バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

遺されしものに、会いに行く (中編・開拓地編) 大樹・光地園

2019.05 03

またとない10連休も、もう後半戦。皆様はどのように過ごされているのだろうか。残り少なくなった休日を数えながら、仕事が始まることへの憂鬱を、感じ始めておられる方も多いだろう。

様々な調査を見ると、そもそもこの連休中に旅行、帰省、その他何かイベントに出掛けるという方は、全体の三割ほど。多くの人は予定も無く、家でのんびり過ごしているらしい。観光地はどこへ行っても人だらけ、そして交通機関の混雑、渋滞を考えると、それだけで疲れてくる。ならば、家でゆったりとして、日頃の疲れを癒す方が良いと考えるのは自然なことだろう。

 

私も昨日から休みを頂いているが、5日間の休みで予定が入っているのは、一日だけ。やることと言えば、庭の草むしりをしたり、ジムへ行って汗を流す程度で、後は家でまったりとしている。

けれども、ただ漫然と時間をつぶすのでは勿体無い。普段の休みもそうだが、私は時間があれば、自分の旅の計画を立てる。毎年10月末に出掛ける北海道。どこの林道をどのように走り、どこを訪ねるか。行きたい場所は沢山あるので、プランは何通りにも考えられる。そして時には、昔の写真や時刻表、地図などを引っ張り出してくる。読みふけるうちに、色々なことを思い出してくる。バックパッカーだった若い頃の自分に戻ることが出来る時間は、やはり楽しい。

 

ということで、休み中のブログは旅のお話。昨年12月には、35年前に廃線となった白糠線の駅・上茶路についてご紹介したが、今日は「遺されしもの」の続編として、ある開拓地のことを書こうと思う。呉服に関わることではないので、読者の方には申し訳ないが、どうかお許し願いたい。

 

(北海道 十勝支庁 大樹町・光地園)

4月から始まった、朝の連続テレビ小説「なつぞら」は、北海道・十勝が舞台。広瀬すずさんが演じる主人公・なつが、北の台地でたくましく成長していく姿を描いている。

筋書きは、孤児となったなつが、戦死した父の戦友に連れられて、十勝の酪農家にやってくるところから始まる。物語の設定からは、すでに戦前にこの農家が大きな牧場を経営しており、開拓者としては、一定の成功をおさめた家だと判る。

 

北海道の開拓は、1869(明治2)年、明治政府が北方警備や資源開発などを目途として、北海道開拓使を設置したところから始まる。そして、1874(明治7)年からは、屯田兵募集が始まり、最初は没落した士族が新しい生活の糧を求めて応じ、後には、土地を持たない農家の次男・三男が新天地を求めて北海道に渡った。

明治以前は、ほとんど手が付けられていなかった北海道の大地。開拓者は原生林を切り開き、土を耕して、作物を植えた。元々極寒の地だけに、思うように収穫は得られず、苦闘の連続であったが、徐々に耕地は広がり、明治末年には道内の農家数が14万戸に達した。

 

こうして北海道は、人口が増えるに従って耕地面積は広がり、主産業としての農業が確立していったが、1945(昭和20)年になって、新たな開拓者を迎え入れる。

国にとって、終戦の後に直面した極端な食糧不足は、真っ先に解決しなければならない大問題であった。政府はこれを解消するため、1945(昭和20)年11月に「緊急開拓事業実施要領」を発表する。この政策は、食糧の増産と、復員してきた大勢の軍人や海外からの引揚者に対し、就労の機会を与えることを目的としていた。食糧と就労という戦後の緊急課題を、一挙に解決しようと試みたのである。

政府は、この「戦後開拓」において、5年間で100万戸の農家を作ることを目標にした。広大な北海道には、最も多く入植者が入り、土との新たな格闘が始まった。しかし、すでに平地では既存の農家が土地を広げており、政府から指定された開拓地は、気象条件は厳しく、交通不便な奥地ばかり。さらに入植者は、農業経験の乏しい者が多く、その上政府からの支援はほとんどなかった。

土に慣れない者が、鍬と鋤だけを携えて、原野を切り開く。北海道における戦後開拓の厳しさは、言葉では言い尽くせない。土を掘り、木を切り倒して、ようやく耕作地にして作物を作ったものの、恒常的な冷害に悩まされ、収穫は増えず、農業経営は安定しない。何年苦労しても全く報われず、とうとう矢折れ刀尽きて、苦労して開墾した土地を手放す。こうした戦後の開拓地が、今も道内のあちこちに残る。

今回訪ねた十勝支庁・大樹町の光地園(こうちえん)も、そんな戦後開拓集落の一つである。では、入植者の苦闘の跡を辿りながら、この場所にご案内することにしよう。

 

