時帰国された際には、わざわざ足を運んで頂いている。

今回は、昨年暮れに依頼された手直しの品物を、受け取りに来られた。グレー地色・染疋田小紋の羽織と、藍大島の雨コート。どちらもキモノとして使っていたものを一度解き、それぞれに裏を付けたり、防水加工を施して仕立直しをした。様々な工夫をしながら、大切に品物を着用されている方である。

 

生成色の絹紅梅に、芥子色の帯を合わせた姿で店に入ってこられたが、夏姿が板に付いている。話を聞くと、普段の生活の中で、さりげなく着用することが多いようだ。そして、「日本で着るよりも、ドイツで着ている方が楽だ」という。その理由は、「自分流の適当な着方をしていても、わからないから」とのこと。きっと、着方やしきたりにうるさい人がいないので、自由にのびのびと、キモノを楽しむことが出来るのだろう。

そうは言っても、仕立や汚れ直し、寸法直しなど、キモノの悉皆を依頼出来るところはドイツには無いので、日本に帰った時に手を入れなければならない。バイク呉服屋は、その仕事の一端を担っている。

 

ベルリンでのキモノ姿は、目立つけれども、さりとて特別視はされないらしい。それはおそらく、ドイツという国が多民族国家だからであろう。それぞれの民族には独自の文化があり、人々はそれを尊重し合いながら暮らしている。だから日本人が、自分の民族衣装・「和を装うこと」は、当然のことであり、ことさらに特別扱いすることもない。

また、「着姿も見て頂きたいが、品物に込められた日本の技を知って欲しい」と仰る。先日店内に飾ってあった「江戸中型浴衣」を見て、この品物が、彫りぬいた型紙を表裏とも寸分の狂いなく繋いで染めたものとは、ドイツ人には想像も出来ないだろうと話す。この繊細で緻密な仕事は、職人が何代も引き継いだもの。ここにこそ、日本が見えると言うのだ。

ドイツは、マイスター制度があることでも判るように、職人を尊重する意識が大変高い国である。人々は、「モノ作り」への関心が高く、いかなる技術を使うか、そしてそれはいかにして今に伝えられるているものか、ということに対し、興味を持つことは間違いない。

海外に在留されている方が、着装されるだけではなく、こうして、日本の染織文化の伝達者になって頂けることは、大変嬉しく、貴重なことでもある。

 

さて今日も、前回に引き続き、気軽に楽しむことが出来る「木綿」の話。御紹介するのは、あまり知られていない「丹波布(たんばぬの)」。この綿織物にも、今の時代まで受け継がれてきた歴史と物語がある。

 

(丹波布 木綿八寸手織名古屋帯・廣田紬  植物染料糸100%使用)

普段の暮らしの中で毎日使う品物。例えば茶碗や湯のみ、コーヒーカップ、箸などは、それぞれ誰がどれを使うか、家庭の中では決まっているだろう。使う人は、形や色、模様を自分の好みで選ぶが、長く使うほどに、自然と品物に愛着が増す。

こうした生活に根付いた品物の中から生まれる美しさを、「用の美」と呼ぶ。この「美の提唱者」は、柳宗悦(やなぎむねよし)。彼は大正時代、日本植民地下の朝鮮に美術館を開き、李王朝時代に製作された無名職人の陶磁器を集める。品物は、人々の暮らしの中で使っていた雑器である。そこで柳が気付いたことは、民衆の暮らしと深く関わる品物の中に、驚くべき美があること。彼は、この美の世界を「民藝」と名付け、以後、この「暮らしの美」を啓発する「民藝運動」に力を注ぎ、日本各地で民芸品の調査収集に当たることになる。

今日御紹介する「丹波布」も、この柳宗悦との関わりが端緒となって、今日までその姿を繋いできた品物である。ではどのような織物なのか、話を進めていくことにしよう。

 

丹波布の模様は、縞。糸染めには全て天然染料を用い、手機で織り上げられる。

もともと丹波布は、江戸文久年間から明治20年代にかけて、兵庫県北東部の氷上郡青垣(現在の丹波市青垣)一帯で織っていた綿織物。青垣という土地は、丹波山地に囲まれたとても雪深い場所だが、この織物は、ここの農民達が長い農閑期の間に、自分で着用する衣服地やふとん表地として織っていたもの。当時はこれを、土地の字の名前から「佐治(さじ)木綿」とか、柄行きから「縞貫(しまぬき)」と呼んでいた。

