バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

練達の染色師・吉岡工房の仕事(後編) 前衛的更紗文様・染帯

2021.02 13

二月も半ばを過ぎ、大学受験シーズン真っただ中である。長引くコロナ禍は、受験事情にも大きく影響を及ぼし、感染拡大や経済の急速な悪化によって、志望校の変更を余儀なくされた受験生も多いと伝え聞く。人生には運不運が付きものだが、この状況下で将来に関わる試験に臨む若者たちは、本当に気の毒である。年配者としては、結果はともあれ、全力を出し切れるようにと願うばかりだ。

 

私が大学で専攻したのは日本史。何故歴史を選んだのかと言えば、単純に好きだったからというだけ。今は判らないが、当時男で文学部に入るような輩は、まともな就職など最初から望まない奴が多かった。もちろん私もその一人で、「歴史で飯が喰える」とは到底思えなかった。そして、呉服屋を継ぐことも、全く念頭には無かった。

こうして好きで入った歴史の道だが、大学の授業は勝手が違った。まず1年時には、古代・中世・近世・近代と分けて日本通史を学ぶのだが、そこで必要とされたのが、「文書(もんじょ)を読む力」だった。歴史学は、何はともあれ様々な史料を読んで理解し、これを多方面から分析することが求められる。書いてあることを読み取ることは、基礎中の基礎で、歴史を学ぶ第一歩である。

しかし、史料に記載されている文字面は時代ごとに違い、その様式も各々異なる。古事記や日本書紀のような、一見漢文のように見えながら、日本語を漢文調に換えた「変体漢文」があり、平安以降の日記や随筆に使われた「仮名文字」もある。そしてそれが流麗な草書体で書かれていたりすると、全く判読不可能となる。そのため、文書の扱いや読み方を学ぶ「古文書学」の授業が別に開講されていて、そこで読む力を付ける。

 

そんな日本史を学ぶ者にとって、欠かすことの出来ない研究基礎史料がある。それが、叢書として刊行されている「国史大系」である。この古典的史料は、明治・大正・昭和と三度にわたって改訂され、文学や歴史研究には欠かせない基本書となっている。

掲載史料は、奈良飛鳥期から平安期にかけて編纂された国定歴史書・六国史(日本書紀・続日本紀・日本後記・続日本後記・日本文徳天皇実録・日本三代実録)を始め、歴代朝廷の高官名を記した職員録・公卿補任(くぎょうぶにん)や説話集として知られる宇治拾遺物語や今昔物語集、平安期の歴史書・四鏡(大鏡・今鏡・水鏡・増鏡)など。そこからは、律令制度下の日本の国の姿を、鮮明に伺い知ることが出来る。

この重要な国史大系の中に、延喜式(えんぎしき)という史料がある。これは、律令の施行細目を集めたものだが、宮中の儀式や行事について数多くの記述が見られる。ここに、当時の衣服や裁縫を司る役所・縫殿寮(ぬいどのりょう)の記載があり、そこに「雑染用度(くさぐさのそめようど)」として、30種類の色の名前と、各々の染め出しに用いる植物染料や材料の記載がある。

 

「蒲葡綾一疋 紫草三斤 酢一合 灰四升 薪四十斤 帛一疋 紫草一斤 酢一合 灰二升 薪廿斤」 綾一疋を葡萄色で染めるには、紫草を三斤用い、そこに酢(米酢)一合を加え、媒染剤として灰(椿の生木を燃やしたもの)四升を使う。使う薪の量は四十だが、薪量を多く使うことは、それだけ高温で染めることを意味する。

吉岡幸雄氏は、この史料の記載を忠実に守り、天平の色を再現した。古来の草木染により、見事に復元された日本の伝統色。それは、製作されたキモノや帯の中にも息づく。今日も前回に引き続き、練達の染色師・吉岡常雄・幸雄両氏の話をすることにしよう。

 

(白地 点描丸文に更紗文様 手描き染帯・吉岡幸雄 1993年 甲府市 U様所有)

