バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

伝統的工芸品の証紙から判ること(後編)  琉球織物編

2020.03 17

春の学校式典と言えば、卒業式と入学式。儀式の壇上に掲げられるものは、国旗・日の丸であり、必ず斉唱する歌は国歌・君が代である。私立ではわからないが、公立学校では欠かすことは無いだろう。

今は天皇陛下が、国の象徴として存在することを、国民すべてが理解しており、国歌は君が代で、国旗が日の丸であることも、認識されている。だが戦後、国の主権が国民に移った時には、国家と国旗を「戦前のまま」にしておいて良いのか議論が巻き起こった。特に君が代の歌詞は、「天皇の統治する世」を意味するもので、国民主権の国には相応しくないと考えられたのである。

一時期は、新しい国歌を制定する動きがあったものの、他の歌は普及しない。日本が国際社会へ復帰したサンフランシスコ条約締結以降は、戦前と同様に君が代が使われるようになっていったが、国歌としての法的な位置づけはあいまいなままだった。

その後、教育現場(教職員組合)を中心として、君が代を国歌とすることに抵抗感が根強く、個人の思想信条の問題とも絡めて、度々憲法問題にまで発展する。君が代が公式に国歌として法制化したのは、1999(平成11)年の8月で、新憲法制定後、半世紀以上も経ってからである。

 

旗や歌は、国民それぞれが「国」をどのように意識するかで、考え方が変わる。どちらも、国を象徴付ける重要な事象だけに、時として深刻な問題に発展してしまう。だが、国の象徴とされるものは、こうしたことばかりではない。

花や樹木、鳥や獣には、日本を象徴するものがあり、国を代表するスポーツ・国技がある。また、色にも「にっぽんの色」があり、和服は日本を象徴する「民族服」だ。これらを語る時は、旗や歌のような対立を呼ぶこともなく、穏やかである。

そうした中で、伝統的工芸品は、日本の「技」を象徴するものと言えよう。古くから日本人の生活の中に息づき、伝統的な技に基づいて製造されてきた。また、それぞれの工芸品が生まれた背景には、必ず地域の歴史や風土とが大きく関わっている。これはまさに、日本そのものが包括されていると言えよう。そこで今日も、前回に引き続き、伝統的工芸品の話をする。今回は、沖縄の織物に注目してみよう。

 

沖縄の伝統的工芸品として、最も早く指定を受けた久米島紬の証紙。

現在指定されている伝統的工芸品は、235品目。都道府県別に見ると、最も指定数が多いのが、東京と京都の17品目、次いで新潟の16品目、沖縄の15品目と続く。

呉服屋との関わりが深い染織品として、指定を受けているのは56品目。この染織部門の伝統工芸品に限ると、最も多いのが沖縄県の産品である。久米島紬・宮古上布・読谷山花織・読谷山ミンサー・琉球絣・首里織・琉球びんがた・与那国織・喜如嘉の芭蕉布・八重山ミンサー・八重山上布・知花花織・南風原花織の13品目。京都が7で東京が6、新潟は4品目。他県の数からすれば、図抜けて沖縄の染織品は多い。

14~16世紀の琉球王朝・尚氏の時代、沖縄は日本本土と中国、東南アジアを結ぶ貿易の中継基地として重要な役割を果たしていた。そこでは多くの国の文物が行き交い、そして多彩な文化が融合する。沖縄に多くの伝統的工芸品が生まれた背景は、この地勢的、歴史的背景と大きく関わる。

では、それぞれの染織品にはどのような特徴があるのか。証紙から読み取ってみよう。13品目全部はとてもご紹介出来ないが、代表的な品物を何点か取り上げてみたい。

 

(工芸品指定・1975年 久米島紬  検査:沖縄県・久米島紬事業協同組合)

沖縄の染織品は他産地と異なり、県による検査が実施されている。ただ、指定工芸品が13品目にも及び、地域も広範囲に分かれているので、検査場は地域ごと9か所に集約されている。

宮古や八重山、与那国などの離島は島ごとに検査所を持つが、沖縄本島では、読谷花織・ミンサーは読谷村、芭蕉布は大宜味村、琉球絣・南風原花織は南風原町と自治体ごとに分かれる。そして那覇市内には、首里桃原町に首里織・首里道屯織・花倉織・知花花織を一括した検査所が、また前島町には琉球紅型だけの検査所がある。

久米島紬事業組合の証紙には、正絹・草木染・泥染・大地染・手織の文字が見える。これは、久米島紬を伝統的工芸品と承認する告示を端的に表記したもの。この他に、経糸に生糸、緯糸に真綿手紬糸を使うことや、緯糸の打ち込みに手投杼を用いること、さらに絣糸の染色は手くくりによることなどの条件がある。

