バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

空想花文・唐花文のルーツを再考する(前編) 牡丹唐草と宝相華

2021.09 11

よくお土産として、携帯ストラップやキーホルダーを貰うことがあるが、使っているうちに自然に外れたり壊れたりして、どれもそれほど長い間持つことはない。けれども、私のスマホストラップは、もう12年も同じものが付いている。ネジや金具が緩むことはあっても、その都度直せば元に戻る。そして紐は頑丈で、まだ一度も切れていない。

このストラップは、次女が高校二年の時に沖縄修学旅行で、私に買ってきたお土産。キャラクターは、沖縄伝説の獣・シーサー。顔と体は黒と黄色のツートンカラーで、大きく開いた口は赤く塗られている。「シーサーにも色々あるけど、この色相の品の無さがパパのイメージ通り」と言って渡されたもの。その奇怪な風貌の御利益なのかは判らないが、とにかく長い間手元を離れず、この間には大きな災いを受けてはいない。

 

シーサーの原型は獅子・ライオンとされているが、もちろん実在しない伝説上の動物。現存する最も古い像は、沖縄本島南部・八重瀬町富盛の石彫シーサーで、1689年に建立されている。これは、火災が多かったこの地区の「火除け」を祈願する意味で設置されたものだが、この獣の御利益は絶大で、以後火事は起きなくなったと言う。以来、魔除けや厄除けの意味を持つ「守り神」として沖縄の人々から尊重され、その多くは家の屋根の上に置かれて、周囲に睨みを利かせている。

神社や寺の入口に建つ「狛犬」も、その起源は古代ペルシャにおけるライオン・獅子であるが、その風貌は、犬のようにも獅子のようにも見えている。この獣が日本に伝来したのは、飛鳥~白鳳時代と古く、仏教と共にやってきたと言われている。獅子は、古代オリエントでは「聖なる守護神」として崇められていたが、おそらくその意味も含めて、信仰場所の門前に設置されたのではないか。なお狛犬は、中国の唐から朝鮮を経て伝来したために、元々は「高麗(こま)犬」と呼ばれていたようである。

 

6世紀に仏教が伝来したのを契機として、大陸から様々なものが伝わってきた。もちろん文様も同様であり、仏教文化が隆盛を極めるにつれて、寺の建立に伴う荘厳具や工芸品の発達は著しく、そこにあしらわれる図案も華麗に複雑化した。

そしてモチーフは、様々な図形を組合せた幾何学構成文を始め、天体や気象に関わるもの、植物や動物や人の姿、また生活に密着した器物など、多種多様な文物が見られるようになる。またシーサーや狛犬のような、「実在しない伝説の獣」も登場する。それが、麒麟や鳳凰、含授鳥(花喰鳥)や龍などだ。

この空想的動物文に加え、随所で彩を添えたものが、空想的植物文・唐花唐草文様である。この花文のモチーフを特定できる花は無いものの、その原型とされる植物は幾つも掲げることが出来る。このブログでも、これまで何回かこの「唐花文様のルーツ」について述べてきたが、奥が深く多岐にわたる図案だけに、まだお話し出来ていないことがたくさんある。そこで今日から二回に分けて、久しぶりにこの天平の空想花文のことを考えてみたい。まず今回は、牡丹をルーツとする唐花文と、最も豪華な宝相華(ほっそうげ)文について掘り下げることにする。

 

空想の花・唐花文。ほとんどのあしらいは、多様な形の花を用い、これを規則的なリズムで繋げながら、図案・文様としている。一種独特の花の雰囲気は、伝来してきた地域各々の感性が融合されており、だからこそ、他に比類のない優れたデザインとして、今なお多くの染織品の中で息づいている。

以前、唐花の起源となっている二つの植物、忍冬(パルメット)と蓮(ロータス)についてお話ししたことがあった。この二つに端を発した唐花文は、仏教の伝来とともに日本へやってきた図案と考えられ、いわば装飾の草創期を彩った先駆的な文様である。

 

607(推古天皇15)年に創建された法隆寺は、聖徳太子ゆかりの寺であり、仏教黎明期である飛鳥期の信仰の姿を今に伝えている。この法隆寺における美術工芸や建築は、仏教文化が伝来してきた中国六朝や隋の影響を強く受けており、そのあしらいこそが、大陸や朝鮮半島を経由して日本に伝えられた、「新しき国際的文様」であった。

