バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

「用の美」を現代に伝える農民絣 出雲織

2014.08 12

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」 須佐之男命(スサノオノミコト)が詠んだこの三十一文字(みそひともじ)が、「和歌の原型」とされている。

悪行の果てに高天原を追放されたスサノオが、天から降り立った出雲の地で美しい娘と出会う。だが、そこには、八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)という大蛇がやってきて毎年娘達が食べられていた。娘の名を櫛名田比売(クシナダヒメ)と言う。スサノオは、娘の親と、結婚を条件に大蛇退治を請け負う。

スサノオは、櫛名田比売の姿を「櫛」に変えて自分の髪に挿し、酒を用意する。やってきた大蛇がそれを飲み、寝込んだところを剣で断ち、成敗した。退治した後、「櫛」になっていた姿を元に戻し、約束通り結婚することができた。

その後、スサノオは、比売のために宮殿を造る。その時詠まれた歌が、最初の「八雲立つ・・・」である。幾重にも重なる雲が湧き出る「出雲」の地に、妻を迎えいれる宮を作った「喜び」を表現したものになっている。宮が作られた場所は「須賀(すが)」という所で、現在の島根県安来市付近とされている。

スサノオの国づくりは、子である「大国主命(オオクニヌシノミコト)」に受け継がれ、豊かな国が形作られて行く。だが、天照大神(アマテラスオオミカミ)=スサノオの姉から、自分の子である皇孫「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」への国譲りを求められ、それまで苦労して作った国土を手放した。この時、国を譲る代わりに、国を守る神また、見えない世界を司る神として、役割を果たすことを希望する。そのために作られた神殿が「出雲大社」である。

「出雲」という場所をかなり雑駁にお話してみた。古事記や日本書紀に記載されている「日本の神話」のほとんどは、出雲とその周辺が舞台となっている。これを考えても、「出雲」という地は、「ヤマト政権」が成立する以前は、日本の中心だったと想像できる。

またまた、前置きが長くなってしまったが、今日はそんな「出雲」の「スサノオ」の和歌に詠まれた地、島根県安来市に伝わる、素朴でありながら、すべて手づくりで仕事が為されている美しい綿絣、「出雲織」の話をしてみる。

 

(出雲織・本藍染木綿絣名古屋帯 「町灯り」 青戸柚美江) 

鳥取と島根、山陰地方で古くから生産されていた綿織物。これは、古来より衣料原料として重要視されていた木綿が、江戸中期頃から、庶民の衣服として普及したため、各藩に綿栽培が奨励されたことから始まる。そして、栽培と同時に、糸を藍などで染める「紺屋」が現われ、織物も製造されていった。

島根、当時の出雲においては、東部の楯縫(たてぬい)郡や出雲郡、神門(かんど)郡などで、綿作が盛んになり、そこで織物も作られるようになっていた。特に雲州平田(現在の平田市)には、綿の市が立ち、京都や大阪の商人たちがここで作られる良質な「雲州木綿」を求めて賑わいを見せていた。

江戸の文政年間に、米子から伝わった「広瀬絣」は、幕末から明治にかけて他地域にも売り出され、広がりを見せた。この絣の特徴は、柿渋を塗られた和紙を使い、文様を広げて切り抜くという独特な型紙により、大柄な幾何学模様や絵模様が織り出されていたことである。当時の久留米絣などは、小さい絣模様がほとんどで、広瀬絣の斬新なデザインは、多くの人の目に留まった。

広瀬絣の糸は、正藍染で染められていることから、洗い映えし、生地も堅牢、耐久性があることで普及したのだが、明治になり、染料が藍から化学染料へ転換したことで、品質が低下し、次第に魅力は失われていった。つまりコストと手間は省けたが、肝心の品物としての優位性が失われたのである。1915(大正4)年には、製造会社が密集していた広瀬町(現在の安来市)で大火があり、織機類などを焼失したことで、ダメージを受け、戦後は、生産が激減した。今、織元は、僅か一軒。県の無形文化財保持者・天野圭氏と娘さんの永田佳子氏により、昔ながらの天然藍糸を使い、独創的な絵絣表現がなされた、着尺や小物類が作り続けられているが、ホンモノの広瀬絣は「稀少品」と言わざるを得ない。

