バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

夏を、気軽な木綿で楽しむ(前編)  久留米絣綿縮

2019.07 03

大阪で開かれていたG20サミットが終わった。焦点となっていたアメリカと中国の貿易問題は、アメリカ側が追加関税を発動することを見送り、両国が再度交渉の席に着くことを確認したために、決定的な対立は回避された。この問題の行方次第では、世界経済に大きな打撃を与えることが予想されたが、とりあえず問題は先送りされた。

アメリカファーストを掲げるトランプ大統領は、貿易赤字の原因を作っている相手国が「目障り」に思えて仕方ないらしい。日本もその一つで、貿易赤字額は690億ドル。これは中国、メキシコに次ぐ赤字幅である。その元凶となっている輸入品が自動車で、536億ドルもの赤字を出している。アメリカ側は、車の輸入台数に規制をかけるとか、関税を20%引き上げるなどと「脅し」をかけているようだが、日本側が果たしてこの攻勢を凌げるか否か、その先行きは不透明だ。

 

国内消費が頭打ちの日本では、企業は収益の活路を海外に求める以外にない。だから現在、業績が好調な企業というのは即ち、輸出で儲けていることになる。今、日本の輸出品は、自動車を中心とする輸送機械、半導体や電子部品などの電気機械だが、やはりこの企業群が、日本の経済を牽引している。

戦後の日本は、鉄鋼や造船、自動車、電子製品などを輸出して、外貨を稼ぐことで経済成長してきた。だが平成以降、アメリカにおけるITのような、新たな産業を創出することが出来ず、将来に向けて「成長の芽」となるものが見当たらない。少子化で働き手が少なくなると共に、稼ぎ手となる産業が見当たらないことが、この国の将来に影を投げかけている。

 

さて、重厚な産業品の輸出に頼ってきた日本だが、戦前における輸出の花形といえば、繊維だった。江戸開国以後、明治期までは生糸、大正から昭和にかけては、綿織物が輸出品のトップである。

綿糸や綿織物は、明治から大正期にかけて、製糸や製織の技術革新が起こり、急速に発展する。この時代、原料の綿花を輸入して、糸や生地を製造する会社が数多く起業。明治期に輸入品だった綿製品は、輸出へと転じていった。特に、1896(明治29)年に、原料綿花の輸入税が撤廃されたことは、綿織物生産の大きな後押しとなった。

この頃、綿織物は輸入品としてだけでなく、国内需要も大変高かった。今、全国各地に僅かに残る綿織物産地の年間生産反数も、おしなべて、この大正から昭和の時代に、最大の製織数を記録している。久留米絣220万反、伊予絣246万反など、今では想像もつかないような数である。

しかし、100年以上の時を経た今、伝統的な綿織物は希少なものとなった。だが、少なくなったとはいえ、脈々と技術を受け継ぎ、織り続けているものがある。そこで今日から二回に分けて、気軽な夏の装いとして楽しめる素朴な木綿の品物を、皆様に御紹介することにしよう。浴衣だけではない、綿素材の面白さをぜひ知って頂きたい。

 

(月に兎模様 久留米絣綿縮・坂田織物)

日本で綿栽培が始まったのは、そう古いことではない。平安期に編纂された勅撰史書・日本後記によれば、799(延暦18)年、三河国(現在の愛知県)に漂着した崑崙(こんろん)人・別名天竺(てんじく)人が、綿の種を持ち込み、それを植えたことが始まりとされている。崑崙人とは、インド人のことである。

この時は生産が発展することなく、しばらくして綿種は消滅してしまうが、16世紀になり本格的な綿栽培が始まる。その契機となったのは、天文年間(1540年頃)、種子島に漂着したポルトガル人が、豊後国(現在の大分県)の領主・大友宗麟に種を献上したからという説や、文禄年間(1595年頃)に、豊臣秀吉が朝鮮侵略(文禄の役)を試みた際、朝鮮から種を持ち帰ったという説があるが、いずれにせよ、この頃から綿栽培は、近畿一円から中国、九州へと一気に広がっていった。

 

