バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

郷愁の山里 南会津・木賊

2013.10 20

時間の制約がない旅というのが一番贅沢なことだと思う。自由に自分らしく、思うままに「時間」を使えることは、ある程度「若い時」でなければ難しい。

「むかしたび」は私が「自由に時間を使えていた頃」の話であり、私自身の「アーカイブ」でもある。変わらない土地もあれば、変わり行く風景もある。昭和は、確かに今より不便で、非効率だった時代だが、だからこそ、感じられた心象風景がある。そんなことを伝えたくて、ブログに、このカテゴリーをつくった。

今までとりあげたのは、「十勝三股」、「濁川温泉」、「内モンゴル」、「嶮暮帰島」。いずれもかなり「バックパッカー色の濃い場所」というか、マトモな方には「訳のわからない場所」だ。

私も「濃い場所」ばかり歩いていると、たまには「癒し」をしたくなる。丁度今頃、「晩秋」に近づくと、どうしても訪ねたくなるところがあった。

「週刊新潮」という雑誌の表紙を、25年にも渡って描き続けた「谷内六郎」。彼の描く絵は、「にっぽんの原風景」ともいうべき情景をモチーフにしたもので、その頃日本のどこでも見られた風景の「四季折々の姿」を「抒情的」に切り取っていた。

谷内の絵は、雑誌創刊時の昭和31年から、59歳の若さで亡くなる昭和56年初頭まで使われていた。これは、まさに日本の高度成長の期に当たる。「昭和」が一番輝いていた時代とも言えようか。彼が描いた「農山村の四季」は、そこに暮らす人々の日常であり、特別な景観や、「観光地」ではない。

この「日常」の風景こそが、現代では「失われつつある」光景であろう。「過疎化」に伴う「限界集落」、放棄されて人々が消えてしまった集落はどれ程あるだろうか。この国で暮らすことが、「都市」でしか出来なくなるとすれば、大げさにいうと「心を失う」ことに繋がりかねないだろう。

谷内の絵の中で、晩秋の風景を描いた作品がある。それは、葉の落ちた柿の木の下で遊ぶ小さな子どもたちの姿を、山里の素朴な風景と共に描いている。「郷愁の山里」とも呼べる絵であり、心に残った。これからお話する「奥会津・舘岩村木賊集落」はそんなところである。

 

昭和50年代、会津に行くのはかなり「不便」であった。東北新幹線が大宮ー盛岡間で開業したのが、昭和58年のこと。東北へ行くのは「夜行列車」が定番だった。

会津地方はかなり広い。中心都市の会津若松へいくなら、東北本線で郡山まで行き、磐越西線に乗り換える。この当時、上野から一往復だけ特急「あいづ」号が走っていて、所用時間は3時間40分。若い頃「窓の開かない」特急は分不相応で、利用したのは、急行「ばんだい」号。これだと夜11時に出て会津若松には朝5時に着く。会津でも西の新潟に近い只見や会津川口なら、上越線の小出まで行き、只見線に乗り換える。急行「佐渡」を使っても小出で接続が悪ければ、只見まで五時間以上かかる。

さて、今日お話する「木賊(とくさ)」は南会津の舘岩村(今は町村合併で南会津町になる)にあるが、ここに行くには、上に紹介したルートとはまた別の経路を使わなければならない。今は新たに「野岩鉄道」が開業して、南会津に行くには大分便がよくなったが、この時代は、それがなく、鉄道とバスを乗り継がなければならず、また「バス」の便が少ないため、かなり遠いところに感じた。

東武鉄道は、当時温泉地として賑わっていた「鬼怒川温泉」まで「きぬ」という特急電車を走らせていた。昔、日光と鬼怒川温泉は近接した観光地であり、東武としても「特急」を走らせるだけの価値がある路線だった。(当時としてはめずらしく特急料金800円を別途に取っていた)。

朝の浅草発鬼怒川公園行きの快速急行「だいや号(快速料金300円)」で終点の「鬼怒川公園」までゆく。所要時間は2時間40分。ここから会津乗合バスで五十里ダムのほとりを走り、会津へ入る。途中栃木と福島の県境にある「荻野」という集落で会津田島行きに乗り換える。県境を越えるバスの所要は2時間。今は先に話した「野岩鉄道」の開業により、この区間に鉄道が引かれ、浅草から会津田島まで直接行ける。時間も半分ほど節約できるようになっている。

 

バスの終点田島まで行かず、途中の会津滝の原で降りる。ここは、会津若松を起点とした会津線の終着駅、といっても「民家」が数軒あるだけだ。この頃まだ、会津には「藁屋根」の家が多く残っていて、「藁葺き職人」もいた。このあたりまで来ると、古い家の作りが見受けられる。会津に行くのは、秋が深まった11月が多かったので、農家の庭先は、柿を吊るしたり、漬物用の白菜を並べている。冬の訪れがもうすぐそこまで来ている。

