バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

母が遺した品々(1) 南蛮模様 手描き友禅黒留袖・北秀

2017.07 08

モノを持たずに暮らす人のことを、ミニマリストと呼ぶ。必要最低限のモノしか持たず、シンプルに生きる。こんな人々が注目され始めたのは、今から10年ほど前だ。

無駄なモノを徹底的に省くというのは、「もったいない」という精神からの決別かと思う。多くの人は、「まだ使える」とか、「いつか使うかも知れない」とか、「高かったから捨てるには忍びない」と様々な理由をつけて、モノを溜め込む。

そうこうしているうちに、収拾が付かなくなり、モノに埋もれて生活するようになる。片付けるにも、収納スペースが足りず、終いには途方に暮れて、身動きが取れなくなる。思い切って処分すれば楽になると考えてはいるが、それが出来ない。

モノを求めず、モノに執着せず、不必要なモノを捨てる。ミニマリストの基本は、「断捨離」だ。現在の自分の生活で、本当に必要なモノは何かを見極めた後、これまで持っていた品物を排除していく。戦後、モノの豊かさを追い求めてきた日本人の価値観を、根底から覆すような生き方をする人々が現れたことは、一つの時代の曲がり角に行き当たったとも言えよう。

 

では、「捨てられない人々」とは、どんな世代なのか。それは、我々のような50歳代の親世代から上の人たち、つまり先の戦争前に生まれた人たちに、その傾向が顕著かと思われる。

モノを捨てないというのは、モノを大切にすることの裏返しだ。戦前生まれの方々には、戦争中あるいは、戦後混乱期の「モノの無い時代」に生きざるを得なかった経験が、身に浸み込んでいる。食べるモノが無く、着るモノが無く、住むところが無い。この強烈な生活体験があるからこそ、モノが捨てられない。

 

ここ二年の間に、私も家内も母親を亡くした。そろそろ遺品を整理しなければと、部屋に入ってみたものの、どこから手を付けて良いのか判らないほど、モノがあふれている。とにかく、何もかも捨てずに残っている。使うか使わないかは、全く関係ない。

けれども、そんな遺された品物の中で、キモノや帯は特別だ。特に、私の母の箪笥に残る品物には、「呉服屋のおかみ」として過ごしてきた時代そのものが感じられる。

それは呉服屋が、一番華やかだった時代を生きた証でもある。そこで、呉服屋あるいは呉服業界が、もっとも輝いていた昭和の時代に、母が使っていた数々の品物を、このブログで順次ご紹介していこうと思う。

品物を見て頂くと、通り過ぎてきた時代では、いかに上質な仕事がなされていたのかということも、皆様に判って頂けるのではないだろうか。

 

(南蛮模様 手描き京友禅 黒留袖・北秀  1988年)

改めて母親の箪笥を開けてみると、フォーマルモノは驚くほど少ない。黒留袖と色留袖が一枚ずつあるくらいで、訪問着や付下げの類はほとんど無い。せいぜい無地と江戸小紋があるくらいのものだ。従って、袋帯も少ない。

遺された品物の大多数は、カジュアルモノ。毎日、店に出るときに着用した、いわゆる仕事着である。ほとんどが、紬と小紋。しかも多様な帯合わせが出来るような、無地に近いものや、クセの無い柄のものがほとんどである。

そんな訳で、一番多いモノが名古屋帯。織帯にしろ、染帯にしろ、ありとあらゆる色、模様のモノが揃っている。濃地から薄色まで揃えた上で、旬を意識しながら、帯を組み合わせていたことが判る。

 

遺されたカジュアルな帯を見ると、母親の好みが見えてくる。それは、オーソドックスな模様ではなく、文様を巧に図案化したような、モダンで都会的なものが多い。上品で大人しいものよりも、個性的でクセのあるお洒落な帯を選んでいたことになる。

私の父は、少し堅苦しいと思えるような、無難な模様を選んで、店に置いた。クセの強い柄だと、売れ残るリスクが高くなるという、経営者としての考え方が強かったからであろう。無論、モノ選びに間違いはないのだが、面白みには欠ける。きちんと職人の手が入っていることは大前提としても、オーソドックスなだけでは、専門店としての個性が出てこない。

母は、そんな父とは対照的に、あまり使わないようなモチーフや、配色のものを好み、人と違う着姿になることを念頭に置いた。特に、「カジュアルモノに使う帯こそ、個性的でなければ」と考えていたように思う。だから、父だけに仕入れを任せておくと、店に置く品物が偏ってしまうと言って、取引先へ付いていくことも多かった。

 

モダンさが感じられる品物を好む今のバイク呉服屋の趣向は、どちらかと言えば母親に似た好みなのかと思う。性格も、神経質な父親ではなく、おおらかな母親に似た。

彼女は、私が呉服屋になることを望んだことは一度も無く、そんな話をしたことも無かった。また、私の若い頃の行状を考えたら、「とても後を継ぐようなタマではない」と判っていたのだろう。そんな息子が家業を継いだのは、晴天の霹靂だったに違いない。