「山らしい山も見えぬメキシコ台地が、ホネを過ぎるあたりから鋸歯状の山の連なりに一変し、目もくらむような断崖を、バスはあえぐように登り降りしていく。ようやくパウアトランに着いたが、ひどい山間の村落であった。」(季刊・染織と生活 第9号より 1975・6月発行)

1975(昭和50)年の1月、吉岡常雄氏は、メキシコ東北部の村・サンバブリドという僻村で生産されている樹皮紙(アマテ)を求めて旅に出た。上の一文は、交通の便の無いこの村に行き着くまでの行程を、記した一部である。続きを読むと、目的地のサンバブリドまでは、バスの終点からさらに数時間馬に揺られ、辿り着いている。

「幻の紫色・帝王紫」に魅せられた吉岡常雄氏は、欧州から中近東、さらに中南米を巡り、歴史や染色方法を詳しく調査していた。特に古代アステカ文明以来、貝紫を染める人々が残存しているメキシコ・オアハカ州のドン=ルイス村へは、何と6度も出掛けている。そして研究は、貝紫で染めた糸による織物や刺繍にまで広がっていく。この時探し求めた樹皮紙も、みずからの研究フィールドにおいて、出会ったものであった。

メキシコの樹皮紙・アマテ。樹木の皮を叩きのばして布や紙にする技法は、糸を織布にする以前から存在した極めて原始的なもの。動物画を線で描いた上の樹皮紙は、吉岡氏が村人から購入した。(吉岡常雄回顧展・奈良県立美術館 記念図録より 1989年紫紅社製作)

貝紫を求めて世界中に足を運ぶ中、様々な色や文様に魅せられ、それと並行して、日本の飛鳥天平の古代染織の解明に力を注ぐ。吉岡氏の作品には、旅の途中で、あるいは研究の最中で出会った品物のエッセンスが、満遍なく散りばめられている。では今残る染帯で、その一端を見ていくことにしよう。

 

吉岡作品の染帯構図としてよく見受けられるのが、丸文を均等間隔に並べたこのような図案。中に入る模様は様々だが、木や鳥を抽象化したものや、幾何学文が多い。

若き日の常雄氏は、桐生高等工業学校(現在の群馬大学)染織別科を卒業後、化学染料や蝋、糊を駆使して作品を製作し始めたが、その図案は見る者の頭を悩ませるような「前衛的」なもので、そのほとんどがキャンバス画であった。そして、シュールレアリスム・抽象主義的な作品を製作する作家集団・モダンアート協会の会友にもなり、同じ感性を持つ多くの画家や陶芸家と交流を持ちつつ、独自の世界を構築していた。

吉岡常雄氏の前衛的な絵画。(吉岡常雄回顧展 奈良県立美術展 記念図録より)

土偶のようなモチーフを並べたり、王冠か陵墓を象ったかのような絵。もちろん私のような凡人には、どのような意味があるのかは、さっぱり理解出来ない。

石までも染めたいという意思の下、生まれた作品。これは、東大寺や法隆寺の染織品の復元作業を行っていたのと同じ頃、製作されたもの。

色の気配や図案の雰囲気が、石に描いた絵と似ている。丸い文様は、グラデーションの付いた無数の小さな点で構成されており、その真ん中に実を付けた果実や鳥、小さな菱更紗文を配している。こうした装飾的な丸い図案は、常雄氏がイランやグアテマラなどの旅の途中でみつけた、マヤ・アステカ時代の紡錘車(糸に撚りをかけて紡ぐための道具)に似ており、そんなところからヒントを得ているようにも思われる。

何度も海外へ足を運び、貝紫を始めとする染織の研究を続けていた常雄氏は、行く先々の国の特徴的な図案を織り込んだ裂や敷物を、数多く持ち帰った。上の画像は、インドネシア・チモール島で使用していた男性用の木綿腰布。左右の絣は、四本の細縞と三本の太縞で、真ん中の図案には、面白く抽象化した動物や昆虫を置く。こうした裂は東南アジアばかりでなく、中東や南米、アフリカなど地球の隅々から蒐集されていた。