 

さて、今日の品「出雲織」に話を移そう。先に述べた「広瀬絣」は、地域産品として、工場生産され、産業化されていったものだが、他に、この地域には、江戸時代より農家の女性の手仕事として、農作業の傍ら、細々と作り続けられていた綿絣があった。これが「出雲絣」である。この技法は、古くから確立され、それが代々それぞれの家に受け継がれていた。糸染めは、天然藍が使われ、その色合いにこだわると同時に、伝統的な手織りの工程が組み合わされ、素朴で美しく、その上丈夫であるという実用性に富んだ品が作られていた。

出雲絣は、一つ一つの工程に手間がかかり、大変根気が必要な仕事である。戦後農村の変化と共に、生活様式が変わり、農家女性の手仕事として、モノ作りをすることが難しくなっていった中で、現代にまで、この織物を伝えることが出来たのは、一人の農家の女性によるところが大きい。その人が、青戸柚美江さんである。

「ミッドナイトブルー」と呼びたくなるような、「深く沈みこんだ藍」の帯地色。

 

青戸柚美江さんは1927(昭和2)年、鳥取県米子市の生まれ。1946(昭和21)年に隣県の島根県安来市の農家、「青戸家」へ嫁ぐ。13人もの大家族であったため、生活の一助になるようにと、1958(昭和33)年頃から、機織を始める。

モノ作りは、綿を栽培するところから、糸紡ぎ、図案や絣作り、そして、染料の原料となる藍による糸染め、機織まですべて一人の手仕事として、行われた。忙しい農家の嫁の仕事の合間に、これだけのことをこなす苦労は計り知れない。工程の一つ一つが手を抜けない、繊細な仕事であり、それに要する時間がどれくらいなのか、想像もできないくらいだ。

先述した、広瀬絣は、江戸文政年間に、長岡貞子という女性が米子に赴き、その地で機織の技術を習得して戻ったところから始まったのであるが、この出雲絣の伝承が、同じ米子出身の青戸さんによりなされたことは、偶然ではあるが興味深い。

青戸さんが織る品物は、質の良い木綿の良い肌触りや、柔らかな風合いはもとより、センスのよい斬新な絣デザインがあいまって、次第に評判を得て行くことになる。それは、単に普段使いの綿織物という域を越え、「工芸品」としての位置が確立されるのである。

 

絣の形をわざとずらしたように形作らせた、不揃いの模様。「町灯り」と名付けられた作品の「滲む灯り」を表現するためのものであろう。「手仕事」を感じさせてくれる絣である。深い夜を地の深い藍で表現し、灯りを滲む絣で表現する。失礼ながら、とても米寿を迎えた方とは思えない、現代的なセンスをも感じさせてくれる。この辺りが、青戸作品の真骨頂であり、今、「工芸品」として高い評価を受けている大きな要因であろう。

斬新な絣の模様ももちろんだが、それ以前に、やはり良質な糸と、繊細な藍染という基本になるものの仕事が丁寧にされているという大前提があるからこそ、である。そこには、やはり「実用的で美しい」、すなわち「用の美」の意識をはっきり見ることが出来る。

 

例えば一口に、基本になる綿糸作りといってもその工程だけみれば、大変な作業の連続だ。綿栽培というものは、極めてデリケートな仕事である。種をまく時期が早すぎても、遅すぎてもいけない。5月の中頃種を蒔き、それがよく育つように「アルカリ性」の土壌にしておく。また、風に弱いので支柱をしたり、病虫害を防ぐため排水と風通しを考え、薬剤をまく。また、綿の木に多くの枝を付けさせ、綿の実が沢山取れるように、木の大きさを調整する(摘芯という)。丁度今頃から9月の秋口に花を付け、それが落ちてから実を付ける。この実のことを「コットンボール」と呼び、これが弾けることにより、「白い綿」が吹きだして来る。そして、良く吹きだしている綿を選び、収穫する。そしてようやく、「糸紡ぎ」の工程に入る。