この時代まで、庶民が身につけていた衣服の素材は、麻が中心。もちろん絹もあったが、それは一部の上流階級のものであり、農民は、麻のほかに、楮を原料とする栲布(たくぬの)や、科の木の繊維を使った科布(しなふ)などを使っていた。

麻よりも手の掛かる綿栽培が、何故急速に広く普及したのか。その理由を考えてみると、糸にするまでの手間の少なさが挙げられよう。麻は、蒸して水にさらし、乾燥して手で績まなければ糸にはならないが、綿は綿花そのものがすでに繊維として出来上がっているため、糸にするまでの工程が格段に少ない。また、麻よりも色に染まりやすく、織物としての商品性が高くなることも一因であっただろう。

着る人にしてみれば、ゴワツキのある麻に比べ、滑らかな肌触りで色合いも良く、しかも保温性に優れているとなれば、綿の優位は明らかである。こうして近世以後、木綿は人々の生活には欠かせないものとなり、衣服素材の中心を占めるようになっていった。

綿の歴史を語り出せばキリがないので、この辺で、今日の本題・気軽に楽しめる夏木綿・久留米絣綿縮の方に、話を向けることにしよう。

 

木綿絣の代表格・久留米絣も、江戸後期の18世紀末までは、絣柄のものは無く、縞あるいは格子に限られていた。各地方で生産されていた綿織物も同様で、この時代までは、機で図案を織り成すことなど、考えもされてはいなかった。

久留米絣の創始者は、僅か12歳の少女。今なら、小学校六年生か中学一年生である。江戸末期の1788(天明8)年12月、筑後国御井郡通外町(現在の福岡県久留米市)の米穀商・橋口屋に、娘が生まれた。主人・平山源蔵は、名前を「でん」と付けた。当時の久留米は、8代目藩主・有馬頼貴が治める21万石の城下町。

この頃の久留米藩の主産物は、綿と藍。城下での機織も大変さかんで、各々の家の女性達は、自分で綿糸を染め、普段着を織り上げていた。家に生まれた女の子は、五つになる頃から、機織の手伝いをしていたが、「でん」もその例にもれず、幼少から機台の前に座った。

 

生来、手先が器用だったでんは、早くから技術を習得したが、すでに10歳の頃には、大人同様に機を操るようになっていたらしい。この頃の織生地の模様は、もちろん縞か格子に限られていたのだが、でんはその図案に飽き足らず、何か他の模様が織れないものかと、考えていた。

12歳になったある日、でんは着尽した木綿の古着を押入れから取り出した。そして、眺めているうちに、袖口や裾がかすれて、白い斑点が出来ていることに気付く。そこで、白くかすれた部分の糸を、2、3本引き抜き、目の前でピンと張ってみると、糸の所々は染め残されたように、白くなっている。

この時、でんは気が付いた。糸染めの時に、予め糸の所々を白く染め残す「まだら糸」を作れば、織り上げた時には、白いところが模様になって、生地の上に表れるはずだと。でんは、このアイデアを早速実行に移し、染屋にまだら糸染めを依頼する。そして、この糸で織り上げてみると、紺生地の上のあちこちに、白い模様が浮かび上がったのである。

藍地の中に、くっきりと浮かび上がる絣模様。滲んだように見える兎図案の「絣足」は、全て形が違う。この自然にずれた模様の表情こそ、絣の美しさである。

人々は、この画期的な模様の綿織物を、「霜降り」とか「霰(あられ)織り」と呼んだが、でんと父・源蔵は「加寿利」と名付けた。「加」は、糸にひと手間加えてまだらに染めること、「寿」は、縁起が良くお目でたいこと、「利」は、この品物が売れて、商いが繁盛すること。こうした意味と願いが、この名前には込められている。

でんは、21歳で同じ久留米に住む機屋・井上次八に嫁ぎ、井上でんとなったが、後に、夫の早逝など幾多の苦難に見舞われながらも、次々と新しい絣模様を創案し、また多くの人に技術を伝授して、久留米絣の普及に努めた。でんは、1869(明治2)年、82歳で生涯を閉じるが、12歳で絣を考案して以来70年間、久留米絣一筋に生きた女性であった。

 

この兎と月の絣には、八重山ミンサーの綿半巾帯を合わせた。(売約済)