信仰の対象物を納める玉虫厨子は、法隆寺を代表する美術工芸品だが、この宮型厨子は、上から宮殿・須弥座(しゅみざ・仏像を安置するところ)・台座の三層で形成されている。各々の階層縁を飾る透かし金具の下には、緑色の玉虫の羽を伏せてあり、これが「玉虫厨子」と呼ばれる所以である。

この縁金具に透かし彫りであしらわれている唐草文様が、忍冬(すいかずら)文であることから、パルメットが日本における唐草文の原点になっていると推察される。また玉虫厨子だけでなく、法隆寺献納宝物の金銅製四十八体仏や幡(はた)、そして中宮寺所蔵の刺繍工芸品・天寿国繍帳にも、美しい忍冬文様の姿を確認出来る。

 

だがこのパルメット文様は、決まった形はなく、様々なデザインが垣間見える。そして、モチーフは忍冬に関わらない他の花、例えば蓮などを類推させることもある。例えば、先ほどの玉虫厨子のあしらいでも、単独のハート型あり、半分に割って蔓を配した形あり、さらに縦割り花の半分を並べた図案ありと、その文様構成には、一筋縄ではいかない複雑さが見て取れる。

このように形に捉われることなく、モチーフの花の形は姿を変え、それに伴って文様の構成も変わっていく。特にパルメットには、模様全体にリズミカルな流麗さが伺え、その形には、見る者の居住まいを正させる厳しさと美しさがある。だからこそ文様として、古来から多くの国で使われる、いわば「普遍的文様」となり得たのであろう。

この優れた外来文様は、日本が国際関係を大きく広げる飛鳥期から、強大なエネルギーを持って押し寄せてきた。そしてそれが大きく花開いたのが、天平という時代であった。では、唐文化の影響を強く受けて発展した二つの唐花文、宝相華と牡丹唐花について、見ていくことにしよう。

 

(牡丹唐花文 九寸織名古屋帯・斉木織物)

牡丹の原産国・中国では、その大ぶりで豊麗な花姿から「百花の王」と呼ばれ、富貴の象徴とされてきた。隋の時代には、皇帝・煬帝の離宮である西苑に植樹されたが、唐代に入ると民間にも栽培と鑑賞が広がった。こうした牡丹鑑賞の流行が、文様が生まれる契機の一端を担ったと考えられる。

日本に牡丹が渡来したのは、聖武天皇の天平期とされているものの、栽培の記録は残っておらず、植物として文献に見られるのは平安期以後。つまり、奈良期の牡丹文は実物によらず、外来の文物にあしらわれた文様をそのまま写し取った姿と、類推される。

この帯図案は、規則性を持つ配置で牡丹の花と唐草が並んでいる。この唐草は、牡丹本来の葉とは程遠い装飾的な図案であり、蔓や枝の曲がり方や伸び方には、外来文様特有の動きが見られる。

 

(切金に有職牡丹唐草文 金引箔袋帯・紫紘)

奈良期に外来した牡丹モチーフの唐花文は、花の各部分、開いた花弁・蕾の状態・種子・茎・葉などを素材として使って構成したものや、デザインとして思い切り簡素化したものがある。文様は時代が進むにつれて、図案化された意匠から写生的な要素を多く含んだ模様へと、変化を遂げる。

この帯にあしらわれている牡丹唐花文は、最初の帯の文様と比較すると、オリエンタルな唐草というより、和的な唐花文に変わっているように思える。こうした牡丹唐草の様式は、自在で多様にデザインされていた天平の文様とは違い、一定の形式に縛られた変化の乏しい文様になっている。

この唐草文は鎌倉から室町期前後に、中国の宋や元、あるいは明から輸入された絹織物(錦・金襴・緞子・モール・間道など)にあしらわれていた文様意匠、いわゆる名物裂(めいぶつきれ)の中の一つで、それは公家装束に使われた織文様・有職文でもあった。この牡丹の葉形は写生的であり、どの図案もほとんどパターンは変わらない。同じ「牡丹唐草」であっても、初期の多彩な姿と比較すれば、その違いは歴然としている。

こうして並べて置いて見ると、文様の違いが一層はっきりする。やはり、右の名古屋帯・牡丹唐花はデザイン的で、左の袋帯・牡丹唐花が写実的。天平唐花は、多彩に姿を変える革新的な図案、一方有職唐花は、一定の様式を守る保守的文様と言えそうだ。

