何といっても、町家(まちや)が立ち並ぶ小径が、いちばん京都らしい。
通り沿いの窓に付けられた紅殻(べんがら)格子は、部屋の中に外光を取り入れるための工夫で、中から外は見えるが、外から中は見えない。プライバシーを守るための工夫とも言えようか。
外壁の前の犬矢来(いぬやらい)は、その名の通り、犬の放尿が出来ないようにするためのもの。これがあるために家の中に入りにくくなっている。いわば泥棒除けであり、セキュリティという位置づけでもある。
町家というものは、玄関が狭く、中はウナギの寝床と言われるように、かなり奥行きがある。玄関から、最奥にある裏庭まで、走り庭と呼ばれる土間が付けられているが、これがうねうねと長いのだ。この、家の中を通り抜ける一本の道のおかげで風が通り抜け、いわば自然の空調の役割をも果たしている。
このように、様々な工夫が凝らされている京町家の原型は、すでに平安中期頃には現れ、江戸中期に完成を見ている。形式は時代を追って少しずつ変化してきて、大正末から昭和初年に建てられたものが、最後の様式となっているようだ。
今に残る町家は、京都の歴史や文化そのものを感じさせてくれる。今日から二回にわたり、明治初年の町家の姿をそのまま残す、老舗帯メーカー・帯屋捨松さんを、取引先散歩としてご紹介することにしよう。
帯屋捨松・本屋前景。
私を捨松さんに案内してくれたのは、もちろん、西陣のアンネ(あんね~)こと、帯買い継ぎ問屋・やまくまの山田さんである。(彼女のことは、今年1・17の取引先散歩・6で詳しく書いたのでご参考にされたい)
普通小売屋が、捨松さんへ直接伺って品物を見せて頂くというのは、かなり難しい。帯の流通というものは、メーカーから買い継ぎ問屋、さらに大手問屋、そして小売屋という経路を辿る。通常ならば、小売屋であるバイク呉服屋とメーカーの捨松さんの間には、二つの問屋が挟まっている。
実際やまくまさんが商品を卸すのは、小売屋ではなく大手や地方の問屋であり、小売屋との直接取引はほとんどない。だから大抵の呉服屋ならば、捨松さんの帯を見ることが出来るのは、買い継ぎ問屋から仕入れをした大手問屋でということになる。
やまくまと捨松の関係は、かなり古い。創業者・熊五郎氏の代にはすでに取引があったと思われる。今でこそやまくまは、西陣北方の北山・紫竹に移ってしまったが、ほんの7,8年前までは智恵光院の門前に店があった。
この元の店と捨松は目と鼻の先、歩いて数分である。智恵光院の北側を東西に通るのが、笹屋町通。西陣を南北に貫く智恵光院通と、この笹屋町通がクロスする角を東へ入ったところが枡屋町になる。やまくまのお嬢さんだった山田さんにとって、おそらくこの辺りは小さい頃から遊び場だったはず。まさしく、西陣のまん中で育った方である。
西陣というのは、周囲5kほどの狭い地域の中に密集していて、一本一本の通りの幅も広くない。織屋が集中している通りは、捨松のある笹屋町通りと、その一本北の筋にあたる元誓願寺(もとせいがんじ)通りである。ここには、古い何軒もの機屋や問屋が京町家の姿を残したまま、点在している。
元誓願寺通は、浄土宗西山深草派の総本山、誓願寺が平安遷都の際に西陣に移されたことからその名が生まれた。この寺は、奈良白鳳期に天智天皇の勅願寺として創建されたのだが、桃山期の豊臣秀吉による京都市中改編の折に新京極通に移転し、現在に至っている。「元」とついているのは、このような理由からだ。
「御帯所」と黒地に白く染め抜かれた暖簾が掛かる、捨松の正面玄関。
捨松の帯と言えば何といっても、他では見られない洗練された図案と、大胆な色を駆使した「しゃれ帯」だろう。オリエントやエジプト、ヨーロッパなどの様々な文様を図案化し、帯の柄として採用している。古典でありながらモダンであり、豊かな発想力と文様に対する洞察力を伺い知ることが出来る。
捨松の歴史は古く、創業は江戸安政年間(1850年代)に遡る。しかし、現在のような独創的な品物を作り始めたのは、終戦後になってからである。現在の社長、木村博之さんは7代目に当たるが、その二代前・現社長の祖父に当たる5代目四郎氏が、西陣の図案家である徳田義三氏に弟子入りし、新たな作品作りへと踏み出したところから始まる。
徳田義三という人物は、温故知新という言葉をそのまま体現したような、稀有なデザイナーであった。古い裂の出自を研究し尽くした上で、現代の図案へとアレンジを施す。大胆な色や図案は、それまでの帯の柄には見られない斬新なものであった。古典の美を生かしながら革新する、これが息づいているのだ。
四郎氏の跡を継いだ6代目弥治郎氏も、四郎氏同様に徳田氏に師事し、伝統の中に新しい風を吹き込む品物作りに邁進する。社長を博之氏に譲った現在でも、図案師としては現役で、孫のような若い人とともに新たなモノ作りをしている。
屋根上に置かれたガス灯が、明治の京町家の雰囲気をかもし出す。ガス灯の「帯屋」の文字と暖簾の「捨松」の文字は、共に徳田義三の手によるもの。
捨松には、十数人のスタッフが働いているが、その半数が若い人である。入社した者がまず覚えることは、手機を使い機を織ること。帯屋として、どのようなモノ作りをするのか、身を持って体験することから始める。人を育て、品物を未来へつなげるという姿勢の表れである。