明治以降は、すっかり廃れていた佐治木綿だが、これに陽の目を当てたのが柳宗悦だった。柳は、昭和初期のある日、出掛けた京都の朝市で偶然この木綿地を見つける。ひと目でこの縞織物に惹かれた彼は、当時染織研究者として知られていた上村六郎(うえむらろくろう・後に日本染織文化協会会長)に、どこで作られた織物なのか調査を依頼する。そして、1931(昭和6)年になって、この布は佐治木綿と特定された。偶然にもこの年は、柳が提唱する民藝運動の機関紙・「雑誌工藝」が発刊された年であった。

上村六郎は、戦後の1954(昭和28)年、地元に残されていたかつての模様見本帳・縞帳を参考にしながら、佐治木綿の復元に成功する。そこで柳宗悦は、上村とともに保存会を立ち上げて、本格的に織物復興への第一歩を踏み出したのである。そしてこの時、この織物の名前を「丹波布(たんばぬの)」とした。

 

品物には、糸の染料に使っている植物が明示されている。この帯の材料は、夜叉撫し(夜叉五倍子)・こぶな草・藍。また、「絹つまみ糸」とあるが、これは、屑繭の中から引きずり出した糸のことで、緯糸に織り込まれている。

丹波布の大きな特徴は、二つ。一つは、植物染料を用いて糸染めをしていること。もう一つは手紡ぎ糸を使っていること。まずは、染料の話から始めてみよう。

 

なぜ丹波布の糸は、植物染料を使って染めるようになったのだろうか。それは、佐治木綿として織っていた江戸の頃、この地方は山に囲まれた貧しい村で、藍染料を沢山買うことが出来なかったことが、大きな理由である。そこで農民達は仕方なく、糸染めの材料を身近な植物に求めたのだ。

栗は、丹波名産として知られているように、この地方では昔から栗の木が沢山自生していた。農民は、この栗を始めとして、楊梅(ヤマモモ)や樒(シキミ)、雑草のこぶな草やオニグルミ、ヤシャブシなどに目を付け、この煎液を明礬や灰汁などで媒染して色を染めた。そしてこの草木染料と共に、僅かに買い求めた藍を足し入れていた。

 

今も、丹波布に使う植物は、いにしえの江戸の時代と変わりは無い。この帯の材料も、夜叉撫し(ヤシャブシ)とこぶな草と藍。おおよその丹波布の基本色は、藍・茶・黄色・緑。使う植物素材が変わらないので、色の気配が変わることは無い。

おそらくこの帯の黄色は、こぶな草やヤシャブシの煎液に明礬を使って発色させたもの。緑色は、藍に木灰を媒染として使って出した色と想像出来る。色の濃淡や発色は、仲立ちとなる媒染液を変えたり、糸を浸して染める回数を加減することで、使おうと考える色に近づけることが出来る。

また染料では無いが、緯糸に木綿糸だけでなく、「つまみ糸」を使うことも丹波布の個性だろう。この糸は絹糸だが、屑繭を煮た水の中から、直接糸を手でつまみ出し、膝の上で撚りをかけて紡いだもの。これを着色せずに白いまま緯糸に織り込むと、絹の光沢を伴い、布の表面に僅かな横縞となって表れる。

 

丹波布は、ざっくりとした木綿の風合いが伝わってくる織姿。

同じ木綿でも、薩摩絣は細番手の超長綿・エジプト綿を原料としているために、その手触りはすべるような滑らかさを感じる。一方、この丹波布は、上の画像からも判るように、糸目が確認出来るほど表面がザラザラとしており、すこしゴワツキ感もある。やはりこれは、原綿糸の糸の太さに因るもの。

今や綿糸原料は、ほぼ100%輸入に頼っているが、この丹波布は、綿花作りから始めている。まず、収穫した棉の実から種を外す「綿操り」と、からみあった繊維をほぐす「綿打ち」を済ませる。そして、綿を棒状に巻き上げて糸を紡ぎだし、糸車の芯棒にからめながら車を廻して、紡錘形に巻き取る。この、粗い糸を引きながら撚りを掛けた糸は、機械紡績とは異なり、決して均一にはならない。