 

(宝相華文 型絵染帯・トキワ商事)

宝相華(ほうそうげ)とは、もちろん空想の花文様であるが、そのあしらいは、多彩な文様の花が大きく開いた天平という時代を象徴するような、華麗な姿が見える。では何故、この文様を宝相華としたのかについては、確証する資料が無い。

だがこれは、仏教でいうところの「宝蓮華(ほうれんげ)」の意を理想化した花の姿、つまり物事が到達する美と善を完全な姿の花として創造したという説がある。そしてもう一方で、用いられている花のルーツを、「仏桑華(ぶっそうげ)あるいは扶桑華(ふそうげ)」とする説もある。

この花は、アオイ科フヨウ属の植物で、いわゆるハイビスカスである。芙蓉とか槿(むくげ)も同族であるが、花の形態をみればモチーフと言えなくもない。だが、ルーツとなっている植物は他にも様々あり、この花に限定されるものでも無い。宝相華と仏桑華。読み方の音は似ているが、それだけで文様の名前を特定するのは、心もとない。

文様はインドを起源とし、ササン朝ペルシャの植物文やギリシャの忍冬文とも関りが深いとされるが、具体的な伝達経路や図案の変遷には謎が多い。シルクロードを経て伝わった唐では、この華麗な花文が大流行し、後に遺跡から出土した錦には、数多くの宝相華文があしらわれている。

唐の宝相華は、中国で百花の王と位置付けられる牡丹と、インド仏教の象徴である蓮華を融合した図案が多く、それが朝鮮半島から日本へと伝達された。正倉院御物における象徴的な宝相華文・紫壇螺鈿五弦琵琶(したんらでんごげんびわ)の図案を見れば、そこにあしらわれた花は、やはり牡丹をイメージしていると判る。つまり日本における宝相華文のモチーフは牡丹が中心となり、そこに他の様々な花を組合せて形成しているとみられる。唐の影響を強く受けていることが、図案からも理解出来よう。

だがこの宝相華文も、前述した牡丹唐花文同様に、平安時代に「和のエッセンス」が加わって次第に形式化する。そして天平期に見える迫力のある壮麗さは影を潜め、鎌倉期以後は、有職文に象徴される定型化した牡丹唐草へと移行していく。

 

(宝相華文 袋帯・紫紘)

(宝相華文 京友禅黒留袖・菱一)

上の画像にみえる袋帯と黒留袖の宝相華文は、多弁花を重ねて円形に象っているが、こうした放射状に広がる装飾模様のことを「ロゼット」と呼ぶ。ロゼットは太陽の光をイメージしたとされるが、その形をロータス=蓮と見ることも出来る。いずれにせよ、複数の花弁が幾重にも分割され、それが鏡のようにも見える極めて装飾性の高い、美しい文様となっている。これが、現代の染織に見られる「典型的な宝相華文」であろう。

 

久しぶりに唐花の文様についてお話してみたが、如何だっただろうか。「文様モチーフのルーツを探る」と大見出しを付けたものの、とても読まれた方が納得できる説明にはなっていないだろう。あしらわれた文様は地域より、意図するモチーフが違っていて、それが伝来した地域ごとに変容していく。だから、どこを切り取って説明したら良いのか判らなくなり、終いには何をどのようにお話しているのか、判らなくなる。それだけこの文様が、とりとめもなく多様で、多彩で、壮大と言うことになるのだろう。

この美しい装飾文のことを、知識の乏しい呉服屋が語り尽くすことなど到底出来はしないが、次回も、アカンサス、ナツメヤシ、ロータスについて、品物を交えながら話を続ける予定。またまた、理解し難い内容になってしまうが、どうかお許し願いたい。

 

スマホにくっついている怪しいシーサー。その名も「怪しいサー」。ガラケーに11年、そして今年の春からは、切り替えたスマートフォンの傍らで、大きく口を開きつつ、バイク呉服屋の身を守っています。

不気味な赤い口と、黒と黄色に染め分けたフォルム。辺りを眺めまわすその表情は、まさに「魔除け」。ですが、これだけ長く持っていると、壊れた時には何かが起こりそうな気がします。それでなくても怪しい疫病が流行っているで、せめて収束するまでは、わが身を守ってくれるようお願いしたいものです。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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