(国鉄時刻表 1982(昭和57)年・8月 北海道鉄道路線図)

光地園のある大樹町は、帯広から60キロほど南に位置する。上の鉄道路線図でわかるように、ここにはかつて広尾線(1987年2月・廃線)というローカル線が走っていた。町の西側は日高山脈に接し、東側は太平洋に面している。町の基幹産業は酪農と漁業だが、ロケットの発射実験場があり、そのため「宇宙の町」を標榜している。

かつての広尾線時刻表(1981年10月)。この線には、「愛国」、「幸福」という名前の駅があるが、昭和40年代半ば、「愛の国から幸福へ」というキャッチフレーズで、この二つの駅の切符が爆発的に売れた。どちらの駅も、十勝平野の農地の真ん中にある小駅で、特別なものは何も無い。

以前、十勝の湖沼群についてお話したときに少し触れたが、大樹町は十勝の酪農事業発祥の地。開拓の父・依田勉三が町の東部・生花苗(おいかまない)で晩成社を設立し、バターや練乳など乳製品の生産を始めたのは、1902(明治35)年のことだった。

 

大樹町を流れ下る歴舟川。日高山脈の神威岳に端を発して、太平洋にそそぐ。この川の上流には幾つもの川が流れ込んでいるが、そのうちの一つ・ヌビナイ川の流域に、光地園がある。大樹町中心部から、西へ20キロ。標高350メートルの台地。

光地園へは、大樹町と中札内村を繋ぐ道道55号で西へ向かい、途中にある尾田集落の手前で、道道1002号に入る。この道は、光地園まで続いているが、そこで行き止まりとなる。

光地園へ向かって真っ直ぐに伸びる道道1002号。遠くに見えるのは日高山脈。ぺテガリ岳、中の岳、神威岳など、1600~1700m級の山々が連なる。

 

大樹町・光地園に初めて開拓の鍬が下ろされたのは、1947(昭和22)年の春のこと。樺太から引き揚げて来た12世帯・72名が、最初に入植した。ここは戦前から馬の放牧地として利用されていただけで、土地には何も手が付いていなかった。そして開拓者は、この集落名を「光地園」と名付けたのである。「光輝く明日は、大地から届く」、そんな意味がこの地名には込められていたのだった。

入植者は次第に増え、豊富な立ち木に目を付けた製炭業者も入り、住民は150人となった。3年後の1950(昭和25)年には、小学校が開校し、後に中学校も併設。そして電灯も付いた。開拓診療所や地域の集会場も設けられ、年を追うごとに集落の形が整っていった。

しかしこの土地は、痩せた火山灰地で思うように作物が育たない。冬はマイナス20度にも下がり、降雪量も多い。そして夏の低温と日照不足は、少ない収穫をも奪う。さらにヒグマの襲来。飼っていた肉牛は殺され、貴重な収入源を失った。冷害による凶作と獣害は、確実に開拓者の心を疲弊させ、次第に追い詰められていくことになる。

 

東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年、北海道はかつてない大冷害に襲われた。この頃光地園では、すでに土地に見切りをつけて離農する人が相次いでおり、最盛期には40戸近くあった家も、22戸にまで減っていた。そして、この年の凶作は、集落にとって決定的なものとなった。

マメやソバを中心とする農産物は、それまでも収穫は上がらず、一向に収入は増えていかない。開拓民は、出稼ぎと肉牛飼育で何とか糊口を凌いではいたものの、営農のための借金は増え続けるばかり。そこに酷い冷害が追い討ちをかけたのである。

この年の収穫はほとんど皆無に近く、自分たちが日々の生活で食べるものにも事欠く始末。そして唯一の現金収入源として飼っていた肉用牛も、ヒグマに襲われ、10頭以上が売り物にならなくなった。窮地に立たされた光地園の人々。そこで何人かが、集落を囲む町有林に生えている木に目を付ける。この木はキハダで、樹皮は薬用として使える。これを伐採して、現金に換えようとしたのだ。だが、この盗伐は町に知れるところとなり、追徴金の支払いを申し渡される。しかし、盗んだ人達に払える術は何もない。

この事件を契機に、光地園の惨状が世間に伝えられ、全国から援助の品物や激励の便りが舞い込んだ。金沢大学では、せめて子ども達だけでも安心して暮らせるようにとの思いから、里親を申し出る。そして、翌1965(昭和40)年の1月から3月まで、小学生7名・中学生7名が「集団里子」として、金沢に送られることとなった。

 