また、技術の継承という面でも答えを出している。これは分業から脱却し、全ての仕事を一人で出来るような人材育成をしているということだ。図案作り(紋図)から緯巻き(ぬきまき)、整経、製織など、これまでは工程別にそれぞれの職人がいた。これらの仕事が一人で出来るようになれば、円滑にモノ作りが進められると同時に、技術を保持することも出来、個性も生まれる。
捨松の仕事に携わる人は、デザイナーでありクリエイターでなければならない。若い人に課せられたハードルは高いが、これがモチベーションにも繋がる。つまりは、捨松の名に相応しいモノ作りを任される責任感が生まれるのだ。
捨松のHPに載せられている現社長の言葉の中に、「良いものを生み出すには、スピードと利便性に流されず、時間をゆっくり使いながら無駄を省かないこと」とある。モノを作ることは、それを生み出す人を作ること。人作りの姿勢を見れば、その会社が何を目指しているのかわかるだろう。
昭和から平成に変わる頃、捨松には大きな節目があった。この頃、カジュアルモノの低迷に伴い需要が減ると共に、手織り職人や技術者の高齢化と担い手不足が深刻なものになっていた。このままでは、良質なモノ作りは出来ず、技術が廃れてしまう危機を迎えることは、避けられない。
そこで、ある決断を下す。それは一部の生産を中国で行うことにしたのだ。しかし、これはある意味「賭け」でもあった。
当時の中国製品というのは、「安かろう、悪かろう」というイメージが払拭されていなかった。これに関しては、私にも思い当たるフシがある。
帯の生産で、最も早く中国にシフトしたのは綴(つづれ)だった。これは、帯の中でもっとも人の手を要して生産されるもの。だから人件費の安い中国で織らせることで、製造コストを下げようとしたのだ。
この結果どうなったのか。当時日本製の綴れ帯ならば、3,40万円は軽く越えたものが、大量に中国製を作らせたために、値が大崩してしまった。つまり2,3万円まで落ちたのだ。しかも、織り方が日本製に比べて稚拙であったために、質の低下を招き、中国製=駄目な品物というレッテルが貼られることになってしまった。しかも、日本での綴れ帯(特に夏物の絽綴れ)の生産は極端に減り、綴れで出回っているのは中国モノばかりということとなり、綴れ帯そのものの価値まで、下げるような結果となってしまったのである。
中国で作るということは、消費者に対し、これまで培ってきた帯屋としての捨松のイメージを根本から損なってしまうリスクが伴う。これに対処出来なければ、未来が無くなってしまう。
捨松はどうしたか。まず、製品のレベルを日本製のものと同じ、いやそれ以上のものを作ると決めた。中国で行うのは製織のみで、意匠やデザイン、色の配色などは、全て西陣で行うこと。また全ての品物を日本で試し織りすること。それに、日本の技術者を常駐させ、徹底的な技術指導を行うこと。そして、高いレベルに達しない品物を流通させないようにすること。
これらを愚直に実行し、時間をかけて手織り職人を養成することに努めた。その結果として、綴れ帯のような極端な事態にはならず、また良質であか抜けたデザインの品物という、これまでの捨松のイメージも壊れることにはならなかった。その上、これまでの日本製の手織り帯と遜色ないものを、高額になりすぎずに価格設定出来る、というメリットも生まれたのだ。
これは、やはり人を育てるということに、注力したことが大きな要因だろう。今、日本の若い技術者を育てているのと同じ姿勢がここにも伺える。中国人であれ、日本の若者であれ、モノへのこだわりは、人へのこだわりだろう。人であることは、日本人も中国人も同じだ。
現在、捨松の品物の7割は西陣で、3割は中国で作られている。元来、織の技法は中国から伝わってきたもので、中国の人々の手先の技術は伝統的に高い。西陣織の技術を中国に伝えることは、「先祖帰り」のようなものと、捨松自身がHPで書いている。
さて、次回はこの暖簾をくぐって、店の中をご案内しよう。そして、捨松でなければ織ることの出来ないような、モダンで洗練されたデザインの品物をご紹介したい。
外国で仕事を請け負わせるということは、全て悪いことではありません。織りの技術が優れていれば、それは日本人が織っているものでも、中国の人が織ったものでも、「質の良い品物」であることに変わりはないのです。
もちろん、多くの日本の若者がこの技術を習得して、未来へつなげていくことを期待するのは、言うまでもありません。
これは、海外請負と言っても、袖、身頃、衿などをそれぞれバラバラにして縫い合わせるような、分業化したキモノの海外仕立てとは、根本的な考え方が違います。もし、私が海外仕立を容認するとすれば、一人で裁ちから縫いまで全てが出来て、柄合わせやぐしなども完璧な仕事がこなせる人が養成されているならば、ということになるでしょう。
技術を育てるというのは、人を育てるということであり、コスト削減だけを最優先するような仕事は、到底受け入れられるものではありません。その辺の違いだけは、明らかにしておかなければなりません。
今日も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。