私は、どうして唐草文様が好きなのだろうか。これまで、このブログの中で紹介した品物を見ても、唐草・唐花図案のものが沢山ある。
この文様ほど、バリエーションのあるものはないだろう。蔓が持つ自由な曲線を繋ぎながら、そこに多種多様な草花が取り込まれて、一つの文様を形作る。この組み合わせに規則はなく、描く者のセンス次第で、どのようにも変化する。
この文様が日本へ入ってきたのは、7世紀・飛鳥時代の頃と推測される。法隆寺金堂に安置されていた仏教工芸品・玉虫厨子(たまむしのずし)の蓮弁には、唐草文様の一つ「忍冬唐草(にんどうからくさ)」の施しが見られる。また法隆寺の平瓦には、同様の忍冬唐草文様が刻まれており、これが「法隆寺式唐草瓦」として、普及することになる。後の白鳳時代に建立された、藤原京(持統天皇期)の多くの寺の瓦では、この唐草文様の法隆寺式瓦が採用されている。
唐草・唐花文様こそ、異文化の寄せ集まりではないだろうか。エジプトやアッシリアに端を発したものが、ヨーロッパやオリエントに伝わり、さらにシルクロードを通り中国に伝えられ、日本にやってきた。その途中の国々では文様がアレンジされ、変化しながら違う場所へ伝わっていく。融合ということで考えるには、またとない文様である。
また、地域ばかりではなく、時代と共に変化する文様でもある。服飾品ばかりでなく、陶磁器や漆器の模様としても長い間使われてきたものだ。
今日は、数ある唐草文様の中から、古代エジプトやギリシャを起源とするパルメット唐草の代表的な二つのモチーフを、帯文様の中で見て頂くことにしよう。
(パルメット唐草 西洋蔓草(忍冬)文様 袋帯・梅垣織物)
パルメットとは、扇のように花弁が開いた形の植物を模した文様とされているが、モチーフとなっている花には諸説があるようだ。スイカズラ(忍冬)や、ロータス(蓮)、それにナツメヤシ。あしらわれる花や蔓の付け方により、全く異なる文様となる。
そして、地域や時代によりその起源となる花が違う。例えば、古代ギリシャでは、anthemion(アンテミオン)=スイカズラ(忍冬)の葉であり、古代エジプトでは、lotus(ロータス)=蓮の花だ。
そもそも唐草の起源を特定することは難しい。だが、古代建築の様式などを見ていくと、モチーフとなる花が幾つか揚げられる。古代ギリシャ宮殿の装飾された柱には、アカンサス(葉アザミ)が曲線的に描かれている。この他、ツタや蓮、ナツメヤシ、葡萄、牡丹などが古代唐草の起源になっている植物と見られている。
この帯の文様のように、花弁が目立たず曲線的な蔓と葉だけの図案は、おそらくスイカズラをイメージしたものであろう。法隆寺式唐草瓦に付けられた文様と良く似ている。
これが、日本の唐草文様として、後にどのような表現になったのか。
日本人には、木綿風呂敷でお馴染みの唐草文様。ドロボーが盗んだ品を包んで背負い込む姿が、どなたにもイメージされるだろう。上の画像でお分かりのように、この唐草には花弁が付いていない。それどころか、葉もほんの申し訳程度にしか付けられておらず、ほぼ蔓だけのシンプルな図案である。
法隆寺瓦の唐草文同様に、日本伝来時にはかなりシンプルな幾何学文様だったことがわかる。これが基礎となり、葉や花弁が様々に施され、多様な唐草文様に変化していく。
梅垣織物ではこの帯を、「Karaori Nouveau(唐織ヌーボー)」シリーズの中の作品として、製作している。ヌーボーとは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパ各地でおこった美術運動「アール・ヌーボー」のことだ。
この芸術運動は、自然界にある花や植物、虫や動物をモチーフとして文様に取り込み、さらに自由な曲線を用いることで、独創的な装飾文様に仕上げること。
アールヌーボーの始まりには、日本のあるモノが大きく関わっている。それは「型紙」だ。開国された明治以後になって、日本はヨーロッパ各地で開催された万国博覧会に様々な美術工芸品を出品する。1873(明治6)年、明治政府となり、日本が初めて公式に参加したウイーン万博では、浮世絵や琳派の美術工芸品が多数出品され、ヨーロッパ各地の芸術家の間に「ジャポニズム」という「日本趣味」が流行してゆく。
これが、1889(明治22)、1900(明治33)両年に開催されたパリ万博の頃になると、日本からもたらされた型紙の文様は、その自由で斬新なデザインと、精緻な技術は新鮮な驚きを持って注目され、これがアールヌーボーに大きく影響を与えたのだ。
