バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

昭和の加賀友禅(10) 松本節子・花籠に秋草文様 色留袖

2024.06 04

加賀友禅の品質管理や技術保存、そして作家の落款登録を担っているのが、加賀染振興協会である。発足は1953(昭和28)年と古いが、協同組合に改組されたのは20年後。これは1975(昭和50)年に、伝統工芸品として認定されることを睨んでのこと。以来今日まで一貫して、組合が金沢産地の中心として役割を果たしてきた。

協会では、作家として協会員の資格を得ることや、技術者の証・落款登録に関わる規定を定めており、いずれにおいても、5年以上は工房を営む師匠の下で修業することを条件にしている。現在の落款登録者は124名を数えるが、最盛期と比較すると、約三分の一にまで減っている。これはバブル崩壊以降、30年の長きにわたる呉服市場の低迷により、作家へ依頼される品物の数が大きく減ったことが主な原因である。折角技術を持ちながらも、友禅の仕事に見切りを付ける落款保持者が続出し、同時に、新たに落款登録して作家を目指す「若い後継者」が育っていない。こうした作家の減少は、産地の衰退を如実に示している。

 

そもそも加賀友禅は、地元の産地問屋が作家に仕事を依頼し、制作した品物はすべて買い上げるという、問屋主導の完全受注生産方式で行われている。金沢の産地問屋が、東京や京都の集散地問屋に品物を売り、そこから大手百貨店や専門店が仕入れを起こして、店先に並ぶというのが、従来から続く加賀友禅という品物の流れになっている。

この構図だと、川下の小売で品物の売れ行きが鈍くなれば、当然川上の問屋では生産を絞ることになる。そうしなければ、自分の首が絞まるからだ。そして不況が続けば続くほど、比例して作家への依頼数が減っていく。この状態が30年も続けば、否応なく産地は疲弊し、作家を目指す者などいなくなる。たとえいたとしても、現状では友禅の仕事で飯を食べることがかなり難しい。

呉服全体の市場規模は、昨年度2240億円と前年より僅かに増え、コロナ禍での落ち込みから少しばかり回復基調にある。けれども、ピークであった1981(昭和56)年の1兆8千億と比較すれば、88%もの減少になり、その長期低落傾向には歯止めが掛かっていない。生産規模の縮小が職人を直撃し、市場に品物が出回らなくなる。この傾向は、加賀友禅ばかりでなく、ありとあらゆるモノづくりの現場で進んでいる。

 

加賀友禅の生産ピークは、バブル経済全盛の1990(平成2)年頃。その市場規模は200億円とも言われ、品物は一挙に高級化した。「作れば、売れる時代」であり、作家の中には石川県の長者番付に名前を連ねる人もあったほど。この時代友禅の仕事は、十分に生業になっていたのである。

需要がありさえすれば、そこに手を尽くした上質な品物や、斬新な意匠の品物が生まれる。この頃はまだ、レジェンドと言われた昭和の作家たちが大勢活躍しており、それはまさに百花繚乱とも言える時代であった。このブログで不定期にご紹介している、昭和と平成に製作された良質な加賀友禅作品。今日はそんな中から、昭和を代表する女流作家が制作した、繊細な色彩の色留袖を取り上げることにする。

 

(薄グレー裾暈し 花籠に秋草文様 色留袖・松本節子 小金井市・I様所有)

手元に残る加賀友禅落款名簿の中で、1978(昭和53)年4月発行のものが、最も古い。これは、加賀染振興会が作成した初めての作家名鑑と思われる。この当時はまだ、別組織の「加賀友禅技術保存会」の代表運営者会員五名の名前は、同時に掲載されていない。この最初の名簿に記載されているのは74名で、そのうち女性は僅か6名(大村洋子・清水千鶴子・中井節子・松本節子・山下とし子・和田外美子)であった。