次第に道は高度を上げて、光地園のある台地に向かっていく。

台地を上る途中では、遠く十勝平野を見渡せる場所がある。

やがて整備された草地が現れる。日高の山並みが身近に見えてくる。ここまでの間、全く人家は見当たらず、人の気配も無い。

 

大冷害が起きてから4年後、1968(昭和43)年の3月。ついに光地園小中学校は、閉校の日を迎える。離農者が相次ぎ、この時住民は僅か3戸を残すのみ。在校生は小学生3人・中学生5人。この年の卒業生は中学生2人だけだった。開校から18年、この学舎から巣立った生徒は62人である。

最後の校長先生となった山口二郎氏は、後に光地園小中学校の思い出として、こんな文を寄稿している。「去っていく人たちを見送る子どもの一人は、作文の中で次のような思いを書き残していた。『20年間、光地園を築き上げた人たちが、一鍬一鍬耕した広い土地をなぜ捨てたのか。私にはわからない。ここはやがて国営牧場になる気配も見られる。雄大な日高山脈のふもとは、どう変わっていくのだろうか。』それが今となっては、とても印象深いものがある」。

 

走ってきた道道1002号は、そろそろ終わりに近づく。このカーブの先・左側にかつて小学校の校舎があった。

この交差点で道は終わるが、何の表示も無い。

 

そして道の左側には、広大な草地が広がる。ここが光地園開拓地の跡。放牧地として整備されたために、昔の痕跡は何も残っていない。1974(昭和49)年、大樹町はこの地を、町営の大規模草地育成牧場として整備した。現在は、800haに乳牛1000頭、肉牛200頭、馬20頭が放牧されている。

 

車を牧草地の脇へ止めて、ここからは歩くことにする。牧場の周囲にはご覧のようなでこぼこ道が、どこまでも続いている。

とは言え、この恐ろしい標識が立っている。今日も当然、クマ除けの三種の神器は身に付けている。けれどもここでは遭遇したら最後、逃げ場が無い。

 

光地園を訪ねたのは今回で二度目だが、二回とも快晴に恵まれた。ご覧のように、なだらかな台地の上には低い雲が広がっている。空と大地しかなく、その緑と青のコントラストが例えようも無く美しい。こんな景色をひとり占めするのは、何とも勿体無い。私には珍しいことだが、この風景を家内にも見せてあげたいと思う。

 

見渡す限り広がる美しい大地。けれども、この土には、「光輝く明日を、この大地から」と決意を抱いた、光地園開拓者達の血と汗と涙が沁み込んでいる。彼等がいたからこそ、この大地が遺されたのだ。そのことを胸に刻みつつ、私は長い時間この場所に、佇んでいた。

最後に、光地園小中学校の校歌を記して、「遺されしもの・開拓地編」の稿を終えることにしたい。

日高の山のかがやきに われらの力をはずませて ゆこう うたおう たからかに 光きよらな 光地園

 

(光地園への行き方)

帯広から大樹まで1時間50分(十勝バス) 十勝帯広空港からだと、大樹まで40分

大樹から光地園までの公共交通は、何もありません。車(レンタカーなど)では、道道55号と1002号を経由して、約40分

なお、道道1002号の入り口から、光地園までの15キロには、民家が全くありません。牧場内に立ち入ることは出来ませんが、周囲の道を歩けば全景を見渡せます。但し、本文中にも書きましたが、ヒグマの出没地帯なので、十分なご注意を。

 

私が北海道で訪ねる土地には、必ず、そこへ行くべき理由・動機付けがあります。それは、新聞記事であったり、本であったり、人から聞いた話だったりと、些細な情報を耳にしたことで始まります。

光地園集落に関しては、若い頃読んだ「北海道探検記」の中で、紹介されていました。これは、朝日新聞の記者だった本多勝一氏が書いたルポルタージュ。今日の稿も、一部はその内容を参考にさせて頂きました。

本多氏は、この本の中で、「北海道的な北海道を旅するには、狭く深くを原則とした上で、放浪者の自由を加えるのが理想的。ガイドブックの類は、ガイドブックに出ていない所はどこかを知るために使う。」と記しています。今なら、ネットで情報が流れていないのはどこなのかを知るために、ネットを使うようなものでしょうか。

物見遊山ではなく、何かを心に刻むために、旅をする。バックパッカーだった若い頃の気持ちは、まだ衰えていないように思います。そしてそれが、呉服屋としての生き方にも、「無形の影響」をもたらしているようにも思えます。きっと私は、体の続く限り、歩き続けるでしょう。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。次回からはまた、呉服屋に戻って、お話をさせて頂きますので、またよろしくお付き合い下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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