まだ、「藍」づくりや絣づくりの話もあるが、それを書いていると当分話が終わらないので、今回は端折らせて頂くが、気の遠くなるような仕事の連続だ。

綿織物の基本は、生地そのものが実用的で耐久性に優れ、長く使い続けるという前提で作られてきた。それには、「綿の質」にはこだわりを持ち、自分が納得できる糸を取ることが重要だ。だからこそ、「綿花」作りはモノ作りの第一歩として、非常に大切になってくる。もの作りの基本は、やはり素材がいかに良質なものになっているかということが重要で、それが出来た上で、美しい絣の模様の「美意識」を含ませる。これが「用の美」を意識したモノ作りの基本と言えよう。

 

(出雲織・本藍染木綿絣着尺 「木衣」 上別府祐子)

青戸さんは、出雲織を次世代に受け継いでもらおうと、1980(昭和55)年より、この技術を学びたいと希望する女性たちを受け入れ、仕事を教え、伝え続けている。また、2004(平成16)年には、安来市が農村公園を作り、その中に「出雲織・のき白鳥の里」という施設が作られた。

ここには、「かやぶき交流棟」という、出雲織を紹介する「茅葺き」の建物もあり、そこでは、青戸さんの作品が展示されているのと同時に、その仕事の製作工程を見ることも出来る。また、青戸さんに弟子入りした女性たち(研修生)の仕事ぶりも、ここで見ることが出来る。

 

「鉄紺色」と呼べるような深い藍の地色に、舞い落ちる秋の銀杏や楓の葉が、散りばめられた絣で表現されている。「木衣」という題名は、晩秋の木に落葉が「まとう」様子、つまり、葉を木の「衣」に見立てて付けられているのだろう。

もちろん、作者の上別府祐子さんも、青戸さんの下に弟子入りし、一から出雲織を学んだ方である。今、青戸さんの意志を受け継いでモノ作りをしている方は、かなりの人数に及ぶ。この出雲織における「伝承」の仕方は、全国に散らばる希少な伝統品を残して、次世代につなげていく、「一つのモデルケース」になるように思える。

モノ作りの伝承というものは、「組織」で考えなくても、たった一人の「個人の力」と「意志」さえあれば、残していけるものになる。この点、出雲織の現状からは、大いに学ぶべきところがある。

もう一度最後に、二つの作品をご覧頂こう。

 

綿織物を工芸品の域にまで高めた、青戸さんの努力と、その現代に通じる美的センスは、本当に賞賛に値するものだと思います。ただ、一つ難点を挙げれば、「工芸品」になったことで、価格が高騰したことです。

我々小売屋では、扱い難いほどの「高額品」。最初から最後まで、一人の作家の手によるモノ作りがされてある「希少品」ということは、理解できます。もちろんデザインのセンスの良さも十分感じられます。しかしながら普段使いの「用の美」を追求したものなのに、お客様の手には届き難い価格になっていることが、私には、何か「割り切れないような違和感」を感じさせてくれます。

柳宗悦の提唱した「用の美」が施された品々では、「安価で求めやすいもの」というのが、前提になる基準だったはずです。ただ、現代では、複雑な呉服というものの流通の仕方とあいまって、希少品の価格はどうしても高くなってしまいます。

折角、青戸さんの努力により、出雲織という品物の技術が伝承されても、それを求められる人が「限られた人」になるというのは、作者の「本意」ではありますまい。この問題をどのように解決して、より多くのお客様に「出雲織」の着心地を気軽に楽しんでもらえるようにするかということを、品物を流通させている問屋や小売屋で考えていく必要があると思います。それは、多くの伝統工芸品を次世代に繋げてゆくためには、「価格をいかに抑えるか」が最大の課題になると言えるのではないでしょうか。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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