久米島紬は、糸つむぎ、染色、絣くくり、製織まで一人の手で行われる。そのため、製造者の名前は必ず記載される。そして組合証紙は、所属する組合員の手による製品であることも証明している。現在、久米島紬事業組合の組合員は121名、その中には伝統工芸士が20名在籍している。

また、上の画像の品物には「重要無形文化財」であることを示す証紙も見える。これは、2004(平成16)年に、国から久米島紬が重要文化財として指定されたことを受けて、それぞれの品物に指定要件を載せている。重文とされる案件にもあるように、久米島紬の染色は天然染料・草木染を使う。そのため、品物ごとに使っている素材を記載している。画像をよく見て頂くと、最初の証紙にソテツ・ティカチ・泥、二番目にはグール、三番目にはユウナ・藍の記述が見て取れると思う。

組合証紙の無い久米島紬。検査票の形態は違うが、草木染・手括・手織の記載があり、染料にユウナと藍を使用していることも判る。

このように、組合との関係や織元の方針により、組合を経由せずに流通する品物が存在する。これはもちろん贋作ということではなく、きちんとした製法に則った正しい久米島紬で間違いはない。組合を通さない理由は、費用の掛かる証紙代をわざわざ取得する必要を感じないからであり、個人や組合に未加入の織元で製作される品物は、こうしたケースが多くみられる。

また、組合を離れることで、製法が伝統的工芸品の告示条件に捉われることが無くなる。糸の素材が変更出来たり、染色に化学染料を使えるようになったりと、モノ作りに自由度が増す。組合の縛りをなくすことで、このような利点も生まれる。

 

(工芸品指定・1983年 琉球絣  検査:沖縄県・琉球絣事業協同組合)

琉球絣と南風原花織は、双方ともに南風原町で作られることから、県の検査所は同じ。画像では、事業組合の証紙とともに、反物には本場・琉球の織り出しが見える。この「本場琉球」の文字間に◇にトの印が見えるが、これが製作者の工房や個人名を表し、製作者が特定出来る。この◇トは、野原敏雄氏の印で、トは敏雄のトであろう。

琉球絣は、絣の原点とも言われている、沖縄の風土に根付いた絣柄を使っている。鳥を表現したトイグワー、犬の足跡を模したイヌフィサー、雲を示すフムなど、その数は60種類以上。これが基本パターンとなり、それが様々にアレンジされるため、図案は無数にある。

古い琉球絣の原料糸は木綿で、泥藍で糸染めした紺絣と白絣が主流。だが綿絣の需要が無くなるにつれて、原料は絹に移行する。染料も天然材だけでなく、化学染料も使うようになる。ただ、伝統的工芸品とする告示には、緯糸の打ち込みに手投杼を使うことと、絣糸の染色方法を手結、手くくり、絵図などと限定することが決められており、手仕事による伝統技法は守られている。

琉球絣事業組合の組合員は、南風原花織も含めて現在59人。そのうち伝統工芸士として認定されている方は、22人である。その内訳を見ると、意匠に4人、染色が2人、そして製織に12人の工芸士がいる。面白いのは、意匠と染色の工芸士は全員男性で、製織は全員女性であること。このことからは、絣の図案と糸染めは男性主体の仕事であり、織ることは女性主体の仕事として分れていることが判ろう。

沖縄県の検査は、沖縄県伝統工芸振興条例及び同施行規則に基づいたもので、これに合格した品物に、上の画像に見える「ガジュマルの葉に波と守礼門」の証紙を貼る。この証紙には二種類あり、織物類は全て黒地、紅型は水色地で「沖縄県紅型検査済之証」と記載される。

伝統マークと並んで貼ってある「南蛮船」の証紙は、沖縄県伝統工芸品の証紙。この証紙は、県産品であることの証明で、他産地の類似品との見分けを付け易くするためのもの。こうして県の検査を通った品物には、合格証と県産品証の二つの証紙が貼られる。

久米島紬と琉球絣でかなり話が長くなってしまったので、花織の証紙は簡単に見ていくことにしよう。バイク呉服屋の悪い癖は、原稿を書いているうちに、まとまりが付かなくなり、内容が尻切れトンボで終わること。沖縄花織については、また個別にお話しする機会を持ちたいと思っているので、お許しを頂きたい。

 

沖縄独特の花模様を織り出した花織(はなうぃ)は、琉球王府時代から沖縄各地で織り続けられてきた伝統織物。産地は、沖縄本島の読谷・首里と離島の竹富島、与那国島などがあり、模様や製法に土地ごとの特徴がある。

