バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

山口伊太郎の織(3) 源氏物語絵巻「竹河」・春艶  金引箔袋帯

2020.02 10

1950(昭和25)年8月に施行された文化財保護法。その中の第71条第2項に、無形文化財の規定がある。それは、「演劇、音楽、工芸技術その他無形の文化的財産で、我が国にとって歴史上又は芸術上価値の高いもの」と位置付けられる。

そして無形文化財とは、「芸術、工芸技術等の無形の『わざ』そのものを指す」とされ、これを高度に体得している個人または団体を、「無形文化財保持者」とする。この保持者こそが「人間国宝」と呼ばれ、芸術界の最高峰として認定されている方々である。呉服にゆかりのある染織部門では、現在までに48人の人間国宝が生まれている。

言うまでもなく、人間国宝は人そのものではなく、その人の持つ技術を「国の宝」として守り、継承すべきものとしているが、この「国のお墨付き」の威力は絶大であり、作品にはそれだけで価値が付与され、市場価格も跳ね上がる。つまり、「人間国宝ブランド」となる訳だ。

 

「わしはそんな古臭い人間やない。『古いものを写す仕事』は、誰にでも出来る。わしはこれから、『誰にも出来ない仕事』をする」。そう言って、即座に人間国宝への推挙を断った人物がいた。紫紘の創立者・山口伊太郎氏である。

人間国宝の話が持ち上がったのは、今から40年以上も前で、氏が60歳を過ぎた頃だった。推挙の理由は、長い伝統を持つ西陣織の技術を、継承発展させ、具現してきたことに対する評価。これを聞いた伊太郎翁が言い放った言葉が、前述した「そんな古臭い人間やない」だった。

伊太郎翁が言うところの職人の価値とは、「技の継承」にあるのではなく、「技の進化」であった。そして、この新しい技術を作品に結晶させ、それを後世に残すことこそが、職人としての使命。そこには過去に捉われず、前に進もうとする山口伊太郎という人物の大きさと、職人としての気概が垣間見える。これまでの仕事を評価され、それが「人間国宝」として世間から箔付けされることなど、氏にとってはあまり意味を持たないことだったのである。

 

最後まで、西陣の織職人として生きた山口伊太郎。そんな彼が、生涯を賭けて精魂を傾け続けた、源氏物語錦織絵巻の製作。この仕事にこそ、職人を貫いた伊太郎翁の魂が込められている。今日は、そんな源氏物語錦織絵巻の一幕を、そのまま帯として再現した平安優美な品物をご紹介することにしたい。

 

源氏物語・竹河 春の玉鬘庭。 金引き箔袋帯(帯名・春艶)山口伊太郎・紫紘

1970(昭和45)年と言えば、大阪で万国博覧会が開かれた年。日本は高度成長の真っただ中にあり、多くの人が豊かさを謳歌していた時代。もちろん、呉服業界も隆盛を極めており、生産額や販売額も右肩上がりで成長し続け、作り手、売り手ともに「笑いが止まらなかった時代」だった。

和装の需要は、それまでの日常着からフォーマル着へとシフトし、高級品志向が高まりをみせる。それに応じるように、作り手も、知恵を絞って技術を改良しながら、次々と新しい品物を生み出していった。もちろん西陣の現場もこの流れに沿い、長い間蓄積された伝統的な技術をさらに発展させ、織屋ごとに個性豊かな織物が作られていた。

伊太郎翁が、源氏物語絵巻を錦織で再現しようと志したのは、西陣が隆盛を極めていた、そんな時代のただ中のことである。この年70歳を迎えた翁は、突然「これからの余生は、とことん納得のいく、誰にもできなかった織をする。これは商売抜きの織道楽や」と、宣言したのだ。

 

なぜ、作れば儲かるこの時代に、難しい錦織製作に邁進しようとしたのか。それは、大量生産のために開発された機械化と技術化が、職人の手仕事を狭め、それにより西陣本来の、分業による精緻なモノ作りが廃れてしまうのではないか、そんな危機感が根底にあったと思われる。

