バイク呉服屋の忙しい日々

現代呉服屋事情

コロナ禍での染織工芸品の現状(前編) 厳しさ増す流通と製造の現場 

2021.04 19

工業製品とは、製造設備や体制を増やすことで、生産量を簡単にコントロール出来て、同じモノを容易に再生産出来る製品のこと。工芸製品とは、手仕事の作業で作るために、熟練した腕を持つ職人を増やさない限り生産数は増えず、同じモノの再生産も難しい。つまり工業品と工芸品の違いは、手工業的に作られているか否かの差である。

これは、うちの取引先でもある廣田紬の公式ブログ「問屋の仕事場から」の中で、工業品と工芸品の違いを論じて、結論付けたものだ。執筆している廣田君は、呉服業界では珍しく、多岐にわたって様々な情報を発信している優秀な若手だが、稿では、工芸品と言えども、希少性には差があることを論じており、こだわりの逸品を求めるためには、品物がどのような背景で作られているのか、考慮する必要があると説いている。

 

ただ、手を掛けた工芸品と言えども、利益を生み出す商品とするためには、ある程度のロット数(一回で生産する時の量)が必要で、一点ずつ生産していたのでは、掛かり過ぎるコストを消化できず、とてつもなく高額になってしまう。製造にあたる初期費用を捻出するためにも、ある程度の数を一度に作ることが、どうしても必要になる。

だがしかし、下がり続ける呉服需要の中で、数をまとめて生産することに限界がある。作らせても売りさばけなければ、メーカーは過剰在庫を抱えることになる。作り手には先に賃金を払わねばならず、買い手が付かなければ利益どころではない。だからこうしたリスクを回避するために、一度に生産する量は限りなく減っている。

廣田君の稿によると、大島は品物にもよるが、1ロット8反程度から。そう言えば染メーカーは、新しく型紙を起こした小紋でも、色違いで5色程度しか染めていない。また精緻な図案の手機帯などは、同じ柄を二本くらいしか織らない。以前紫紘の担当者からは、材料に本金銀糸を使うコストのかかる引箔帯などは、一本ずつ製織していると聞いた。このような工芸品、それも希少性を持った品物になればなるほど、人の手間を必要とする。手間=コストであり、それはどうしても、価格に反映せざるを得ない。

 

およそこの30年というもの、キモノや帯の需要は減り続けた。それと同時に製織や印刷技術が進歩し、低コストで大量に生産された品物が、業界を席巻する。言わずと知れた「インクジェットモノ」である。今や呉服店やレンタルショップの扱う振袖の9割近くが、このインクジェット品で占められている。また袋帯も、糸質を落とし配色数を極力抑えて自動製織される「低コスト品」が出回っており、その質の低下は目を覆うばかりだ。そして仕立すら海外ミシン縫製となれば、品物のどこに「手仕事」を見出せばよいのか、全くわからない。すでに現状は完全に、工業品が工芸品を圧倒しているのだ。

このコロナ禍により、さらに需要は落ち、終いには不要品扱いを受けるかも知れない。ソーシャルディスタンスが求められる限り、和装の出番はほとんど回ってこないことは、誰でも容易に分る。モノ作りの現場・メーカーも問屋も、無論小売屋も、この状況で先行きを見通すことなど出来はしない。

 

この極端な需要の減退は、真っ先に生産現場に影響を及ぼす。これだけモノが動かなければ、新しく染めたり織らせたりするはずがない。インクジェットのような工業染織品ならば、機械を止めれば済むことだが、手仕事の工芸品は、工程ごとに職人が存在する「分業」を基本とするので、受注が止まれば職人の生活は逼迫し、終いには廃業する者も出てくる。実際にそんな話を、このところよく耳にする。

分業なので、モノづくりのどこかの工程で職人が消えれば、品物の生産は出来なくなる。今、希少な工芸品ほど、脆弱な環境にさらされていると言えよう。そしてコロナが収束し、日常に戻った時にどうなるか。おそらくこのままでは、キモノや帯は安直な工業品だけが残ることなってしまうだろう。