この昭和女流作家の系譜を辿っていくと、清水千鶴子と中井節子の師匠が毎田仁郎、大村洋子が押田正義、山下とし子が藤村加泉、和田外美子が由水十久、そして松本節子が木村雨山である。加賀友禅最初の無形文化財保持者(人間国宝)として認定された木村雨山。松本節子はその雨山の六人の直弟子(他の五名は毎田仁郎・金丸充夫・押田正義・奥野義一・嶋達夫)の一人で、唯一の女性。なので、最初に名簿記載のある六名の女性の中でも、やはり特筆されるべき作家と言えるだろう。

 

雨山の直弟子六人のうち、五人の男性作家はいずれも弟子を養成し、後に系譜を残した。けれども、松本節子は唯一弟子をとっていない。そして自分の落款には、師匠である雨山の名前を入れて、「雨佳(うけい)」と名乗った。雨山の弟子で、落款に「雨」の文字が入るのは、彼女だけである。そこにはおそらく、師匠への畏敬の念、そして特別な思いがこめられているはずだ。

木村雨山に直接薫陶を受けた、いわば「秘蔵っ子」と言える雨佳さんは、昭和という時代の中で、どのような作品を描いたのか。その模様姿を、これからご覧頂こう。

 

地色は僅かに青磁色を感じる薄いグレーで、裾が淡い黄土色で暈されている。上前衽から後身頃にかけて水の流れがあり、所々には、秋草を入れた籠を浮島の上に置いている。一つ一つの草花の描写は細かく、模様そのものは小さい。しかし、繊細な挿し色と巧みな暈しのあしらいで、花籠に盛り込まれた花には、楚々とした美しさを感じる。

秋の七草を発祥とする秋草文様は、どことなく寂しさを含んだ、秋の野の落ち着いた風情を感じさせるものが多いのだが、このキモノに描かれている秋草には、華やかな明るさがある。しかも上品さを伴い、第一礼装に準ずる色留袖の図案として相応しい。控えめでありながらも、模様に作者の力を感じる作品である。

 

雨佳さんは、1947(昭和22)年に金沢市で生まれ、二十歳の時に雨山の内弟子になった。うちの店に残る古いスクラップブックの中に、彼女の仕事を取り上げた新聞の切り抜きがあり、それが松本節子という作家の素顔を知る、数少ない貴重な資料になっている。日付けは、1980(昭和55)年・11月。この時、雨佳さんは三十三歳で、すでに作家として独立していた。

新聞コラムの中で、「学生の時、青森の恐山へ行って、怨霊を呼ぶイタコ(巫女)の話を聞き、その土地に密着した女の生き方を学びました。そして、金沢に生まれた私の生き方は何かと見回したら、そこに友禅があったのです」と、作家の道に入る動機を語っている。金沢生まれの彼女が、加賀が誇る友禅の仕事に入るのは、霊の代理者・イタコの口寄せだったとは、何とも運命的である。

 

模様中心の上前衽と身頃には、ひときわ沢山の花を盛り込んで、模様を印象付けている。萩や菊、撫子に囲まれ、真ん中で白い花弁を広げているのは、芙蓉の花であろうか。この花も、秋草同様に、夏から秋にかけて花が開く。中国では古くから、その美しい姿が愛でられ文様化されていた。

一つの花に約50個ほど付いている蕊や、一枚一枚の葉の葉脈は全て形が違い、その丁寧な糸目引きの姿が、模様から伺える。葉の色は全てにおいて微妙に違い、どれも加賀特有の暈しを自在に取り込み、図案に独特の深みを持たせている。

緑や青の寒色系の挿し色が目立つ中、菊と女郎花の一部に使っている鮮やかな赤紫が、模様にアクセントを与えている。赤と群青の菊花には、加賀特有の「外から内に向かう暈し」の技法が見られる。

上前裾近くの模様の中に、小さな筒状の模様が見える。これは花籠ではなく、花筏を描いた一部かも知れない。挿されている澄んだ青の色は、上の菊花と同じ色。すっきりと引き締まったこの色も、模様を印象付けるポイントになっている。

 

後身頃へと続く模様は、撫子を入れた花籠を中心に、桔梗や萩、女郎花などをまとめた浮島を流れの中に浮かべ、前姿から後姿までを「一幅の絵」としている。着姿になると、この模様の流れがより強調されて、見る者の目を楽しませる。手を尽くした模様は、着た時になお、その美しさがはっきりと表れるように思う。