赤い冠羽(かんう)を付けたモダンな鳥の姿。こうした鳥は、正倉院に収納されている天平模様の中にも見られる。吉岡氏のあしらいとは、自分が海外から持ち帰った品々と、古い染織品の図案とを融合させ、そこに自身の「前衛的なエッセンス」を足し入れたものと見ることが出来よう。だからこそ、他には無い、複雑で美しく個性的な意匠になっているのである。

 

(白紬地 格子に幾何学石畳文様 手描き染帯・吉岡常雄 1985年頃)

これは、私の母親が使っていた染帯。モダンな図案を好む人だったので、おそらく自分用に仕入れたものだろう。昭和60年代の品物なので、これは常雄氏の作品か。

格子で区切られた中に、カクカクした幾何学文が入る。先ほどの丸文とは対照的な構図だが、どことなく醸し出すシュールな雰囲気は、共通している。但し双方ともに、柔らかい挿し色使いに特徴があり、それが帯のモダンな品の良さとなって表れている。

模様を囲む格子は、墨色で点を羅列して線にした後、蠟染めを使って青い色の擦れを付けている。こうした細かな工夫が、全体の色の見え方に大きく影響を与える。白く色の抜けた部分が、図案をすっきりと見せることに効果的な役割を果たす。とかく単調になりがちな幾何学図案も、模様の置き方次第で、とても斬新なあしらいとなる。

これはブータンの織物だが、生地は厚手のウールで水をはじくことから、雨具として使われている。ご覧になって判るように、縦横にまた規則的に幾何学文が配列されている。形こそ違えど、帯とこの織物のデザインは、どことなく関連性が見受けられる。この帯も、海外の染織模様を基礎とした上で、吉岡氏の感性によってアレンジされた図案と見ることが出来よう。

キモノや帯にとって、格子や縞で模様を区分する「割付文様」は、最もポピュラーで基本的なあしらいだが、この帯にみる格子幾何学模様は、伝統的な日本の匂いではなく、異文化の香りがどことなく漂っているように思える。こうした雰囲気は、描き手の豊富な海外経験と技術の裏付けが無ければ、生まれては来ないだろう。

 

二回にわたり、日本を代表する染色の練達師・吉岡常雄、幸雄両氏の仕事について、作品ご覧頂きながら話を進めてきたが、如何だっただろうか。

キモノは縞、帯は丸文と格子。基礎となる図案は全くポピュラーなのだが、その作品姿は他には類を見ない、斬新でモダンで個性的。図案の中には、作者の若き日の前衛的な感性が垣間見えるが、それがまた美しい。

常雄氏は学者であり、旅の人。幸雄氏は、美術ジャーナリストとしての側面を持つ。もしかしたら、こうした人としての多角的な側面があったからこそ、草木染による伝統色の醸成や、数々の天平染織の復元が成されたのではないだろうか。どんなに時代が過ぎようとも、残された作品を見れば、作り手の心に触れることが出来る。これからも、こうした貴重な機会を、出来る限り皆様におすそ分けしていきたいと考えている。

 

常雄氏も幸雄氏も、単に染屋の主人というだけではない、多彩な姿があります。ある時は学者、ある時は世界を旅する冒険家、ある時は有能な編集者、ある時は美術展覧会のコーディネーター。多岐にわたって発揮される才能が、本業である染の仕事にも、十分生かされているように思います。他では見られない個性的な図案や、植物染料による自然な色合いは、様々な経験を経て生まれた「結晶」と言えましょう。

一見無駄に思えることも、後から考えれば、実は貴重な経験だったということが良くあります。私がこうして、下手くそな染織に関わるブログを書けることも、嫌々ながら学んだ学生時代の歴史の知識が、僅かに、身に付いているからかも知れません。今は、もう少し真面目に勉強するべきだったと、後悔しています。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

なお誠に勝手ですが、明日14日(日)より18日(木)まで、都合により店を休ませて頂きます。頂いたメールの御返事も遅れてしまいますが、何卒ご容赦下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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