木賊へ直接入るバスは平日の夕方一回だけ。このことからも、かなり「不便」なことがわかる。ただ、木賊集落の入り口を通る路線(中山経由山口行き)があり、それに乗る。山口は舘岩村の隣村伊南村の中心地で、桧枝岐への起点となっている。ただそのバスとて、一日四便である。

木賊を知ったのは、「山と渓谷社」の出している雑誌からだと思う。今でもこの出版社は登山関係の紀行書を多く出しているが、情報が少ない30年前では、「登山者」しか知らない温泉が数多く本に掲載されていた。この木賊からは宮里林道が伸びていて、「帝釈山」や「田代山」の登山道になっている。田代山は、頂上一帯が湿原になっていて、夏には尾瀬同様、数々の高山植物に出会える場所である。しかし尾瀬とは違い知られた観光地ではなく、ごく限られた人が知っている山である。だから、この木賊には素朴さがそのまま残されていた。

木賊の温泉というのは、集落を流れる「西根川」沿いにある「共同湯」のことだ。道路から川に降りると、「屋根だけトタンをかけた」半分露天の風呂がある。この風呂の写真を見たのだ。入っているのは集落の人や登山者、そして渓流釣りに来た人くらいである。また、この土地が「平家の落人伝説」に伝えられる(住人のほとんどが橘という姓である)ところで、交通不便な場所というのも、気になった。そして、訪ねることにしたのだ。

 

木賊入り口でバスを降りると、集落まで7kの道を歩く。もちろんそんな広い道ではなく、まだ未舗装だった記憶がある。約一時間ほどの、この田舎道がよい。家は道沿いにたまにあるだけ。道の両側には道祖神や石仏がある。コスモスが咲き、ススキ原も広がる。農家の庭先の木には、取り残された柿の実が一つ二つ残る。車もほとんど通らない。朝、東京を出ても、ここまで来るとすでに夕暮れである。

集落の中心に近くなると、「火のみやぐら」があり、ねんねこ半纏を着たお婆さんに背負われた子どもや、手作りの綿入れを着た子どもたちが庭先で遊ぶ姿が見える。まさに「谷内六郎」の描く「郷愁の山里」の風景そのまま。

「晩秋」の日本の風景。おそらく、あの頃田舎では普通に見られた風景。懐かしくて暖かい、そしてまさに癒される風景である。もちろん「共同湯」の魅力もあるが、木賊の良さは、ここにあった。

共同湯は、二つの浴槽があり、「硫黄泉」。泉度は40℃以上ある。コンクリートの洗い場とスノコ板で出来ている。目の前はすぐ西根川の畔。まことに素朴な作りだ。宿は集落の最奥に「井筒屋旅館」が一軒だけある。この宿に泊まったが、やはりここにも川の畔に素朴な露天風呂があり、浴槽の底の岩から湯が湧いている。夕食もイワナ塩焼きや山のキノコや山菜、そして会津そばなど、豪華さはなくても心のこもった地場のものばかりで、料金も格安である。

朝、もう一度共同湯に浸り、再び元の道を歩いて戻る。すぐに長い雪の季節を迎える奥会津の山深い里は、日本の原風景を実感出来るところだった。

 

あれから30年以上。木賊も大分変わったようです。昨今の「秘湯ブーム」で、ここの湯を訪ねる「観光客」が増え、例の共同湯には地元の人が入らなくなり、他にも「湯」を作ったようです。宿や民宿もかなり増えたようで、「観光地化」が進んでいると思います。時間が経てば土地の状況や雰囲気が変わってゆくのはある程度仕方がないことで、木賊にとって、訪れる人の増加は「悪い話」ではなく、「観光という生活の糧」を得たことが重要で、それにより、極端な過疎化や若い人の流出を防ぐ一定の「歯止め」になっていると思われます。

その反面、「日常の素朴さ」が薄れていくことに違いなく、私の持つこの土地の印象は「昭和の昔のこと」でありましょう。こういう「変わり行く」場所を今、訪ねるのは勇気がいることで、私自身は「昔のイメージ」をそっと持っておきたいと思います。

 

会津には、この他に伊南村の小豆(あずき)温泉や金山町の玉梨温泉、そして「からむし織」の生産地として知られる昭和村の昭和温泉など、あまり知られていない素朴な温泉が沢山あります。もしかしたら「木賊」より素朴で、「山里」を実感できるかも知れません。

今は、「谷内六郎」の描いた村の風景が、この国から消えることのないように願うばかりです。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

(南会津・木賊 行き方)

浅草より東武線、野岩鉄道乗り入れ会津若松行き 会津高原下車

山口、または尾瀬沼山峠行きバス 木賊入り口下車 徒歩一時間半ほど(7k)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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