竹で編んだ籠の色は、上前の花筏と同じ澄んだ青。模様に見られる花入れの道具は、全てこの色なので、そこに作者の意図が伺える。おそらくこの色を決めてから、そこに入れる花の挿し色を決めたのだろう。あしらった撫子、萩、女郎花の色はどれも優しい。

上前横の脇のところには、小さな桔梗の花が付いている。ここにも、丁寧な暈しが施されている。上質な加賀友禅は、模様を仔細に見れば見るほど、作家の手を尽くした技を理解出来る。それはいつまで見ていても、全く飽きが来ない。

上前の丸みを帯びた菊花とは違って、こちらの花弁は鋭角に描かれている。同じ花種でも、図案を変えることによって、かなり印象が変わってくる。ある時雨佳さんは、自分が描いた葉を見た師匠の雨山から、「良くないな、刀をみてごらん」と短い一言をもらった。それは、図案に切れ味が無いということ。つまり、研ぎ澄まされていないという意味であったのだ。こうした師匠との禅問答を繰り返す中で、彼女は腕を磨いていったのだろう。当然そこには、血のにじむような忍耐と努力があったはずである。

 

長方形の中に、少し角ばった字体で「雨佳」と入る落款。本名は節子なのに、何故「佳」を使ったのだろうか。本当のところは判らず、これは私の想像だが、佳には「美しい」とか「優れた」という意味がある。これを雨の字の下に置けば、雨山の下で生まれた美しい作品となる。彼女の落款には、育ててくれた師匠・雨山への感謝の気持ちが込められており、そこに雨佳さんの控えめながらも、仕事に対する凛とした姿勢が見えるような気がする。

最初の三年間は、掃除や洗濯など身の回りの世話をしながら、合間にスケッチを繰り返し、やっとのことで下絵を描く許可をもらった。最初に選んだ題材が、一番好きな花・フリージアだったのだが、見せたところ師匠は「ふん」と言ったきりで、全く反応が無い。そして、書き直しても書き直しても、何の返事もない。それが嫌になるほど、長く続いたが、雨佳さんは根負けせずに描き続けた。書くのを止めてしまったら、そこから先は無い。そんな葛藤があったからこそ、作家としての彼女の才能は開花したのだ。

 

こうして、改めて雨佳さんの作品を仔細に見ると、彼女には他の加賀友禅作者とは違う、独特の繊細さがあるように思う。上手く言葉では表現できないが、一つの花、一枚の葉の姿も疎かにしない、魂のようなものが図案に垣間見える。ジェンダーの世の中なので、あまり使うと叱られるが、そこには「女性らしい優しさときめの細かさ」が溢れているのだ。それはまさに、「雨山の下で生まれた、美しい作品」である。

新聞コラムの最後では、「気に入った図案が浮かばない時は、いつまでも堂々巡り。何度辞めたいと思ったことか。でも傑作が出来た時の感激で、また描く勇気が湧いてきます」と、雨佳さんは静かに語っている。こうして半世紀近く経っても、全く色褪せることのない作品。改めて今回、この素晴らしい品物をブログ記事に使うことを快諾して頂いたお客様・I様には、この場を借りて感謝を申し上げます。では最後に、もう一度画像をご覧頂いて、今日の稿を閉じることにしよう。

 

染にしろ織にしろ、一定以上の質を持つ品物は、必ず「人の手」を経て作られています。そうした技術を継続させて、上質なモノを後世に残していくには、やはりどうしても、一定数の需要が必要になります。しかし現状では、求められる方は少なく、この先の見通しも実に厳しいものがあります。

「良いモノを長く使いたい」方が、全くいなくなることはありません。けれどもお客様が、求めたくても求められない、そして現場では作りたくても作れない、その上に、直したくても直せない危機が、ひたひたと迫っているように思います。その場限りの形骸化した衣装としてしか、和装が残れないとすれば、それは固有の文化とそれに連なる技を、放棄したことに他なりません。本当に、「今、そこにある危機」が現実に押し寄せてきていることを、実感しています。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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