読谷花織は、模様だけに浮糸を使い、花柄と絣模様を組み合わせた図案が多いが、首里花織は、模様に色糸を使わず、組織を変化させて図案を作る。また与那国織は、地に色糸を緯に浮かせて、小さな四角を市松のように並べて、模様を構成させる。現在、首里・読谷・南風原・与那国の花織が、伝統的工芸品として指定を受けている。

(工芸品指定・1983年 首里織  検査:沖縄県 那覇伝統織物事業協同組合)

首里織の中に含まれる工芸品は、次の五品目。首里絣・首里花織・首里道屯織・花倉織・首里ミンサー。もちろんそれぞれに告示があり、これに従って作られたものだけに、伝統マークと沖縄県の合格証を貼ることが出来る。

今回は説明を省くが、五つの織物は各々に製法が異なり、使われてきた経緯も異なる。ただ、首里織の大きな特徴は、どれも琉球王府の王族や貴族が着用してきた優美で贅沢な織物であること。1976(昭和51)年に設立された組合・那覇伝統織物事業組合の事業目的にも、王族や王妃が着用した高貴な織物の技法を継承するためとある。

(工芸品指定・1976年 読谷山花織  検査:沖縄県 読谷山花織事業協同組合)

読谷山花織の工芸品指定は、久米島紬に次いで古い。手花(ティバナ)織と綜絖(ヒャイバナ)織による点で表現した花模様が特徴。明治末期から90年ほど途絶えていた読谷花織は、昭和39年与那嶺貞さん(後に重要文化財保持者として認定)が中心となって復元を遂げる。

首里織が貴族の花織とすれば、読谷は庶民の花織。その昔は木綿が中心で、ティサージ(手巾)や芝居、踊り衣装として使うことが多かった。なお、読谷山花織についての詳しい記述が、2018.5.9の「ティサージへの想いを、今に伝える」の稿にあるので、もしよろしければお読み頂きたい。

(工芸品指定・1987年 与那国織  検査:沖縄県 与那国伝統織物協同組合)

日本の最西端、人口1500人余りの与那国島で織られている与那国織。呉服屋が扱う品物は、花織の着尺や帯だが、工芸品として指定を受けているのは、木綿や麻で織る野良着・ドゥタティと、このキモノに使う綿の細帯・カガンヌプー、そして与那国のティサージ(手巾)・シダティ。この四品目の織がすべて、伝統的工芸品に含まれている。

与那国織は15世紀頃、東南アジアや台湾あたりから来航した貿易船が伝えたと言われている。二枚の花綜絖と一枚の地綜絖を使って織り出す模様は、地の表裏が交互に入れ替わって市松となり、表裏同一となる。これを板花(いたばな)織と呼ぶ。この技法は、古くから与那国のティサージ・シダティに用いられていた。

与那国織のティサージ模様は、白地に九本の太い横段で構成され、赤、黄、紺、茶、黒など七色ほどの色糸を使っている。島人が小さな船で海に乗り出していた時代、旅の安全を願って家族が手渡していたもの。それがシダティである。なお、与那国花織については、近いうちに、詳しくお話をする機会を設ける予定にしている。

 

さて、大島紬・沖縄織物と二回にわたって、証紙から何が判るかをお話してきたが、如何だっただろうか。

伝統的工芸品には、作り手が守らなければならない基準=告示が存在し、それを産地組合や自治体(沖縄では県が主体)が厳密に検査することで、質が保たれ、そして伝統的な技法が守られている。だから「伝統マーク」や「産地組合証紙」は、小さな印だけれど、そこに品物に関わる人たちの思いや、こだわりが込められているように思える。

ぜひ皆様にも、反物や帯の端に付いている小さな紙に、注目して頂きたい。なお、まだ伝統的工芸品は沢山残っているので、またいつか他の品物証紙をご紹介してみたい。

 

日の丸と君が代が、正式に国旗・国歌となるまでには、紆余曲折を経た長い時間が必要でした。ではこのことについて、象徴たる天皇陛下は、どのようなお考えをお持ちなのか。それを窺い知ることの出来るエピソードをご紹介しましょう。

2004(平成16)年に開かれた園遊会。その席である招待者(東京都の教育委員を務めていた某有名棋士)が、陛下に次のように話しかけました。「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事です」と。それに対して陛下(明仁天皇)は、「やはり強制的でないということが、望ましい」とお答えになられました。当時の宮内庁は、この陛下の発言の趣旨を「日の丸と君が代は、自発的に掲げて、あるいは自発的に歌うことが好ましい」と確認し、発表しています。

つまりは、何事も強制してはいけないということになるのでしょう。それは、国を愛すること、つまり愛国心とは、国から強制されて従うことではなく、国民の心の内側から湧きあがったものでなければ、ホンモノではないということです。こうした天皇陛下の考え方は、民主国家を象徴する君主として、尊敬に値するのではないでしょうか。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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