 

もし、製造される品物が工業品ばかりとなったらどうするのか。その時は店を閉める他はない。専門店として扱うに足る工芸品が消失した瞬間、もう店が存在する意味は無くなる。バイク呉服屋も工業品を扱ってまで、この仕事を続けたくはない。

本当に今、危機を迎えている染織工芸品。未曾有のコロナ禍においては、人との関り方が変わり、ひいては、商いの方法も大きく転換せざるを得ないと言われている。好むと好まざるとに関らず、誰もがドラスティックな現状変更を余儀なくされるだろう。この状況下で、この先何をどうすれば、良質な品物を残すことが出来るか。もしかしたら、すでに絶望的な状況にありはしないか。呉服業界云々ではなく、大げさかもしれないが、これまで培ってきた伝統的染織そのものが、存亡の岐路に立っていると言えよう。

そこでこれから数回に分けて、コロナ禍において呉服という仕事をどのように捉え、継続していけば良いのか、お話ししてみたい。今回はまず、流通と製造の現状を考える。

 

カウンター越しに向き合い、お客様と直接話をやり取りすることが、仕事の基本。こんなバイク呉服屋の日常は、どんな状況になっても変えられない。顔を合せずして、品物を売ったり、直し依頼を受けることなど、私にはどうしても出来ない。

 

先月初め、竺仙の担当者が、浴衣見本を抱えて店にやってきた。例年春先に受注をするが、今年は昨年の品物がほとんど残っているため、極端に仕入れる数を減らした。花火大会や祭りは尽く中止になってしまい、浴衣や夏薄物を楽しむ機会はほぼ失われていたので、需要など生まれようも無かった。うちでは、昨年そんな状況を見こさずに、品物を買い入れてしまったので、完全に在庫過多だ。

竺仙の社員も、そんな小売の状況は言わずもがなであり、無理なことは言わない。そしてそもそも、今年染める柄数がかなり少ない。見本帳の代わりに携えてきたiPodの中の浴衣画像は、全部見るのにそう時間は掛からなかった。昨年、デパートを始めとする大型販売店では、浴衣の商いがほとんど出来ていない。だから当然、メーカーである竺仙でも、うちの店と同様に在庫が滞留しており、新たな品物を作り難い環境にある。

こんな「作り控え」の傾向は、染、織、そして小物に至るまで、ありとあらゆる和装関連メーカーに見られる。例えば、比較的単価の安い小物メーカーでは、総量を減らすだけでなく、扱うアイテムを限りなく絞ると言う。そして主力商品でも、売れ筋の色や模様を厳しく見極め、余計なモノは作らないと覚悟する。何より効率を優先させなければ、存続自体がすでに難しくなっている。

 

「品物を作りたくても、作れない状況」は、手描き友禅や各産地の織物、また手機帯など、いわゆる工芸染織品において、より顕著になっている。式という式の開催に制限が掛かっているため、手を尽くしたフォーマル品の需要など、当分見込めそうにない。またカジュアルモノも、人と会えず、集まることを控える日常では、装う機会はほぼ失われている。現状を考えれば、消費者に品物を購入する意欲を求める方が無理である。

需要はこれまでも、毎年右肩下がりに落ちていたが、そこにコロナ禍が重なり、完全にとどめを刺された形になった。しかも、回復が何時になるのか見通しは立たず、もし日常が元に戻ったとしても、人々の意識が変わり、儀礼のあり方も大きく変わる可能性がある。そうなると、和装の出番はなお減るだろう。

 

大松の手描江戸友禅色留袖に、龍村の宝相唐草文袋帯を合せて、店内に飾る。どちらも「工芸品」と呼ぶに相応しい手を尽くした品物と思うが、果たしていつ、見初める方が現れるだろうか。最近では、叙勲を受けるために宮中へ参内する方さえも、色留袖を誂えることはなく、レンタルで済ますことが多くなっていると聞く。もしかしたら、私が店を閉めるその時まで、こんな品物は残ってしまうかも知れない。

 