母の遺したモノとして、最初にご紹介する今日の黒留袖。これを見ると、全く当てにしてなかった息子が家の仕事を継ぎ、その上嫁さんまで連れてきたことを、本当に喜んでいたことが判る。手を尽くした友禅の仕事と、モダンで個性的な南蛮模様。母の好みが感じられる、第一礼装の品物である。

 

当然黒留袖は、裾模様だけで、後は真っ黒なのだが、こんな個性的な模様配置の品物には、あまりお目にかかったことがない。模様の中心・上前のおくみには、縦に三つの正方形が並ぶ。そして、上前から後身頃にかけて、同様に五つの正方形図案が並ぶ。また、着姿からは見えない、下前のおくみにも二つある。全部で十個もの方形模様が、一枚の留袖にあしらわれている。

細かい唐草模様の正方形で囲まれた図案は、十個全てで異なる。孔雀や鳳凰に似せた鳥、南蛮船、大きな唐花などをモチーフにしている。それは、日本的な古典文様ではなく、安土桃山時代に栄えた南蛮貿易での渡来品や、キリシタン大名の装飾品を思わせるものばかりだ。そして、一つ一つの図案を見ていけば、そこには糸目置き、色挿し、箔置き、刺繍と、巧みな職人よる精緻な友禅の仕事ぶりが伺える。

では、そんな模様のあしらいを、じっくりと見て頂くことにしよう。

 

模様の中心、上前おくみと身頃の図案。

衽最上部の花文様。窓枠の中の唐花は、花十字文様。風車のような形に図案化した花だが、十字架を唐花で装飾した文様と見ることも出来る。島原や五島列島のキリスト教会の会堂の天井や窓には、これと良く似た模様で装飾されたものが見られる。また、キリシタン大名の城瓦にも、同様のものがある。

衽真ん中の孔雀。白い羽根を広げた美しさは、この鳥にしか見られない絢爛さがある。すでに奈良期には、中国から伝えられた鳥だが、キモノの図案として意匠化したのは、桃山期以降から江戸期にかけて。

衽最下部の鳥。鳳凰を思わせる姿だが、正倉院御物の中の鳥姿とは、微妙に異なる。もちろんこの鳥は、中国の伝説に基づく架空ものだが、描かれるその姿は時代と共に変わっていった。平安期以降に見られる天皇の御袍(儀式に使われる束帯)にあしらわれた有職文様・桐竹鳳凰文様の中の鳳凰は、頭がニワトリで、羽根が鶴、尾が孔雀である。そんな鳳凰と比べると、この留袖に描かれた鳥の姿は、模様のイメージが違っている。

 

そして見て頂きたいのは、模様にあしらわれている技だ。花十字や、孔雀や鳳凰は、刺繍が多用されている。技法も、縫い切り、まつい縫、駒縫、割り縫と多彩だ。また、箔の置き方にも、模様により表現が変わり、その都度違う技法が駆使されている。

例えば、鳳凰の背景にある箔は、ひび割れたような姿になって表現されているが、これは、「もみ箔」という加工の方法がとられている。亀裂が入る箔模様は、まず箔を糊で貼り付けたあと、一度乾燥させてから、手で揉む。そうすると箔がひび割れて、ローケツ染のような模様姿になる。

無論、縫いや箔のような付属的な加工で表現されているところ以外は、糸目糊を置いて色挿しをする「手描き友禅」。一つの模様だけを見ても、下絵、糊置き、色挿し、箔置き、縫いとそれぞれの職人が精魂を傾けた、まさに「分業」のキモノである。

 

後身頃に廻る模様。後姿からだと、この模様が見えてくる。

後身頃には、背縫い境に、左右二つずつ図案が付いているが、この南蛮船模様は、一番左端のもの。

日本とヨーロッパの関わりは、1543(天文12)年、種子島に来航したポルトガル人が持ち込んだ鉄砲(火縄銃)と、6年後の1549(天文18)年、鹿児島に現れたスペイン人宣教師・フランシスコ=ザビエルのキリスト教伝来に始まる。その後、戦国の世が終わり、信長・秀吉が支配した安土桃山期になると、ヨーロッパとの交易は奨励され、多くのスペイン・ポルトガル船が来航するようになった。

スペイン人やポルトガル人は、「南蛮人」と呼ばれ、その船を「南蛮船」と呼んだ。南蛮船の拠点はマカオにあり、ここを経由して、多くの文物が運ばれた。そのため、ヨーロッパの品物はもちろん、中継地の東南アジアや中国(明)の産品なども、交易品となった。