「今のうちに、西陣が持つ織技術の全てを結集し、後世に誇れる最高の織物を作り、残しておきたい」。おそらくこんな思いがあってこそ、源氏物語絵巻を錦織で復刻製作することに行き着いたのであろう。時代は移り、呉服業界はこの当時と比較にならないほど衰退し、多くの職人が仕事を離れ、また後を継ぐ人材も見当たらない。伊太郎翁が、「今のうちに」と考えたことは、図らずも当たってしまった。

源氏物語錦織絵巻は、2008(平成20)年3月、最終巻・第四巻が完成した。伊太郎翁が製作を志してから、38年の時が流れた。伊太郎翁は、その前年6月、試験製織を重ねた第四巻の製織を織手に命じた直後、生涯を閉じた。105歳であった。最後の最後まで、命を削りながら、平安びとの美しい装束の意匠と色彩にこだわり、一切の妥協なく「自分の求める織物」に仕上げた。

 

画像の左が、源氏物語錦織絵巻で織りなされた「竹河(二)」。右が帯。絵巻と同じ場面を、帯のモチーフにしていることが判る。

伊太郎が再現したものは、平安末期の絵師・藤原隆能(ふじはらのたかよし)の手による、いわゆる「隆能源氏」と称される絵巻物。これは、源氏物語を題材にしたもっとも古い絵巻であり、現在すべて国宝に指定されている。12世紀初め、源氏54帖全てにわたり、一帖に1~3図ずつ描かれたもので、全部で百数十図、全20巻として製作されたと考えられている。

この巻物は、江戸初期にはすでに大半が失われており、尾張徳川家に3巻、阿波蜂須賀家に1巻が伝えられただけだった。現在では、3巻が徳川美術館に、1巻が五島美術館に所蔵されている。

1992(平成4)年に、二巻が完成した際に刊行された山口伊太郎・錦織作品集の巻頭には、当時の徳川美術館館長・徳川義宣氏が次のような言葉を寄せている。「今回の源氏物語錦織絵巻は、もはや模写とか複製と云った段階の作ではなく、隆能源氏に取材した全く新たな『染織作品』と捉えるべきである」。

この言葉からも判るように、伊太郎は原画をそのまま具現したのではなく、装束や風景に新たな色の命を吹き込み、平安の優美な姿を現代にもたらした。それは、この絵巻物こそが、王朝美を表現した最高の絵画と認識していた証であり、だからこそ、最高の織物を作る題材として選んだのである。

 

源氏物語錦織絵巻で、最初に仕上がったのが、国宝絵巻第三巻にあたる「竹河」「橋姫」「早蕨」。

この帯に織り出されている図案は、竹河の第二図。春三月の玉鬘(たまかずら)邸の様子を描いている。登場人物は、玉鬘の娘・大君と中の君姉妹、それに仕える女房達。帯には表れていないが、絵巻ではその姿をそっと覗き見している夕霧の子・蔵人の少将が、描かれている。

玉鬘は、夕顔と頭中将の間に生まれた娘だが、夕顔は、源氏との逢瀬の途中で不遇の死を遂げる。玉鬘は母の死後、乳母に連れられて九州へと下国し、そこで美しく成長する。そして、土着の豪族に求婚されるものの、それを振り切り、京へ舞い戻る。そこで、夕顔の侍女・右近と再会したことが契機となり、源氏の娘として六条院に住むようになる。

玉鬘の二人の娘は、この時の年の頃は18、9歳。桜の盛りの夕暮れ時に、部屋の端に出て、御簾を巻き上げて碁に興じている。女たちの歓声を聞きつけ、その様子をのぞき見した蔵人の少将は、姉の大君に思いを寄せているが、その美しい姿によりいっそう心を奪われてしまう。この図に描かれているのは、華やぎに満ち溢れた、そんな春の姿である。だから、帯の名前にも「春艶」と付いている。

 