染織の工芸品は、高度な技術を持つ職人が生み出す美術性の高い品物であり、しかもそこには、作り手の個性がかいま見える。その技術と希少性を理解する消費者がいるからこそ、品物は買い求められ、それがまた次のモノ作りへと繋がる。いくら高い技術で良質な品物を作っても、売れないことには、仕事は継続されていかない。

精緻な友禅を手掛ける染メーカーも、現在のように需要が滞っている状態では、仕事の発注は難しい。友禅の工程は、図案を構想して草稿を起こすことから始まり、その後下絵描き・糸目糊置き・色挿し・模様下蒸し・糊伏せ・地染め・全体の蒸し・水元(水洗い)と続いて、完成に至る。

京友禅と江戸友禅は、全ての工程ごとに違う職人が担当する分業であり、加賀友禅は草稿と下絵、色挿しを一人の作家の手で行う。いずれにせよ、多く人の手が掛かるが、作ることを止めること即ち、職人の仕事が無くなることを意味する。これまでも誂えの数は減り続けており、作り手は我慢に我慢を重ね、何とか仕事を続けてきた。コロナ禍は、そんな苦境にあったモノ作りの現場に鉄槌を振り下ろす、まさにダメ押しの一撃となってしまったのである。

先が見えない中では、メーカーが元のように発注を戻す確証は得られない。現状を見る限り、今年中の回復はほとんど難しく、来年もかなり怪しい。どんなに冷静に見ても、悲観的な見方にしかならない。そのため職人たちは、仕事の現場から一人また一人と去っていく。作る人の手が全ての工芸品は、人が消えれば消滅する。それはもう、誰にも止めようが無い。

 

うちで扱う品物のメインは、カジュアルモノ。小紋や紬と、それに合わせる織と染の名古屋帯。着用する方の気持ち一つで装う普段着は、使う場面が限られるフォーマルモノより、将来の需要が見込めるように思える。何故なら、どんな時代になろうと和装を嗜む方が消えることは無く、そういう方ほど、より趣味的な品物を求められるから。

こうしたコアなお客様に対して、どうしても必要なものが工芸品であり、それに伴い、扱う専門店の存在もクローズアップされる。そして工芸品の中でも、作り方にこだわった逸品・希少品こそが求められる品物であり、この生産如何が、専門店商いの生命線になることは確かだ。

 

けれども最初にお話したように、コストを考えれば、一点ずつ別誂する訳にはいかず、ある程度まとまった数を一度に作らなければならない。とは言え、数反・数本単位なので、全体を見れば量的には本当に少ないのだが、こんな少量にも関わらず、すでに現状では捌き難くなっている。それほど、消費力・需要が落ちているということになる。

そんな中、メーカーとしては、何とかモノづくりを継続させようと、歯を食いしばって僅かずつ生産を続けてきたものの、今度の禍に直面して頓挫している。こうして、製造、流通、小売と業界すべての現場で、品物は動きを止めている。和装を取り巻く環境は、いつ元に戻るのかはわからず、そして、コロナ前の状態には、もう戻ることはないと考えている業界人が、圧倒的に多い。

さて、どう考えてもコーナーに追い詰められた染織工芸品だが、果たして、生き残る術はあるのか。それは結局、呉服専門店の存亡にも関わってくる。次回の稿では、バイク呉服屋の無い知恵を絞って、どうすれば打開できるか論じてみたい。

 

最近ではインクジェットで染めた品物でも、「友禅染」と称することがあるそうな。このことを聞いた時、私は開いた口が塞がりませんでした。友禅染とは、糊置き防染という技法を用いた模様染めのこと。それを糸目糊のかけらも無く、どこにも人の手が入っていないインクジェット品に平気で友禅の名前を被せるとは、非常識を通り越して不埒なことです。

コストと時間を要して作る工芸品が消え、安価に大量生産される工業品だけが残る時、世間からはきれいさっぱりと、呉服専門店は消えることでしょう。本当に残念ですが、そんな時代は、もうすぐそこまで来ているように思います。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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