安土桃山期の狩野派絵師・狩野内膳の「南蛮屏風」には、交易の様子が克明に描かれているが、その中には、この留袖の図案のような交易帆船の姿がある。

月桂樹の冠を連想させる花文様。この花は、キリスト教においては、聖なる樹であり、特別な意味を持つ。衽に付けられた花十字模様にしても、この月桂冠模様にしても、やはり南蛮模様を意識すれば、キリスト教に関わる花の文様は欠かせない。

南蛮船が来航し始めた1582(天正10)年には、キリシタン大名の大伴宗麟・有馬晴信・大村純忠が、自分の名代として、4人の少年(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ)をローマ教皇のもとへ派遣している。この少年使節が、日本という国の存在を、ヨーロッパの国々に知らしめることとなった。

モチーフは良くわからないが、鏡台のようにも見える。付属的に添えられている花文様は、一つとして日本的なものはなく、唐花ばかりである。

ここにも孔雀を描いている。衽の孔雀より、もっと大きく羽を広げている姿。羽を一枚ずつ見ると、微妙に形が違う。細部にわたる細やかな糸目引きと色挿しが見受けられる。手描き友禅ならではの、写実的な孔雀の姿だ。

 

十枚の方形図案のうち、衽と後身頃にあしらわれた六つの模様を見て頂いた。この黒留袖に限らず、キモノや帯に使うモチーフのほとんどは、正倉院に関わりのあるものか、平安期以後に確立された有職文などの、日本固有の古典文様に限られており、ある程度パターン化されているとも言えよう。

そんな中において、この南蛮文様は異彩を放つ。使われている花や鳥、道具は、日本的ではなく、かと言って正倉院由来のものとも異なる。またヨーロッパ的ではあるが、過度にバタ臭くはない。どこか垢抜けていて、モダンな明るさを感じる、そんな不思議な印象を持つ留袖である。個性的な図案を好んだ、いかにも私の母親らしい品物と言えよう。

 

この留袖を製作したのは、稀代の染メーカー・北秀商事。1988年製作ということは、この会社が倒産する8年ほど前に作られたものである。当時の北秀は、職人の手を尽くした京友禅、江戸友禅の品物を多く手掛けていた。その上で、ありきたりではない、斬新な図案をよく使った。この南蛮模様も、そんな作品の一つである。

高級品の需要が減り続けている現代では、この留袖のように、友禅の技を駆使し尽くすような品物を作るリスクは、ほとんど誰も背負わない。また、人の目を惹くような新しい図案を生み出す力も、メーカーには残っていない。

時代の変化とともに、モノ作りも変容した。この品物一点を見ても、当時と今とでは、天と地ほども違いがある。いかに母親の生きた時代が、呉服屋にとって良い時代だったのかが、判る。私も、こんな時代に仕事をしたかったと、つくづく感じる。

 

最後に、南蛮模様黒留袖に合わせた帯を、御紹介しよう。

(金地 宗達緑映錦 袋帯・龍村美術織物  1988年)

帯の名前に入っている「宗達」とは、江戸初期に活躍した琳派を代表する画家・俵屋宗達のことを指す。代表作・風神雷神図の背景には、まばゆいばかりの金箔があしらわれている。この、煌びやかで端麗な琳派の装飾画をイメージして、龍村が織り上げた帯なのであろう。

図案のモチーフは、竹笹模様だけのシンプルな帯。「緑映」と名付けているだけに、まばゆいばかりの金地色に、笹の緑が映える。南蛮模様の黒留袖とは全く対照的な、日本らしい模様である。宗達が生まれたのは、南蛮貿易が始まった1570年頃とされ、それから江戸初期にかけて活躍した。とすれば、キモノの図案と帯の図案は、時代が重なっている。

 

最後に、キモノと帯を合わせた画像を、どうぞ。

母の遺した品物というテーマの中で、まずは第一礼装に使った黒留袖と帯を御紹介してみた。父の話によれば、この品物を選んでいる時の母は、本当に嬉しそうだったようだ。今考えれば、後を継ぐはずのない息子が店に入り、マトモに結婚してくれたことで、少し肩の荷が降りたのだろう。

昭和一ケタ生まれで、戦争の苦労もあったが、呉服屋のおかみとしては、良い時代を過ごしてきたのではないか。同じ仕事を受け継いだ者としては、少し羨ましく思う。

 

モノに執着しないというのは、ある程度必要でしょうが、思い入れのあるキモノや帯は例外かと思います。特にフォーマルの場で着用した品々は、それぞれの家の節目で使われてきたもの。それは、家の歴史を彩る大切なモノと言えましょう。

そして、良質な仕事が施されている昔のモノほど、貴重であり、今ではとても作りようも無いモノも沢山あります。「キモノなんて着ないから、処分する」と考える前に、ぜひもう一度、品物を使い続けてきた人に、思いを馳せて頂きたい、そう思います。

 

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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