例えば、オーストリアの画家・グスタフ・クリムトが1905~1909年にわたって製作した「生命の樹」という作品を見ると、木の枝が日本の唐草風呂敷に酷似した渦巻き状の曲線で描かれており、ひと目で日本の文様に影響されたものだとわかる。
梅垣織物は、このヌーボーシリーズの図案を、日本の伝統と西洋の結合という視点で製作しているが、まさに「古くて新しい」意匠になっているように思える。梅垣のHPによれば、商品製作の参考になっているのは、ロンドンにあるサウス・ケンジントン博物館の収蔵品だそうだ。
この美術館の旧名は、ヴィクトリア・アルバート博物館。1851年、ロンドン万博の収益と、そこに出品されたものを基に開館された。名前の通り、英国ヴィクトリア朝時代の服飾や装飾品の数々を見ることが出来る。それは、日本から影響を受けた、ジャポニズム、アールヌーボー時代の品であり、それこそ日本と19世紀ヨーロッパが融合された文化と言えよう。
(パルメット唐草 ロータス(蓮の花)文様 九寸織名古屋帯・西陣 斉城織物)
もう一つのパルメット唐草。最初のスイカズラをモチーフとしたものと、全く印象の違う文様になっていることがわかると思う。
パルメットの基本的な特徴が、扇状に開いた植物の花ということからすれば、この帯は、まさに花の形状を図案化したものである。扇のように、というのは花弁の配列が放射状、または螺旋状になっていることで、これをロゼットと呼ぶ。
ロータスとは、英国名で蓮または睡蓮のことだ。パルメットの由来はロータス(蓮)を正面あるいは断面から見た時の形状・ロゼットに由来するとの説もあるが、よくわかっていない。パルメット唐草がスイカズラなのか、ロータスなのか、特定は出来ず、要するにどちらもアリということではないだろうか。
確かに放射状に開いている花弁。エジプトが唐草の起源とされる理由は、ロータスが聖なる花と位置づけていたからだ(現在でもエジプト国花となっている)。放射状に広がる花弁と蔓が、緩やかな曲線や渦巻きを想起させ、それが様々に形を変えた唐草文様に発展していったのであろう。
パルメット文様は、伝えられた地域により、その姿を変えていく。エジプトでは扇の形が左右対称(聖樹とされたナツメヤシをもちいた文様・聖樹聖獣文などに見られるように)であったものが、地域が移るごとに、自由に形態が変えられた。
例えば、ギリシャでは花弁に切り込みを入れたようなアルアカンサス(葉アザミ)文様が見られたり、アッシリアやペルシャなどでは、葉の部分を長く巻き込んだり絡ませたりしていた。ササン朝ペルシャ時代の装飾品を見ると、多様なパルメット文様が施されてたことがわかる。
こうした時代を経て、西アジアへ、さらに東方の中国、日本へと伝来する。シルクロードから、中国に伝わったのは5世紀頃とされているが、莫高窟に表れているパルメット文様から類推すれば、もう少し前から入っていたとも考えられている。
この中国の地で、中国固有の文様である雲文や龍文、あるいは蓮華文などが融合され、日本に入ってくることとなる。唐(から)草という名前は、中国の唐代を想像させるが、パルメット文様そのものが唐の時代に大きく変化を遂げる。それは、花が壮麗になり、やがて文様そのものが宝飾品のように見えるものが現れたのだ。宝相華(ほっそうげ)文様の誕生である。
飛鳥時代、仏教伝来とともに宝相華文も伝わり、さらにはその原型となる様々な唐草文様も伝わった。法隆寺の玉虫厨子や瓦にパルメット唐草が描かれるまでには、このように気の遠くなるような長い時間があったのだ。
様々な地域の文化を融合しつつ、変化を遂げてきたパルメット唐草は、異国の薫りをいっぱいに漂わせている文様と言えよう。
唐草文様が豊かなバリエーションを持つ訳は、融合された文様だからです。エジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ、アッシリア、中国、そして日本。ヨーロッパと中東とアジア、それぞれの地域のエッセンスが見事に散りばめられているような気がします。
だからそこには、自由で様々な表情を持つ文様の世界が広がるのです。それは、古くて新しい魅力的なデザインであり、いつの時代にも受け入れられるものでありましょう。
私が、何故この文様に惹かれるのか、今日このブログを書いてみて、自分でも少しわかったような気がします。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。