こうして手で紡ぐ丹波布の綿糸は、一本一本の太さに違いが出る。その糸は、縮れてはいながらも、ふんわりとした表情を見せる。糸が太ければ、当然織りはざっくりとした風合いとなるが、糸に無理な力をかけない手紡ぎなので、生地表面からは自然な人の手の温もりを感じ取ることが出来る。これが、丹波布のもう一つの大きな特徴である。

 

こうして紡いで綛にした糸は、藍は専門の紺屋で染めるが、他の色は先述したように、丹波の豊かな身近な自然植物を材料として、自分で染め上げる。その後、糸に糊付けをして経台にかけ、整経作業に掛かる。縞の模様は、昔の見本帳・縞帳や見本布を参考にしながら、織手が色の配列を工夫して糸を掛け、織りの準備を整えていく。

自分で糸を紡ぎ、自分で染め、それを自分で配置して手で織る。最初から最後まで、人の手仕事が貫かれている。それは、決して「作家」ではなく、無名の人の手によるもの。柳宗悦は、民藝品足りえる基準を幾つか挙げているが、その中には、「無名の職人の手によること」や「風土や自然の恵みにより支えられていること」、「伝統の技を生かし、その積み重ねが生かされていること」などがある。

丹波布には、この基準がいずれも当てはまる。柳宗悦が、この織物に目を止めたその慧眼ぶりが、この木綿から見えてくると言えるだろう。この布はとても丈夫で、一生使うことが出来ると言われている。最初は張りがあるが、使うほどに柔らかくなり、体に馴染んでくる。従来、庶民が使う綿織物として作っていたのは、こうしたものであろう。

身近な植物から染料を作り、糸を手で紡ぐ。そして模様は、縞格子一本。古くからの技法を頑なに守るこの潔さは、他のどんな高級織物にも見られない。私は、この丹波布に、庶民の矜持や意地を強く感じる。素朴でありながらも、強さを合わせ持つ。そんな織物ではないだろうか。

 

二回にわたってご紹介した夏の木綿・久留米絣縮と丹波布。

丹波布は、柳宗悦や上村六郎によって保存会が発足した4年後、1957(昭和32)年に、国指定選択無形文化財・記録作成等を構ずべき無形文化財として認定される。

昭和40年代には、後継者不足のために一時窮地に立つが、1973(昭和48)年に旧青垣町公民館内に、継承者育成講座を開設。そして1998(平成10)年には、丹波布伝承館が「道の駅・あおがき」の中に併設される。この建設に関わったのは、長い間丹波布の第一人者として活躍した足立康子さんだった。

そして伝承館では、未来に向けて後継者を作る新たな「伝習生制度」が始まる。ここでは、丹波布の製作技術を2年間で学ぶ。現在は8期生として、7人が職人への道を辿っている。

 

どんな織物にも、今に繋がる物語がある。二回に分けて、久留米絣と丹波布を御紹介してきた。どちらも「庶民の綿織物」であり、気軽に楽しめる夏の装いとなる。このつたないバイク呉服屋の稿で、少しでもこの品物に興味を持って頂けたら、嬉しく思う。

 

外国の方に、日本の民族衣装を認知して頂く機会は、主に晩餐会やレセプション。この姿は、政治家や外交官、あるいは著名人が着用する煌びやかなフォーマルな装いです。

けれども、それは和装の一端でしかありません。キモノには、日常の中でさりげなく装うカジュアルな姿があります。特別な品物でなくても、十分その美しさを理解して頂くことは出来るはず。そんな姿を演出出来るのは、特別な人ではなく、和装を愛する市井の人に他ならないでしょう。

そして、着姿とともに、品物のことをお話して頂ければ、それは日本という国を知って頂く良い機会にもなります。何故ならば染織の歴史は、日本の文化そのものだからです。大変かも知れませんが、海外に在住される方にこそ、ぜひ普段着の和の装いを試して頂きたく思います。

 

蛇足ですが、今日の丹波布の稿で、このブログの稿数は500となり、一つの区切りを迎えました。次の目標は、千回と言いたいところですが、とりあえず501回目をきちんと書くことを、目標にします。私の性格からすれば、遠くの目標よりも、身近な目標を掲げて実行する方が、意欲が出ますので。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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