艶やかな姫君や女房達の衣装。幾重にも重ねたお召物の姿は、文様と配色を変えながら、立体的な姿として映し出されている。

長い髪のリアルさや顔の表情は、これが本当に織の表現なのかと、その精緻さに思わずため息が出てしまうほどだ。

この図のもう一つの主役は、咲き誇る桜。絵巻の原図では、桜花はほとんど落ちていて寂しい風情を見せているが、伊太郎絵巻では、匂うばかりの盛りの姿になっている。

桜花を拡大すると、一輪ずつ色合いが違っている。絵巻では、桜花は白の緯糸だけで織り上げ、下には薄紅の色が敷いてある。そこで、浮かした花弁の白糸を切ると、下の薄紅色が見えてくる。こうした工夫を施すことで、見る方向により桜花の色は、白にもピンクにも見え、匂い立つような花姿となる。この角度によって見える色が変わる部分は、新しい技術を開発したことで、特に「伊太郎織」という名前で呼ばれている。帯にも、この絵巻の桜姿が意識され、微妙に糸の色を変えて、丁寧に織り込まれている。

また、桜の木には陰影が付けられて、立体的に見えているが、織では友禅のように、細い線や暈しといった写実的な表現を見せることは大変難しい。そこでこれを解消するために、緯糸の織密度を上げ、そこに各色に緯糸を織り込むという複雑な技法が用いられている。こうして色を変えつつ細糸を入れると、微妙に色の差が付いて「暈し」のような見え方となる。

 

帯の前姿は、御簾の陰に佇む姫君と桜の木をあしらう。

寝殿造の用度品として、欠かせない御簾。この道具に隠れた人物をどのように表現するのか、織では大変な難題である。そして、この姿を美しく織り出すことが出来なければ、絵巻として完成しない。これは、仕事の成否に関わる重要なあしらいである。

部屋の間仕切りとして使う御簾の内外では、人の姿や装束の色が異なる。この姫君の髪を見ても、お太鼓の姿は黒髪で、御簾を通したこちらの姿は、少し退色した髪色になっている。

絵巻では、褪せた色糸を緯糸に使うことで、こうした御簾の内側と外側の色彩変化に上手く対応している。この「透ける表現」は、緯糸の色の明度を変えたり、糸組織の量感を変えることで可能になる。地を形成する経糸と緯糸、模様を形成する経糸と緯糸を、文様一つ一つの箇所ごとに、組織と密度、糸の太さを変えながら何層にも織る。この複雑な織物設計の技術があって、奥行きや立体感のある図案が表現できるのだ。

 

完成した錦織絵巻には、微に入り細にわたる施しが、その全てに見て取れる。前述した御簾越しに見える人物の姿を始め、着ている夏衣は、肌が透けて、下の衣装の文様が浮き上がっている。花の色、樹木の枝の曲がり、御簾の目の揺るぎ、髪の毛の乱れ。どれ一つとっても、織とはとても思えないリアルで見事な質感が表れている。

 

そして豊かな色彩は、平安貴族の美しい装束がそのまま現代へと映し出されたように、優美な姿として見る者に感銘を与える。この「春艶の帯」は、伊太郎翁が丹精を込めた錦織絵巻を、そのまま帯とした、まさに伊太郎織を代表する品物と言えよう。

こうした品物を、皆様にご紹介できる喜びを、私もしみじみと感じている。最後に、錦織絵巻の扉見返しにあしらった「桜散らし」を、そのまま帯図案にした品物と一緒に、もう一度「春艶」をご覧頂き、今日の稿を終えることにしたい。

 

伊太郎翁の後を継いだ息子さん、紫紘の現社長・野中明さんは、「品物を創り続けるためには、材料と職人を全部残し、織りの環境を整えなければならない」と話します。

帯の需要が極端に少なくなった今、モノ作りのリスクを抱えることは、経営の面から考えれば、並大抵の覚悟ではありません。これを裏付けるように、紫紘の人材配置は、営業に人をあまり掛けず、現場にはしっかり人を残しています。そして、品物はむやみに流さず、きちんと質を弁えた店にしか卸さない姿勢が貫かれています。

伊太郎翁の心は、今も、紫紘の人々や帯の中に、生き続けています。「人間国宝にしてもらうことなんか、ワシにはどうでも良いことだったのや」という声が、どこからか聞こえてきそうです。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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