夏に使う久留米絣は、綿縮(めんちぢみ)。この織物は、経糸に通常の綿糸を使い、緯糸に強い撚りをかけた糸を使う。織り上げた時には、生地表面にシボが生まれるので、これがサラリとした肌離れの良い着心地を生み出す。通常の木綿よりも軽く、風が通るような感覚を持つ。

この品物は、久留米市の隣・八女(やめ)市に工房を持つ、坂田織物が製織したもの。伝統的な絣柄だけでなく、現代感覚に溢れる図案を積極的に取り入れている意欲的なメーカー。着尺だけでなく、もんぺや帽子、日傘など小物類も沢山作っている。

価格は4万円前後なので、竺仙の浴衣や小千谷縮とあまり変わりは無い。この綿縮は、化学染料を使い、力織機で織ったものなので、値段もこなれているが、本藍を使った久留米絣は、もう少し高くなる。

 

(蜻蛉花火模様 久留米絣綿縮・坂田織物)

別の模様を、もう一点簡単にご紹介しよう。こちらの図案は、蜻蛉のようにも、花びらのようにも、花火のようにも見える。バイク呉服屋は勝手に、「蜻蛉花火」と名付けたが、動きのある面白い絣模様。

久留米の絣は、小さいものが多く、明治期には「広瀬の大柄、備後の中柄、久留米の小柄」と呼び分けられていた。(広瀬絣は、島根県広瀬町で江戸文政年間より織られていた綿絣、備後絣は、広島県福山市で江戸文久年間より織られていた綿絣)。これらの綿絣は、江戸末期から昭和30年代まで、庶民の普段着や、もんぺ、野良着、夜具として広く使われていた。

直線的な縞や格子は、すっきりとした着姿を生み出すが、絣の模様は、柔らみのある着姿を映し出す。この蜻蛉花火に見える自然な絣足からも、そんな印象が伺える。

合わせた帯は、稀少な綿織物の一つ・「丹波布(たんばふ)」。次回は、この丹波布について、御紹介する予定にしている。

 

長い間、庶民には欠かすことが出来なかった木綿。それは機能性に富み、丈夫で長持ちする実用的な織物ではあるが、そこにあしらわれた絣には、人々のささやかな美意識が隠れている。普段使うモノの中で表現される美、これはまさしく「用の美」である。そして絣のモチーフは、生活の中から生まれているものばかり。つまりそれは、庶民の心を反映したものと言えるだろう。

紺地に白く映し出された絣には、特別な爽快さと清潔感がある。滲みとズレが美しい久留米の綿縮。郷愁を誘う夏の装いとして、ぜひ一度は試して頂きたい。

 

トヨタやホンダなどの自動車産業は、関税など輸出に関わる貿易障壁を回避するため、アメリカやヨーロッパに数多く工場を建設しています。その生産比率は45%にも及び、現在製造する車の半分は海外です。また、その他多くの製造業も、ベトナムやタイ、マレーシア、ミャンマーなど東南アジア諸国へ進出していますが、理由は、安い賃金で使える現地の労働力にあるのでしょう。

こうした目的での海外生産は、今に始まったことではなく、戦前にもありました。例えば、大正時代に最大の輸出品だった綿織物は、第一次大戦後の労働者賃金の上昇や労働条件緩和を受けて、中国の上海や青島(チンタオ)に工場を建設し、海外での生産を始めます。この日本資本による中国の紡績会社のことを、「在華紡(ざいかぼう)」と呼びますが、大正末年までに、その数は17社にも及びます。

在華紡は、安い賃金で中国人を雇い、年を追うごとに生産量を増やしていきますが、それは同時に、現地中国資本の紡績業の業態悪化を招き、その上に悪い待遇で働かされる中国人の不満も、次第に高まっていきました。こうした摩擦が、後に起こる日中戦争の遠因の一つになったとも言われています。

 

自分の国、あるいは会社だけの利益を考え、相手のことを疎かにする。勝手なふるまいが、決定的な対立を引き起こす「呼び水」になることは、間違いありません。戦争は、僅かな綻びから起こることを、歴史は教えてくれます。

相手の立場を弁えること。それは、国と国、企業と企業、そして人と人の間で、何より尊重されるべきことなのでしょう。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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